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第三十一章『たけちゃんブラジルへ行く』

『サッカー王国ブラジルで一度はサッカーをしてみたい!』


 サッカー選手を志す者なら誰もが一度は思い描く夢である。


 関西国際空港が開港した平成六年の翌年、平成七年十月末、ブラジルに行くその日がやって来た。関空まではタッケンが車を走らせて、ミュウちゃんと共に見送りに来てくれた。保安検査所に入る前に、タッケンとミュウちゃんにしばしの別れを告げると、オレは片手を上げて、


「行ってくるわ!」


 と二人と別れた。初めての海外旅行である。国内線も乗った事がなかったので、飛行機に乗るのは初めてだった。その初めての飛行機搭乗がほぼ地球の裏側のブラジルである。

 エジソンは日系ブラジル人といっても二世なので、日本語はまったく通じないに等しく、二人のコミュニケーションツールはエジソンの所有する旧式の電子辞書を頼りに、単語のやり取りで会話を行っていた。よくまあそんな状態でブラジルに着いて行ったものだとお思いかもしれないが、しかし二人には辞書がなくても会話が出来る神が降臨する時間もあった。それはBAR イズント・イットや酒を(たしな)む店などで、酒が入りテンションがハイになると、ジェスチャーやフィーリングで大体相手が何を言っているのか解るというものだった。だがそれ以外は意思の疎通(そつう)を図るのに、先程述べたように辞書で単語を引き、その単語から相手が何を言いたいのか推測しなければならないという、非常に原始的な会話のやり取りを行っていた。先が思いやられる旅である。

 ブラジルまでのチケットは一番安いチケットを往復で購入したので、乗り継ぎがある事は知っていたが、エジソンとオレの意思の疎通が細部に渡って行われていなかったが故に、その乗り継ぎが早くも韓国で、まさか十二時間も空港のロビーで待たされる事になるとは思ってもみなかった。

 スーパーマリオのようなチョビ髭を生やした三十代半ばの独身のエジソンは、普段から言葉数が少なく、寡黙(かもく)を絵に描いたようなオッサンだった。人の良さはやはり両親とも純日本人の血を受け継いでいるので、日本人の良さでもある親切心や思いやりが人柄ににじみ出ている非常に優しく温厚な男なので、オレは安心してエジソンに着いて来たのである。

 しかしながら空港のロビーで、寡黙過ぎるほど寡黙なエジソンと十二時間も椅子に座って待つのである。酒も入っていないので神も降臨する事はなく単語でのやり取りだけである。一時間もすれば単語のやり取りは飽き、後は一人空港内をウロウロしても言葉の通じる人は居るはずもなく、関空から二時間ほどで着いた韓国から、早くも退屈な時間が続いたのである。トムハンクス主演の『ターミナル』のようなものである。

 第一の試練、韓国での乗り継ぎ待ち十二時間の退屈な時間が過ぎると、続いて第二の試練が訪れた。ロサンゼルス経由の約十二時間の旅である。唯一の救いだったのは、この頃の飛行機はまだタバコが吸えた事である。その十二時間の長旅を終え、ロサンゼルスで一時間の待ち時間を経て、第三の試練、ロサンゼルスからサンパウロまでの約十二時間の旅が始まると、もうすでに睡眠で時間を潰す事は出来なくなり、椅子に座っているのが億劫(おっくう)になり始めた。なのでトイレに散歩して時間を潰すが、これにも限界があり、かといって隣に座る見るからに明らかな外人さんに話しかけても、中学校で英語の授業時には忠岡連中と勤勉に遊んでいたオレに話せる事といえば、


「マイネーム・イズ・タケシ」


 ぐらいのものだった。

 関空から韓国まで二時間、韓国での乗り継ぎ待ち十二時間、ロサンゼルスまでのフライト十二時間、ロサンゼルス経由一時間待ち、そしてサンパウロまでのフライト十二時間、計三十九時間の長旅は、正直言って初飛行機のオレには本当に退屈かつ疲れる空の旅だった。

 そんな長旅を経てようやくサンパウロに着いた時には、お約束の伸びをして、


(やっと着いたかぁ~っ!)


