アニキ
アニキと出逢ったのは、中学一年の春……いや、確か梅雨の頃だったかな。
僕は、入学式の次の日から、クラスメイトからいじめを受けていてね。親に心配をかけたくないから、しばらくは我慢をしていたのだけれど、ゴールデンウィ―クが明けてからは不登校になった。恥ずかしながら、それからはずっとひきこもりさ。日が昇り、雲が流れて、日が暮れる。一日中自室のベッドに寝転んで、戸建て住宅の二階の窓から見える空の変化を、ただボンヤリと眺めていたよ。
そんなある日、いつものように空を眺めていると、窓枠の端っこから黒い猫がひょっこりと顔を出した。年老いたオスの黒猫。金色の鋭い眼光。全身ばさばさの毛。ガラの悪い顔つき。首輪はない。民家の屋根を渡って来た野良猫だ。
ばっちり目が合った。にもかかわらず逃げない。なんだこいつ、僕のことをまるで警戒していないぞ。ガラス越しにじっとこちらを見ている。僕は、興味本位で窓をそっと開けた。すると、その猫は、我が物顔で部屋に入って来た。気安く触ろうとすれば、さすがに爪でひっかいてくるかな? 恐る恐る撫でてみる。するとシッポを立ててゴロゴロと喉を鳴らした。これがアニキと僕の出逢いさ。
アニキって名前? 僕が即興で名付けたよ。顔つきが悪くて、貫禄があって、任侠映画に出てくるヤクザの兄貴みたいだったからね。あはは、確かに猫に付ける名前ではないね。
その日から、僕は、いつでもアニキが訪問できるように、部屋の窓を少しだけ開けておくようになった。気まぐれに僕の部屋を訪ねるアニキを、僕は、新鮮な水や、親に内緒で冷蔵庫からかすめてきた煮干しを与えて歓迎した。アニキは挨拶もそこそこに数分で退出する時もあったし、半日以上僕のベッドに居座っていることもあった。
雨の日は、びしょ濡れになってやって来る。風の日は、埃まみれになってやって来る。ほかの猫と喧嘩でもしたのか、傷だらけの体でやって来て、しばらく僕のベッドの下で療養をすることもあった。向こう側の世界は、何かと大変だなあ。長らくひきこもり生活を続ける僕にとって、アニキは、窓の向こうと僕との唯一の接点だった。
やつれ果てたヒョロヒョロのくせに、独特の貫禄がある猫だった。実際のところ、アニキは僕のことを、無条件で水や食べ物を上納してくれる、かわいい子分程度にしか思っていなかったんじゃないかな。
と言うのも、お父さんやお母さんにガミガミ叱られたり、時々自宅にやって来る教師にネチネチとお説教をされたり、将来のことをあれこれ考えているうちに死にたくなったり、そんなこんなで僕がひどく落ち込んでいる時に限って、アニキはふらりと部屋にやって来て、僕を慰めてくれたんだ。
アニキが僕を慰めてくれる時のお決まりの行動パターンはね。先ず僕の目を見詰めてニャーと鳴き、続けて僕に体をスリスリして、最後は僕の体に自分を密接させて、しばらく寄り添ってくれる。
(おい、小僧、大丈夫か? 何があったかは知らねえが、生きてりゃいろいろあるさ。まあ、そうクヨクヨするな)
――そう言ってくれているようだった。
こうして、老いた黒猫のアニキは、少しだけ開いた僕の部屋の窓を出入りすると同時に、少しだけ開いた僕の心を出入りするようになっていった。
――――
木枯らしが吹きすさぶ季節。相変わらずアニキは気まぐれに僕の部屋を訪れた。でもこの頃から、動きがめっきり鈍くなっていた。もともとガリガリだった体が、訪問の度に痩せて行き、いよいよ歩行もおぼつかない様子だった。
重い病気を患っているのかもしれない。この部屋にアニキという野良猫が出入りしていることは、親にはずっと内緒にしていたけれど、ここは正直に打ち明けて、アニキを病院に連れて行ってほしいとお願いするしかない。
