其の五 引き合いの花
八月に入ると来たる岸和田祭りに向けて、連日連夜寄り合いが盛んに行われ出した。そんな頃、瀬尾は仕事と両立して時より番組のロケに出向いては、忙しなくそのスケジュールをこなし頑張っていた。第一週目の放送は九月に入ってからとの事だったが、四週目の収録の為に岸和田祭りの当日、八幡町にロケに来て良いかと、プロデューサーからオレの返事を聞いて来てくれと頼まれたのだと瀬尾は言ってきた。勿論答えはOKである! その事を寄り合いで皆に伝えると、お笑い芸人の今田と東野が祭りに来るとあってみな期待に胸躍らせていた。
通常ならこの時期には寄り合いで割とたくさんの雑用があるのだが、一年間に渡り寄り合いを月に一度して来たので、提灯にカバーをするだとか細々した事柄はもうすでに済んでいた。なのでする事といえば、発注していたうちわやタスキなどの着用する物を業者に取りに行くだとか、花を交わしている町との交流や、何より大事な花寄せ(寄付金集め)、そして毎晩の走り込みなどが主な寄り合いでの行うべき事柄となっていた。そんな中、オレがいつもお世話になっている駅前の石原歯科に花を貰いに行った際、石原先生にある事を頼まれた。それは石原先生の高校一年生になる息子さんとその友達たちを、岸和田祭りに参加させてはくれないかという事だった。石原先生の家族とは以前から深い付き合いをしていたので、息子の総とも幼い時分から面識があった。ある時など瀬尾やタッケンなどオレの仲間内数十人で、奈良の吉野川にバーベキューに行った時も、石原先生の家族も同行していた。総達は祭り当日だけの参加だったが、青年団として引手が増える事は喜ばしい事だった。貸しハッピは何着用意しとけばよいかと尋ねると、正確な人数は追って連絡するとの事だったが、最低でも十枚以上は必要との事だった。この地点でその年の新団として新たに入団して来た者も含め、総たち清風南海高校テニス部を含めると、当日の引手は優に百人は超えていた。
更にこんな事もあった。前年度から花を交わしている戎町青年団の詰所に行くと、昨年の団長をしていた二つ学年が上の梶本君が、相談があると言ってきた。詳しい内容を聞くと、堺の太井町青年団から引き合いの花を交わしてくれと頼まれているのだが、生憎戎町はもう山手のとある町と引き合いの花を交わしているので、太井町とは引き合いの花を交わせないとの事だった。断ればよい話なのだが、頼んで来ている太井町青年団の兼山さんは仕事の関係上取引先の息子さんらしく、どこか良い町を繋いでやりたいとの事だった。
梶本君とは中学時代に面識があった。良い面識とは言えないのだが、あの中学一年生の時、中庭の庭球野球で場所を横取りして殴り掛かって来た先輩である。やられた事は覚えている。そしてオレの性格は蛇のようにしつこいが、オレもこの年の十二月で二六歳になるもう良い大人である。昔の事は水に流さなければいけない年である。そんな相手が頼みごとをして来たのである。昔の話をほじくり返してやりたい気持ちは無かったといえば嘘になるが、ここはぐっと堪えそして寛大な処置をとる事にした。
「わかった。ほなら一回その太井町の人に会ってみるわ」
「そうか武、そうしてくれるか! すまんなぁ~、助かるわぁ~、ありがとうやで!」
梶本君のその言葉で昔の恨みなど吹っ飛んだ。人は許し合い、そしてお互いに解り合えて行かなければ成長しないのである。
「武、会って双方の希望が嚙み合えへんかったら、気にせんと断ってくれてもええからな」
最後に梶本君はそう言ってくれた。
山手の町と引き合いの花を交わすとは、通常、引手の少ない町(青年団の人数が少ない)が、上の祭り、すなわち十月の祭りをしている町と、単純に言えば人数の貸し借りをするのである。例えば、九月の岸和田祭りである町の引手が四十人程で、だんじりを走らせるのにはかなり無理があった場合、同じような山手の十月の祭りをしている町に三十人の応援を頼むと、十月の祭りには三十人という人員をお返しとして動員するのである。
引き合いの花を交わす以外にもだんじりを走らせる方法はある。例を挙げると、だんじりのコマにベアリングを装備して、だんじりを走らせるとき軽くする方法である。現代では少子化の為、引き合いの花を交わした上でなおかつベアリングを装備している町もあるようだが、この時分はベアリングが世に出だした時代だった。うちの八幡町もベアリングを検討しなければと話が出た時期もあったが、平成十年のこの年、ベアリングがなくとも引手が百人を優に超えていたのでその話は流れた。
後日太井町の兼山さんに会ってみると、非常に感じのよい青年だった。話を聞くと太井町はこの年新調したらしく、ベアリングも装備しているが青年団が非常に少なく、四十人を下回っていた。そんな事もあり、意を決して引き合いのお願いに伺ったのが九月の祭りをする戎町だったという。正直このとき八幡町は人数には事足りていた。断りも出来たが、人が集まり人数が寄れば寄るほど祭りというものは面白いものである。それでいてこの平成十年の年は人員の不足なく曳行を円滑に行えたとしても、時代の流れでベビーブームは疾うに終わり、今後青年団が減少して行くのは目に見えていた。オレやオレの仲間内が青年団を卒業して十五人組(後ろ梃子)に上がった時の事を考えれば、今後、先の事を見越して悪い話ではなかった。むしろ後輩達に土台となる礎を築いてやる事も大事だと思った。なのでこれまで八幡町は山手の町と引き合いの花を交わした事がなかったが、兼山さんの申し入れを受け入れる方向で、皆の意見を聞いて返事をするとこのとき答えた。
太井町の助っ人の人員も、当日、二十人程しか行けないと言って来たが、そこは来れる人数で構わないとオレは答えた。
この事案を帰って青年団に話すと、武くんが決めたのなら俺達はそれに従い付いて行くと皆言ってくれた。後に山手の祭りの日、八幡町青年団の半数以上の者がオレに付いて太井町の応援に行く事になる。
この地点で祭り当日、八幡町青年団の引手の数は、百三十人を超えていたのである。