 と開放感に浸れるのも束の間、空港でエジソンの帰国を待っていてくれたエジソンのご両親とエジソンの姉さんが手厚い歓迎をしてくれた後、エジソンの実家があるバウルまで、車で四時間掛かると聞かされた時には、思わず、


「ひえぇ~~~~~っ!」


 と口走ってしまった。最後のオマケが車での四時間の旅だった。ブラジルには日本列島がすっぽりと22.5個も入るのだから、本当にバカデカい国である。

 空港から車に乗りルート374を通ってバウル市内まで向かう道すがら、車窓から眺める広大なブラジルの土地は、何処までも続く平原が地平線となり、地球のデカさを痛感させてくれた。地球は広い! まさにこの言葉が、ブラジルに来て初めて思い浮かんだ言葉である。

 七十歳を遠に越していたエジソンのご両親は、その昔日本からブラジルへと移民として渡って来た日本人だったので、ブラジルでは日本語を話す機会が余りなかった為か、懐かしい日本語を話す時には少しポルトガル語を織り交ぜて来るが、本を読むのが苦手なオレにしてみれば、もしもの時の為に持参して来た『自由自在 ひとり歩きのブラジル・ポルトガル語』のハウツー本を使わなくてもよかったので、車での道中もさる事ながら、遠く離れたこのブラジルの土地で、日本語で話せる事は何より助かった。

 四時間を掛けてようやくサンパウロ州中西部の都市バウル郊外に入ると、早速オレがこれからお世話になるエジソンの実家に案内された。そこにはエジソンの帰国を今か今かと首を長くして待つ親類が集まっていた。エジソンの甥っ子に当たるエジソンのお姉さんの息子と娘は、オレと歳が近い事もあり、ポルトガル語という障害の壁はあったがすぐに親しくなれた。

 エジソンのお姉さんはエジソンよりも少しは日本語に精通していて、コミュニケーションはすぐに図れ、オレを息子のように接してくれた。そんな温かい家族に囲まれて、エジソンの実家で初めて食べるブラジル料理定番のフェジョンは、米にぜんざいを掛けて食べるような変わった料理だったが、好き嫌いのないオレは何を食べても美味しかった。

 エジソンのお母さんに教えてもらい初めて覚えた単語は、ジャンター(晩飯)と、ボンジーア(おはよう)、ボアタージ(こんにちは)、そしてボアノイチ(こんばんは)である。しかしもしブラジルでカワイ子ちゃんと出会う機会があったらいけないので、声を掛ける為にカワイ子ちゃんという単語を教えてくれと頼んだら、ガヂーニャと教えてくれたが、これは後で解った事だが、子猫ちゃんと言う意味だった。ある意味遠からずである。

 あくる日、朝食を四人で食べ終わると、エジソンは帰国したこの期間に虫歯を治療しておこうと歯医者に行ったので、オレは読書をして暇を潰した。昼にまた四人で昼食を食べ、昼食後、日本に居るゆうさんやみんなに絵はがきを書いた。しかし絵はがきといっても書いた内容はゆうさんを真似て、


『ブラジルガオォォ~~~ッ!』


 とただそれだけだったので、すぐにその作業も終わり、三時を回った頃には一日中家で居るのが退屈になり、そこでガサツなオレは早速サッカーをしている場所をエジソンのご両親に教えてもらい、そこまでのルートを紙に書いてもらうと、教えてもらったグランドまでマラソンで行く事にした。エジソンとエジソンのご両親は、治安が悪い街だから一人で行くのは危ないとオレを引き留めたが、オレは一人で大丈夫だと、サッカーシューズ片手にグランドを目差した。

 バウルといえばサッカーの神様ペレの育った街でもあった。スラムな地域でサッカーが出来るとあって、オレの高揚感もかなり高まっていた。オレは下町やヤンチャな地域は大好きなのである。

 大通りを二ブロック先に、三十分ほど進んだ所にそのグランドはあった。グランドに着いてみると、子供たちが裸足でサッカーをしていた。子供たちはシューズも穿いていない裸足で急停止や変則的なドリブルを難なくこなし、更に子供とは思えない大人顔負けのシュートを何度も決めていた。しばらくその光景を感心して眺めていると、仕事から帰って来た若者からオッサンまでの様々な街の住人達が、続々とグランドに集まって来た。裸足でサッカーをしている子供たちも含めて、明らかにこれから紅白戦が行われようとしていた。そこでオレはチーム分けしている所に、仲間に入れてくれと頼みに行ったのである。


「オレモ、サッカー、イレテクレ!」


 勿論通じる訳がない。英語風にアクセントを替えただけのバリバリの大阪弁なのだから……。


「Ir a algum lugar(何処か行け!)イエロージャップ!」


 最後の言葉だけは聞き取れた。イエロージャップ(黄色い日本人)と差別用語を吐かれたのだ。明らかに歓迎されていない雰囲気なのは肌で解った。しかしオレも負けてはいなかった。