――そう決心した矢先、アニキは、ぱたりと姿を見せなくなった。
アニキが消息を絶った原因は、ここ最近の様子を見れば、考えるまでもない。猫は死ぬ間際になると姿を消すという。アニキはこの町のどこかで死に場所を探して、そこでひっそりと死を迎えようとしている。いや、ひょっとしたらもう死んでしまったのかもしれない。
僕は途方に暮れた。アニキは野良猫で、正確には僕のペットではないけれど、僕は、いわゆるペットロスに陥ったのだ。もともと自分の部屋にひきこもり、何をするわけでもなく毎日を過ごしていただけなんだけどね。でもこの時ばかりは、食事やトイレなどの生理的な行動ですら、まるでやる気が起きなかった。
アニキが消息を絶ってから二週間が過ぎたある日。僕はベッドに横たわり、廃人のようにただ天井を見ていた。もう忘れようと思いながらも、ついアニキのことを思い出してしまう。自然と涙が溢れる。
その時、もうやって来ないものと諦め閉め切っていた部屋の窓の向こうで、微かな物音がした。反射的にベッドから起き上がり、窓のほうを見る。
「アニキ!」
ガラス窓の向こうに、もはや瀕死の状態のアニキがいた。プルプルと震えながら、かろうじて立っている。僕は慌てて部屋の窓を開ける。アニキが窓から室内に飛び降り、体勢を崩して横転をする。
「生きていたんだね。てっきりもう……」
アニキの姿を見た途端、嗚咽を漏らしてその場にへたり込む。すると、震えながら立ち上がったアニキは、先ず僕の目を見詰めてニャーと鳴き、続けて僕に体をスリスリして、最後は僕の膝の上に倒れるように横たわった。
「……まさか、僕を慰めに来てくれたの? そうなんだね、かわいい子分が寂しがっていると思って、わざわざ来てくれたんだね。うん、僕、寂しかったよ。寂しくて寂しくてたまらなかったよ」
アニキの息が荒い。最期の時が近づいているのだ。涙でアニキの顔が見えない。駄目だ、涙を拭いて、アニキの最期をしっかり見届けなくちゃ。
(おい、小僧、大丈夫か?)
「アニキったら、自分が置かれた状況が分かっているの? 僕のことより、わが身を心配しなさいっての」
(何があったかは知らねえが、生きてりゃいろいろあるさ。まあ、そうクヨクヨするな)
「えへへ、誰のせいで僕がこんなに悲しんでいると思っているのさ。悲しませているやつが慰めているのだから世話ないや」
(安全な場所で人知れず静かに最期を迎えようと思ったけどよお、仕方がねえから、お前の膝の上で死んでやるよ)
「ありがとう。嬉しいよ」
(そんなことより、小僧。窓の外を見ろ。今日もいい天気だぜ)
「本当だ、雲一つない晴天だね」
(……なあ、小僧。いい加減に窓を開けて外へ飛び出せよ。お前が思っているより、向こうの世界はずっと楽しいぜ)
最期に、確かに、そんな会話をした。こうして、アニキは僕の膝の上で息を引き取った。
――――
死の間際に姿を消す習性があると言われる猫が、みずからやって来て僕の膝の上で息を引き取ったのさ。信じられるかい? 信じられないよね? でも嘘じゃないよ。本当の話なんだ。
こんな話、誰も信じてはくれないと思ったけれど、校庭の隅で野良猫にエサを与えている優しい女子を見つけてね。そんなキミならきっと信じてくれると思って、勇気を出して声を掛けてみたってわけさ。突然見知らぬ男子に声を掛けられて驚いたよね。長い話を聞かせちゃってごめんね。
ねえ、キミ。キミはいつも一人ぼっちだね。僕も、一年間ずっとひきこもりで、この二年の春からあらためて登校をはじめたばかりだから、友達がいないんだ。
ねえ、キミ、猫が好きなの? ぼ、僕も猫が大好きだよ。
ねえ、キミ、よよ、よかったら、ぼぼぼ、僕と友達になってくれない?