第三十四章『病気発動!』
その年の十二月、オレにとっては非常に寒い極寒の冬が訪れた。いや、正確に述べると、魅惑の暖かな部屋で、甘い時間を過ごしたが故に極寒が訪れたのである。
本を正せばそれは極寒の冬が訪れる一週間前、三浦のこれまで勤めていたサイディング会社の親方が、鳥取でログハウスを組み立てる仕事を請け負い、人手が足りないので二、三日出張に付き合ってくれないかと頼んで来たので、二、三日ならと了承したのが事の発端だった。
三浦の親方のノリちゃんは、桜子でもオレ達と飲み仲間だったので、その日の仕事が終わると、オレ達は米子市の繁華街にお姉ちゃんを求めて繰り出した。流れ着いたのはまあまあそこそこ綺麗なお姉ちゃんが接客するスナックだった。大阪弁は割とどの都道府県に行っても、
「キャ~、漫才師みたい!」
などと多少の面白い事を言えばモテるのだが、『山本武』と書いて、竹を割ったようないい男と読むように、オレは自分で言うのもなんだが、地元大阪でもそこそこウケるほどのコメディアン並みの芸と口達者な上に、容姿もココリコ遠藤に似ていたのでその店でモテない訳はなかった。お持ち帰り出来たのである。
ミュウちゃんの事が脳裏になかった訳ではない。魔が差したというか、いつも高級寿司を食べていると偶にはお茶漬けを食べたくなったというか、家のカレーしか食べた事がなかった場合、日本一のカレーは解らない訳で、隣の家のカレーや駅前のカレーがもっと美味しかったりする訳で、つまりどれが口に合うか試食した訳である。もう少し自身を下げる言い訳を繰り返すと、とにかく地方に来た開放感でたがが外れたというべきなのか、要するにピンクな病気が発動してしまったのである。
罪悪感がなかったのかと聞かれれば、据え膳食わぬは男の恥が前に押し出て来たと言っておこう。いや、オレもまだ二十代前半と若かったのである。しかし女という生き物は恐ろしい物で、オレに彼女が居ると知ると、そのお姉ちゃんは行きずりの恋だったのにも拘らず、オレの上着のポケットに、こっそりとホテルのライターを忍ばせていたのである。そうとも知らずに大阪に帰ったオレは、米子市の住所とラブホテル名が入ったライターで何気なくタバコに火を点け、ミュウちゃんの前でそのライターをテーブルに置くと、後はご想像の通り浮気がバレてしまったのである。
さてここからが波乱万丈の恋愛バトルが始まるのだが、結論から述べると、ミュウちゃんはお冠に御なりになり、オレとは口を聞いてくれるどころか電話をかけてもプチンと切られ、会ってもくれない日々が続いたのである。
自分で蒔いた種ではあるが、ミュウちゃんの心を傷つけてしまった事に反省の日々が続くと同時に、本人に謝罪したくても電話も受けてくれないのでオレは困り果てた。もう愛想をつかされて二人の関係が終わるのかと、内心胃に穴が空きそうなほど毎日が後悔の連続だった。オレは自営業だけに一人の時間が多く、一人になると考える事はミュウちゃんの事ばかりである。二人で初めて遠くへ出かけた志摩スペイン村パルケエスパーニャ、一泊二日の和歌山旅行、中国自動車道を飛ばして行ったスノーボード、奈良の東吉野川でのキャンプ、このキャンプの帰り道、山で迷い、山中で見付けた長屋の前で、雀卓を囲んだ外人さん達に道を尋ねると、
「ワタシタチ、ココニキテ、マダ八年ナノデ、ミチハ、ワカリマセン」
と言われた時、
「八年も住んでんのにかぁ~~いっ!」
と思わず二人してツッコんでしまった事。数々の思い出が何をしていてもオレの心の中で何度も何度も思い出され、彼女の笑顔を悲しみに変えてしまった事への罪悪感が自身を苦しめ、オレ以上に彼女が苦しんでいるのだと思うと、一言謝りたくて仕方なかった。