「ミー 一緒に プレイ サッカー!」


 この言葉を相手が折れるまで連発してやった。すると横にいた真っ黒な顔のオッサンが、おそらく、


「Coloque no primeiro semestre sozinho(前半だけでも入れてやれ!)」


 と言ってくれたのか、はたまた、


「Eu vou tirar sarro disso porque é engraçado(面白いからからかってやろうぜ!)」


 と言っていたのかは定かではないが、とにかく前半戦からオレを混ぜてくれるようになったのだ。

 マラソンでグランドまで来たのでアップは済んでいた。紅白戦が始まった直後からオレは実力を見せてやろうと全力でプレイした。さすがにオレがこんなにも動けるとあって、皆オレにパスを回して来た。前半が終わる少し前にはフリーキックの場面もあり、オレはカーブを掛けてゴールを狙ったが、これは惜しくもポストに当たり得点には至らなかったが、オレのシュートに度肝を抜かれたのか皆が次々にオレの肩を叩いて、


「Bom tiro(ナイスシュート!)」


 と言ってくれた。皆の仕草から褒めてくれている事が解った。

 そして前半が終わると、相手チームの人達も皆オレの周りに寄って来て、


「Vocês são nossos amigos de hoje(お前は今日からオレ達の仲間だ!)」


 と言ってくれ、ハグして来る者まで多数現れた。言葉は解らなかったが、皆のオレに接する態度とアミーゴという単語は聞き取れたので、仲間だと認めてくれたのだとすぐに解った。

 後半が始まると、ハーフタイムにオレの名前を聞いて来た青年が、しきりにオレの名を叫びパスを求めて来た。オレはその青年に絶妙なパスを出すと、次第にその青年はオレと呼吸を合わせ、二人のワンツーが何度も決まった頃には、皆がオレの名を覚えてくれたのか、


「Ei Takeshi(ヘーイ タケェ~シ!)」


 と、パスを求める声がしきりにグランドに響いた。

 このスラムな街のブラジルサッカーを肌で感じた感想は、ハッキリ言ってレベルの高い物だと思った。子供たちからオッサンまで皆が質の高いプレイをしていた。裸足の子供などシューズを穿いたオレと同じ動きをするのだから、日本のサッカー水準とは比べ物にならないと思った。同時にこうも思った。子供は大人達に交じってサッカーをするのだから、自然と上達も早くなると思った。日本では考えられない事である。これまで体感出来なかった経験をこの日初めて味わった。正直日本のサッカーより伸び伸びとしていて心の芯から楽しめた。

 後半が終わるとまた皆がオレの周りに集まって来た。オレの肩を叩く者、ハグして来る者、握手を求めて来る者、そして皆が、


「Vem amanha(明日も来いよ!)」


 と言ってくれたが、しかしオレにはちんぷんかんぷんだった。だがそのとき知った女性が現れた。エジソンの姉さんである。オレがこのグランドに向かったと、エジソンのご両親が姉さんの家に電話したらしく、心配して見に来てくれたのだが、意外にも姉さんの家はグランドの真向かいだった。姉さんはそのあと皆の言葉を片言の日本語で訳してくれ、オレはまた明日もサッカーをしに来ると姉さんに通訳してもらった。

 あくる日オレはバスの乗り方を覚え、夕方になるとこのグランドがあるバス停で下車した。バスから降りると道に座っているホームレスのおじさんまでも、


「Ei Takeshi(ヘーイ タケェ~シ!)」


 とオレに声を掛けてくれた。一夜にしてオレの名がこの街に広まっていたのである。

 しかしそんなこのオレの存在を煙たく思う者も居た。それはこの日紅白戦が終わってからの事である。オッサンや若者達が、この街にある行きつけのBARに行こうと誘ってくれたので、オレは快く皆に付いてそのBARに向かった。しばらく皆で酒を飲み、ブラジル式のビリヤードを教わり楽しんでいると、そんな所に一人の厳つい男性が入って来たのだ。歳はオレよりも八つほど上のその男性は、見るからにその地域のボスらしい存在だった。その男性が入って来ると皆が一瞬にして静まり返ったからだ。そしてオレに近寄って来るなり、これはオレの推測だが、


