第三十二章『野良猫のミー助』
「武、ちょっと店に来てくれへんか?」
ブラジルから帰国してまだ日も浅い頃、自宅でくつろいでいる時にオカンから電話があった。
「なんやどないしたねん?」
「ええから早よ来て!」
オカンのただ事ではない声に、何事かとオレは受話器を置くと、玄関のつっかけを即座に履いて慌ててマウンテンに向かった。
「どないしたんな? なんかあったんか?」
オレの言葉にオカンが表情を曇らせながら、
「さっき店の向かいで猫はねられて大ケガしてたんやけど、近所の人ら見てるだけで何もしてやれへんから、ダンボールに入れて裏の階段の所にとりあえず置いて来たんよ。私いま店番でここ離れられへんから、あんたちょっと様子見て来てくれへんか!」
と言ってきた。山本家はそういうのを見るとほっとけない質なのである。
「よっしゃわかった」
オレはマウンテンの裏の階段まで足早に移動すると、そこには近所のオバはん連中が物珍しそうにダンボールの周りに集まっては、
「やっ、顎の骨見えてるわっ!」
だの、
「かわいそうにこの子もうアカンで!」
だの言っているだけで、誰も処置してやろうとはしていなかった。
「おばちゃんちょっと退いて!」
オレはそういうなり子猫が入ったダンボールを抱えると、
「武くんどないするんよ?」
とオバはん連中が聞いてきた。
「ほっとかれへんから病院連れて行くに決まってるやろ!」
「手術代めちゃめちゃ掛かるでぇ」
「そんなんわかってるけど、命には代えられへんやろッ!」
オバはん達の態度に、オレは腹立たしくそう言ってその場を離れた。
「オカン病院連れて行って来るわ!」
「あんたお金持ってんか?」
「なんぼかある」
「そうか、後で私もカンパするわ!」
そうしてオレは犬猫病院に向かったのである。病院で先生に診察してもらうと、数時間の手術が必要との事だったので、一旦オレは自宅に戻り、数時間後に引き取りに行く事になっていた。そんな所にミュウちゃんが来たのである。事情を説明するとミュウちゃんは、
「わたしもカンパするわ!」
と嬉しい事を言ってくれた。動物思いの優しい彼女である。
数時間後、オレとミュウちゃんは子猫を迎えに行った。皮が裂けて顎の骨が見えていた子猫の顎は、見事に縫合され一命を取り止めていた。しかし問題があった。ホワッツマイケルのようなオレンジと黄色のトラ模様のその子猫は、これまでずっと野良猫生活を送って来たのか、人に懐こうとはしなかったのである。抱きかかえようと手を出すと、
「シャーーッ!」
という声を発して噛み付いて来ようとするので、とても連れて帰れる状態ではなかった。かといって連れて帰らなければ宿泊費が掛かってしまうので、オレ達が困り果てていると、見かねた先生が持ち運びのゲージを貸してくれた。病院へは数週間後に抜糸に行くだけだった。
家に連れて帰ると、抜糸までの期間、ゲージの中で面倒をみる事にした。とりあえず名前を決めねばと、オカンを含めたオレ達三人が付けた名前は『ミー助』である。
初代山本家の愛犬『グースカ』は、早くに天命を全うし、名前のごとく「グースカ グースカ」と眠るように息を引き取った。そしてこの頃、二代目愛犬『桃』と『ナナ』が山本家の玄関で番犬という責務を果たしていた。そんな桃とナナがミー助にやきもちを焼かないかと心配だったので、ミー助を入れたゲージは離れた所に置いておいた。
一週間が過ぎようとしてもミー助はオレ達に懐こうとはしなかった。しかしオカンが与えるエサはしっかりと食し、見る見るうちに元気を取り戻した。そしてミー助の抜糸の日が訪れたその早朝、オカンがエサをあげようとゲージを開けると、野良猫本来の俊敏な動きでミー助はゲージから脱走したのである。
抜糸をしないまま逃げてしまったミー助に、オレ達はミー助の顎に残っている糸の事だけが懸念の材料だった。オレは早速病院に行って先生に事情を説明すると、先生は、
「別に糸が残ったままでも大丈夫ですよ」
と言ってくれた。それを聞いて安心したオレ達だったが、短い期間だけでもミー助にやはり情が沸いていたので、またミー助が戻って来ればいいのになぁ~と願っていた。そんな日が一日二日と過ぎて行ったある日、朝オカンが家の外に出てみると、そこには少し体の大きくなったミー助が、主人の帰りを待つ中堅ハチ公のようにお座りをして居たのだそうだ。私が家から出て来るのを待っていたのだとオカンは後で教えてくれた。
「武~ぃ、ちょっと出て来てみ!」
外から聞こえて来るオカンの声に表に出てみると、あの、人に一切懐かなかった野良猫ミー助が、喉をグルグルと鳴らしながらオカンの足に頬をすり寄せ、甘えてエサをおねだりしていた。
「おぉ~、帰って来たかぁ~わんぱく坊主! ちょっと体つき大きなったなぁ~」
オレが何気なくミー助に近寄り触れようとすると、そこは可愛げなく、
「シャーーッ!」
と敵意をみせられた。
「コイツ救ったのんオレやのになぁ~」
「エサをあげてるお母さんの方がミー助はええよなぁ~」
オカンがこの上なく優しい表情で言った。
それからミー助は徐々にうちの家族に慣れ始め、最終的には桃やナナにまで頭をもたせ、三匹仲良く日向ぼっこまでするようになったのだ。
春の日向が心地よい、そんなほんわかした日の話しである。