そんなある日の事である。オレはミュウちゃんの事を想いながら桜子で酒に酔っていた。悪酔いこそしてはいなかったが、桜子を出たとき電話を受けてはくれないと知りつつもミュウちゃんに電話を掛けてみた。やはり結果は同じだったが、プチンと電話を切られた時、オレは直接家に謝りに行こうと決意した。彼女は親御さんと一緒に住んでいるので、夜に家に押しかけても迷惑だとは思ったが、そこは酒がオレの背中を押したのである。オレは車を飛ばし、ミュウちゃん宅の前でもう一度電話を掛けてみた。二階の彼女の部屋から着信音が鳴った後、オレの受話器の呼び出し音が切れた。電話を切られたのだ。この時代はLINEなどメールのツールがまだなく、電話をきられれば意思の疎通を図る事は出来なかったのである。ガックリと項垂れながら自身の電話を見つめてどうしたものかと考えた。時間は夜の十二時を回っていた。一階のご両親が寝ている部屋も電気が消えていた。インターホンを鳴らして玄関からお邪魔する時間は疾うに過ぎていた。仮にインターホンを鳴らして、
「どちら様ですか?」
「米子市で浮気をしてお宅の娘さんを傷つけてしまった山本武くんです」
「お入りください」
「ありがとう」
などと、桑原和男のように上手く行くとは到底思えなかった。
家の前から彼女の部屋を眺めると、その時スタンドライトの灯りが消えた。
(今ならまだミュウちゃんは起きている。顔を見て一言謝ろう……。自分のしでかした事だから、謝ってそれで許してくれないのなら男らしくきっぱりと諦めるしか仕方がない!)
そう決意すると、オレは携帯を後ろポケットにしまい込み外壁に手を掛けた。言っておくがオレはストカーなどではない。実際この時は信頼を失っていたが、ミュウちゃんとオレの基本的な信頼関係があっての行動である。目指すは月夜に照らされたベランダ付き二階のジュリエットの部屋である。外壁から次は雨どいに手を掛けて慎重に音を立てないよう更に上を目差した。そしてようやくベランダの手すりに辿り着くと、オレは片足から慎重にベランダに足を下ろしたその時、低い位置に物干し竿がある事など知らなかったオレは、物干し竿に足を掛けてしまい、
「ボキィ~~~~ッ!」
ともの凄い音を鳴らして物干し竿を折ってしまったと同時に、すってんころりんと胴体からベランダに落ちてしまった所に、更にもう一本の物干し竿を折ってしまい、地響きがするほど大きな音を立ててしまったのである。そしてベランダの戸が開かれると、
「タケちゃん……」
と、驚きに満ちた表情でミュウちゃんは口に手を当てていた。
しかしミュウちゃんとオレが話す間もなく、続いて階下からは懐中電灯と木刀を持った、ミュウちゃんのお父さんとおばちゃんが慌てて二階へと上がって来たのである。
「なんやッ! 泥棒かァ~ッ!」
お父上の声に、
「いえ、スパイダーマンです」
などとそんな言い訳は通じるはずもなく、
「タケちゃん……」
と次はおばちゃんがオレの名を言った。おばちゃんとは非常に親しく面識があった。よくミュウちゃんの家にお邪魔しては、三人でご飯を食べて笑い話に花を咲かせていた事もあって、オレはおばちゃんには可愛がられていた。ミュウちゃんのお父さんとはこの日が初対面である。
「どないしたんやぁ~、タケちゃん……」
おばちゃんの声に、
「なんやッ! お前ら知り合いかッ!」
と、お父さんが面を食らっていた。
「タケちゃんがこんな行動をとるいう事は、きっと内のミュウがまたなんか迷惑かけたんやろな」
とおばちゃんは、お父さんが怒り出さぬようオレを気遣いそう言ってくれた。
「いえ、それは僕の方が……」
言い掛けたがおばちゃんはオレの言葉を遮り、いや、これ以上この話は止めておこう。それが自分に対する思いやりというものだ。