「Eu não admito todo mundo(皆が認めてもオレは認めてない!)」


 と、そう言って来たように思えた。そして次に、


「Saia na mesa!(表に出ろ!)」


 と言って来た。これはジェスチャーでそう言っているのが解った。

 オレは(おく)する事なく表に出ると、その男の次の言葉を待った。だが聞き取れたのは、


Capoeiraカポエィラ


 という単語だけだった。

 カポエィラとは、黒人奴隷が看守にばれないよう、ダンスのふりをして修練した格闘技と言われている。手かせをされていた奴隷が、その拘束をとかれないまま鍛錬(たんれん)した格闘技の為、足技を中心に発展したとされるが、これは後世の想像と見られている。 現在は空手やテコンドー・ムエタイ等の、他国の格闘技との技法交流に伴い、拳法技術を用いた技法も導入された為、足技だけの格闘技ではなくなっているが、手による攻撃は依然少なく、地面に手をついて蹴ったり、逆立ちをしたり、アクロバティックな独特の動きを持つ武道である。

 そして男は攻撃の構えを見せてきた。

 その男に対しオレは、


「ジャパニーズ カラテ!」


 と一言いうと、空手の構えをとった。空手は高校自分に少し習いに行った事もあり、多少の心得はあった。とにかく相手にケガをさせぬよう細心の注意を払い、そしてまた自身の実力も示さなければこの男に認めてもらえないと思った。そしてオレは彼と戦った。

 互いに相手の攻撃を(かわ)しては心技一体の攻防が続いた。しかしその男も考えている事はオレと同じだったのか、オレにケガを負わせる事なくしばらく戦った後、オレ達は互いに構えを解き向き合った。正直な話し次にその男が言った言葉は正確には解らない。しかしこれはオレの推測だが、


「Admitir como irmão(兄弟として認める)」


 と言っているように思えた。事実それはカーニバルの時期が来ると、オレをある事に誘ってくれたからだ。その後、彼はオレに右手を差し出し、握手をしながら互いに肩を抱き合うと、彼は耳元で、


「Amigo(親友)」


 と言ってくれた。こうして二人してBARに戻ると、中で待っていたサッカー仲間達も、ホッとしたのかまたオレの所に寄って来た。

 自分で言うのもなんだが、オレは若者やオッサン連中だけでなく、この街では子供たちにも人気があった。それはある日の事、夕方のサッカーが終わると、子供たちの母親がオレに話し掛けて来た。しかしオレはポルトガル語が解らないので、エジソンの姉さんをその場に呼んだ。そして通訳してもらうと、子供たちがタケシを呼んで皆でシュハスコをしたいと言っているので、ぜひ今晩家に来てくれというものだった。シュハスコとは南アメリカの肉料理、早い話がバーベキューである。そして指定された時間にそのお宅におじゃますると、サッカーで馴染みの子供たちが、オレの手を引いて中庭まで案内してくれた。

 中庭には中南米発祥のラテン系な音楽が流れ、肉を焼いた香ばしい匂いが漂い、そこに居るたくさんの人達はリズムに合わせてステップを踏みながら陽気に踊り、そしてまた会話に花咲かせ、料理と酒と音楽でみな楽しそうである。その場には子供たちの妹たちも大勢いた。中でも一番小さい白いワンピースを着た女の子は、5才ほどの可愛い女の子だ。総勢一八人の子供たちがみな手を繋いで輪になって踊り、オレも手を引かれてその中に入った。ママさん連中やパパさん連中も皆それぞれ楽しそうに踊っていた。言葉は解らないが笑顔と優しさで皆コミュニケーションを図った。勿論オレは酒が入っていたので、徐々に酔えば酔うほど相手が何を言って来ているのか感覚で理解し、言葉の壁を突き破る酒の神が降臨して来ていた。

 宴もたけなわになる頃、子供たちと肩を組んで、右足を上げて同じポーズを執り集合写真を撮った。


          挿絵(By みてみん)


マルセル、エドワード、ファエダラ、ジュニオ、ジューニンオ、アンドラ、マルコ、ガブリェード、カーラー、ガラーウミー、エドア、エウェリー、ロウリバウ、ショーキンヨ、ホンジネイ、カルチ、ヒーショージ、皆の事は忘れない。オレにとって心に残る思い出である。



 ブラジルに来て早二か月が過ぎようとする頃、何処でオレの噂を聞き付けたのか社会人チームから一緒にサッカーをしないかと声が掛かった。ブラジル人のサッカーにかける情熱が凄いと思ったのは、この一般の社会人チームのメンバー一人一人がお金を出し合い、山に土地を買いチーム専用のグランドを持っている事だった。整備されたそのグランドは人工芝も敷かれナイター設備まで完備されていた。さすがにそれほどのサッカー意欲があるだけに、これまでのスラム街のサッカーよりも更にハイレベルな水準だった。

 少しの期間その社会人チームでプレイさせてもらった後、オレはバウルに本拠地を置くサッカークラブの練習風景を見学に行った。スタンドから眺めるその練習風景はやはりプロならではのそれであった。これまで裸足でサッカーをするレベルからプロまでを見て来たオレにとって、今後日本に帰ってサッカーを続けて行きたいかという事を自身に問い掛けた。答えは明確だった。ブラジルでこれまで触れて来たサッカーは、人との出会いや触れ合い、そしてハラハラドキドキワクワクといったデンジャラスな経験があったので、オレにとっては非常に楽しく、日本に帰ってその楽しみを味わえるかといえば、答えはNOだった。オレはサッカーで飯を食べて行きたいのではなく、サッカーというツールを通じて様々な人々と触れ合い、人と人との対話を望んでいた事に気付いたのだ。

 そして同時に思い出した事もある。それは小学校時分に決意した事だが、当時スーパーを任意整理で店を閉めた時、巨額の負債を感じ取ったオレは、子供ながらに、


(よしっ、オイラが一発当ててなんとかしてやろう……)


 と思い、そこで思い付いたのが一発逆転劇の芸能人である。かといって芸能人になる事がオレの夢ではないが、男が一度そう決めたなら、せめて一度くらいはテレビに出てやろうという思いが復活したのである。オッサンになった今思えば、それが自身に対する最低限のケジメだったのだろう……。

 はてさて、こうしてサッカーでの自身の気持ちに気付き、日本に帰ってからの新たな小目標を認識したオレは、残りのブラジルでの数か月を、いかに有意義に過ごすかを検討し始めた。せっかくブラジルに来たのだから、ブラジルでしてみたい事を紙に書き上げた。そのしたい事とは、


 第一位、ガリンペイロ(ガリンペイロとは、ブラジル・アマゾン奥地に、1970年代のゴールドラッシュ以降に流入し、過酷な生活・労働環境下で一攫千金を夢見る金鉱採掘人、発掘人たちを指すことが多い)


 もしくは、


 トレジャーハンター(トレジャーハンターとは、財宝を探索する人のこと。ないし、財宝を探し出すことを職業とし、探検家や冒険家などとほぼ同質な人のこと)


 第二位、ワニが泳ぐようなアマゾン奥地で釣りをしてみたい!


 第三位、ブラジルの綺麗なねえちゃんと……いや、これはやめておこう。


 以上の事を持ってエジソンに相談してみると、それでは早速旅行会社に行こうという事になった。数あるパンフレットの中で旅行会社の人が勧めてくれたのは、南アメリカ大陸のほぼ中央部に位置する、世界最大級の熱帯性湿地パンタナールだった。パンタナールは総面積168000平方キロメートルと、日本の本州ほどの広さがあり、この一月は雨季の季節で、パンタナールの七割が水没し、地球上で最も水量が多い氾濫(はんらん)(げん)と化すと教えてくれた。そしてワニがうようよ泳いでいるその横で、20種類以上のピラニアやドラード、パクー、ピラプタンガ等、パンタナールならではの魚を釣る事が出来るほか、この季節ならではの花や渡り鳥を観察でき、そして極稀だがジャガーとの遭遇確率もあるのだという。難点なのは、この季節気温が高く摂氏40度前後になり、蚊に悩まされるので、前もって病院に行き予防接種を受けなければいけないとの事だった。

 ブラジルでしてみたいこと第一位のガリンペイロとトレジャーハンターが、パンタナールで実現できる可能性は薄いが、万が一、水中に垂らした釣り針に、パンタナールでいまだ発見されていない古代の財宝が引っ掛かるかもしれないと、第一位の希望は軽くスルーし、第二位のワニが泳ぐようなアマゾン奥地で釣りをしてみたい! という希望に掛けてみる事にした。

 という訳でオレとエジソンは、パンタナールに行く準備に取り掛かったのである。

 オレ達は病院に予防接種を受けに行った後、さっそく釣具店に足を運び、これでもかァ~ッ! というほどの大物が掛かっても心配ないくらい太い竿を購入し、それに見合うリールも入手した。狙うは世界最大の淡水魚ピラルクである。

 エジソンのお母さんは至極優しいお母さんで、竿を入れておく袋を作ってくれ、そしてまた、知らない土地に行き窃盗に会いお金が無くなった時の為に、ジーパンの裏生地にお金を入れておく袋を縫い付けてくれた。そんな優しいエジソンのお母さんは、オレに気兼ねなく電話を使用して、日本にいる友達や家族と話していいと言ってくれていたが、国際電話はお金が掛かるので、オレはコレクトコールでよくタッケン家に電話をしていた。後に電話会社から数万円の請求が来ていた事を、タッケンは四十才を回ってからオレに話してくれた。

 パンタナールに出発するまでの日にちには少し余裕があった。出発までの数日間、時折エジソン宅でエジソン姉さんたち親族が集まると、オレは率先してボロンとしか弾けないギター片手に、(つき)定可(ていか)(ちょう)の、


「♪ボインは、赤ちゃんの吸う為にあるんやでぇ~、お父ちゃんのもんとはちがうんやでぇ~♪」


 と、てっちゃんのように『嘆きのボイン』を口ずさんでは場を盛り上げた。


 そして出発の日が訪れた。パンタナールに行く方法は飛行機や鉄道そしてバスと色々あったが、オレ達は一番料金が安いバスで旅する事にした。しかしバスで行くパンタナールの旅は想像していたより過酷で、バスに揺られること片道18時間、それはそれは腰が痛くなる長旅だった。そんな思いをしてようやくパンタナールに着くと、そこからトラックの荷台に乗せてもらい大自然の壮大な光景を眺めながら、宿泊施設までの道程を更に二時間ほど走った。とにかく南米はドデカいの一言に尽きる旅である。


 施設に着くとスタッフの手厚い歓迎が待っていた。その手厚さといったらゲストにパンタナールならではの体験を早くもさせようと、胴回りが40センチはあろうかという程の2メター越えの大蛇を、オレの首に巻かせるといったものだった。その光景をエジソンは早速カメラに収めた。


 宿舎に荷物を置き、すぐさま外に出て改めて目の前に広がる大自然を見渡すと、一面に広がる湿地帯というよりは、果てしなく何処までも続く大運河の集合体のように、運河が網の目状に広がっているといった感じだった。パンタナールとはポルトガル語で「大沼地」を意味する言葉で、湿原と言われることが多いが、正確には氾濫原である。パンタナールは山脈に囲まれた盆地状の地形をしており、その中には無数の川が流れている。傾斜がとても緩やかな為、雨季になると水が集中して氾濫を起こし、ピーク時には水位が約2メートルも上がり、大小さまざまな湖や沼が出現し、更に水かさが増すとそれが連結するのである。いっぽう乾季になると大きな湖以外は干上がって大草原が広がる。

 まだ日も高々と上っていたので、オレ達は早速ボートに乗って船頭さんの案内の下、夕食までのひと時を釣りをして楽しむ事にした。快活なエンジン音と共に風を切って沖に出た。パンタナールの面積が日本の本土と同じ面積とあって、沼地なのに水平線も見えた。都会から離れたこの開放感は赴いた者しか解らないだろう。ボートを走らせる先々でワニとも幾度となく遭遇した。オレはこれを求めていたのである。

 船頭さんは良いポイントがあるとボートを走らせていたが、まだかまだかと思うほどその距離は長く、オレからしてみれば何処のポイントでも同じように映って見えた。そしてようやく船頭さんのいうポイントに着くと、船頭さんはクーラーボックスからドジョウの化け物のような20センチ程のエサを取り出し、サメでも釣れそうな大きな針の先に、そのエサをチョン掛けしてオレに投げろと言ってきた。いよいよ第一投目である。オレは釣りキチ三平になった気分で大きく竿を振りかぶると、大空に向けて竿先を解き放った。エサの付いた仕掛けが弧を描いて彼方へと飛び、そして水面へと落下した。後は魚が喰らい付くのを待つばかりである。と一呼吸置く暇もなく竿がガツンとしなった。早くもヒットしたのである。即座にオレは竿を合わせてリールを巻いたが、魚がバレたのを感じた。ゆっくりと糸を巻き戻すと、チョン掛けしていた化け物ドジョウの頭だけを残して、見事に胴体は食いちぎられていた。喰いちぎられた切断面を見てみると、明らかに牙の生えた魚による見事な切断面だった。恐るべしブラジルの肉食魚である。

 エサを付け替えて二投目を投げてみた。また即座にアタリがありそれに合わせた。竿がしなり重い引きが獲物の大きさを連想させた。太い竿をこれだけしならせるのだから、釣り上げた時の期待度も更に上がった。数分の奮闘の末、釣り上げてみると期待を裏切らない50センチはあろうサイズのピンタードという大ナマズだった。しかし船頭さんいわくこのサイズはまだ小さいとの事だった。オレは夢中になり次から次へと獰猛な魚を釣り上げた。ドラード、下牙の凄いオルドビス、ピラニアなど日本の鯛ほどの大きさだった。ピラルクこそ釣れなかったが、この日の漁獲量はまずまずな物だった。

 夕暮れ時、施設に向かってボートを走らせていると、風を受けてボートから眺めるオレンジと紫が溶け込むように混じり合う空に、パンタナールならではの野鳥が大群で空を舞う壮観な光景は、動物番組などで見るどの光景よりも迫力があった。

 夕食はその日釣って来た魚を料理してくれた。一度テレビ番組でピラニアを食べていたレポータが、白身で鯛の味に似て美味しいと言っていたが、それを思い出してあれはウソだと思った。確かに白身で鯛に似た味はする事はするが、日本とは違い泥抜きされていないパンタナールの濁った水に棲む魚は、ハッキリ言って泥臭く、とても美味しいなどと言える代物ではなかった。

 食事が終わり、エジソンとビールを飲みながらパンタナールの星空を眺めた。岸和田で見る星の数とまったく違っていた。空気が澄み切っているので手を伸ばせば星が掴めそうなほど限りなく近くに観え、星の数もビーズの瓶をぶちまけたように夜空に敷き詰められ、満天の星空とはこの事をいうのだと思った。


「わっ、エジソン、あれっ!」


 オレは夜空に向けて指を差した。

 ゆっくりと太く長い尾を引いて、燃え盛る巨大な星が流れて行くというよりは、スローモーションで移動して行った。これが流星だったのか隕石だったのかはオレには解らないが、この日見たそれは、生まれて初めて目にするものだった。


 明くる朝、オレ達は夜明け前からボートに乗り込んだ。水面を飛び跳ねるような速度でボートが推進し、澄み切った早朝の空気を全身に浴びながら水平線を目差していると、暁の光が水平線から昇り始めた。濃紺の朝空に徐々に日の光が溶け込むと、次第に濃紺が鮮やかなブルーへと段階的変化をもたらし、パンタナールの熱い一日が始まった。

 釣りには朝まずめと夕まずめと呼ばれる時間帯があり、この時間帯は魚がよく釣れるのである。オレ達はポイントに向かってしばらくボートを走らせると、互いに今日はどんな大物を釣るかというたわいもない話で盛り上がり、そして一投目を投げた。仕掛けが水面に波紋を広げた直後、グイッという引きがオレの手の平に伝わった。横ではエジソンも同じ手ごたえを感じていた。互いにリールを巻いて掛かった獲物を釣り上げると、サイズは40センチそこそこのピンタード(ナマズ)だった。朝まずめはこんな調子で大物こそ釣り上げられなかったが、数としては入れ喰い状態だった。しかし日が頭上まで昇り出すと、それまでのアタリがピタリと止み、ピラニアの集団に頭だけを残してエサを取られるばかりだった。

 エサも底を尽き、さてどうするものかと思いきや、船頭さんはポイントを替えて葦の傍にボートを着けた。そしてポケットから朝食のパンの切れ端を取り出すと、それを水に浸けてパンを練り始めた。更にワカサギ釣りに使うような小さな竿を用いて、仕掛けにその練ったパンを豆粒ほど付けて葦の中に放り込むと、10センチくらいの小さな魚を釣り始めた。あれよあれよという間にその小さな魚がクーラーボックスに溜まると、またポイントを替えて次はその小さな魚をエサに大物を狙った。

 オレ達はこういった毎日を、バウルに帰る日までの三週間に渡って送ったが、お目当ての世界最大の淡水魚ピラルクは釣り上げる事は出来なかった。いつの日か再チャレンジする事にしようと思う。


 バウルに戻って一週間が経とうとする頃、月日は二月を跨ごうとしていた。夏時間が実施されているブラジルの夏は、日本のようにじめじめとしたものではなく、カラッとした日差しのきつい夏ではあるが、個人差はあるものの、オレは日陰にいるとそれほど暑い夏とまでは思わなかった。そんな頃、オレはちょくちょくあのスラム街のグランドがある街に出向いては、例のカポエィラの男と戦ったBARに足を運んで、この街の住人と酒を飲み、ビリヤードで一杯の酒を賭けては楽しい毎日を過ごしていた。三週間後にはカーニバルが実施されるので、夕方になるとカーニバルの練習の為か、至る所で太鼓の音やサンバのリズムが鳴り響き、街は騒がしく、早くもお祭り模様といった感じだった。

 そんなある日の事、この日もBARに出向き、いつものメンバーと酒を賭けてビリヤードで遊んでいた。そんな所に例のこの街のボス、カポエィラのアントニオが店に訪れたのである。


「Ei Takeshi(ヘーイ タケェ~シ!)」


 アントニオと握手を交わし、肩を抱き合い熱い挨拶が終わると、アントニオはオレに連れて行きたい所があると言ってきた。酒が入っているのでなんとなくそう言って来ているのが解った。何処に連れて行かれるのか解らないまま、街の中心部に歩いて行くと、サンバのリズムや太鼓の音が次第に大きく聴こえ始めた。そして目的地に着くと、そこは当日カーニバルが行われる会場だと解った。

 パレードやストリートカーニバルが実施される会場は、関係者以外立ち入り禁止にも拘らず、アントニオは、


「Tudo bem(大丈夫だから)」


 と言ってオレをその会場に招き入れた。そこには当日パレードで使用する大きな山車があり、山車の前で踊るグラマーなサンバ隊も練習のため集まっていた。オレは練習の邪魔になるかと気兼ねして外に出ようとすると、アントニオは、


「Tudo bem Takeshi(大丈夫だ、タケェ~シ!)」


 と、今から行われる本番のリハーサルに、オレもサンバ隊に交じって一緒にストリートで踊れと執拗に言ってきた。そしてアントニオは山車の最上部に上がって行くと、マイクを持ち歌い始めた。岸和田祭りでいうと、大屋根で華麗に舞う大工方と、日本の盆踊りの音頭取りのような、祭りの花形をアントニオはしていたのだ。

 余談になるが、日本に帰って数年後、あるニュースで日本人初のカーニバル参加者として女性が取り上げられていたが、オレはその数年前にこうしてカーニバルに携わらせてもらっていたのである。

 山車はだんじりのように綱を曳くタイプの物ではないが、山車の前で踊るサンバ隊は、岸和田のだんじりで例えるなら、青年団のようなものだなぁ~とこのとき思った。そしてもしもだんじりが海を渡り、この異国の地で、カーニバルのパレードに参加できれば面白いのになぁ~などと想像を膨らませたと同時に、岸和田のだんじりは遣り廻しをしてなんぼの祭りであるが故に、パレードのようなゆっくりと引いて歩くだけのものは、岸和田の男達には物足りないだろうなぁ~とも思った。

 時が過ぎカーニバル当日、オレ達エジソンファミリーは、観覧席からアントニオの勇姿を遠目に眺めた。文化は違えど祭りに掛ける情熱は、世界のどこにおいても変わらなかった。

 カーニバルはパレードだけではない事も知った。それは当日エジソン家族に連れられて、様々なカーニバルのパーティーにおじゃまさせてもらったからだ。しかし一つだけ腑に落ちない点があった。それは各団体が主催するパーティーが数ある中で、日系ブラジル人だけのパーティーがあった事に、同じブラジル国民でありながら、地域によっては差別視されているのかなと思うと胸が痛かった。近い将来、そういった人種差別が世界中で無くなる事を心より願うばかりだった。


 三月の半ば、いよいよエジソンと日本に帰国する日がやって来た。バウルを離れる時エジソンファミリー一人一人と抱き合い別れを惜しんだ。

 エジソン姉さんは、


「タケシ、また必ずブラジルに来るのよ」


 と言って最後までオレの為に涙を流してくれていた。


「うん。嫁さんが出来たら必ず一緒に来るから」


 とオレは言ったものの、オッサンになった未だ独身のため会いには行けていない。なのでこの場をお借りして嫁はん募集のビラを貼っておく事にする。


      挿絵(By みてみん)


 パンタナールでは世界最大の淡水魚ピラルクは釣れなかったが、このビラで世界一の嫁はんが釣れる事を祈ろう。まあそんなモノ好きな人は居ないと思うが……。

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