今、ピンチは困る
ブライゼが竜の里から出て今まで、多少なりとも人間に関わることはあったが、大人ばかりだった。もしくはクレディアより幼い子どもが、何もわからないままブライゼにまとわりついてくるくらい。
百年も人間の住む世界をうろうろしていたのに、クレディアくらいの子どもとは交流がない。ブライゼの目的に、その年代の人間と関わる必要がなかったからだ。魔物の情報は、大人がくれるものだから。
なので、ブライゼにはこの世代の知能がどの程度か、わからなかった。もしかすると、弟達くらいのレベル……だろうか。
姉を助けるために動く。危ないところを助けてくれた魔法使いは、いい奴。
とにかく、クレディアの頭には、それだけがメインとして存在しているようだ。
ブライゼは人間の使う金など必要ないし、クレディアを騙してどうこうしよう、という気はもちろんない。
警戒心なしで知らない人間について行くのは危険だ、と注意の一つもしてやりたくて、さっきの報酬うんぬんの話をしてみただけだ。
もっとも、金の草とやらを探すのに集中しているクレディアは、そういった話を全てスルーしているだろう。魔法使いと一緒なら、もう見付けたも同然、くらいに考えていそうな気がする。
だったら、とにもかくにも急いでその草を見付け、森から放り出す方がいいだろう、とブライゼはそちらに専念することにした。
このまま森の奥へ向かって本当に金の草があるかは怪しいが、ある程度歩き回れば「やっぱり一度帰ってちゃんと話を聞いた方が」と説得もしやすい。
「あ、ブライゼの指輪、きれいね」
ブライゼの手をしっかり握るクレディアは、その右手に光る指輪を見付けた。
「呪いの指輪だけどな」
厳密には違うが、ブライゼにすれば呪いに等しい。
「えっ……。ブライゼも呪いがかけられてるの?」
驚いた顔で少女がブライゼを見上げる。
「じゃあ、一緒に探せてよかったじゃない」
これは前向きな思想、と言っていいのだろうか。
「魔女の実の呪いじゃないんだ。金の草では解けない」
そんな物で解けたらどんなに楽か。案外、見付けたら外れてくれたりは……そんな甘くないだろう。金の草がブライゼを危機に陥らせる、とは思えない。
いきなり食人植物になって、襲いかかってくる……はずはないか。そんな草が、解呪の力を持っている訳はないよなぁ。いや、相反する力を案外持っていたりして。
「じゃ、どうやって解くの?」
「……その方法をずっと探している」
探している、と言うか、試している。
「ずっとって、どれくらい?」
「百年くらい」
「そんなにっ? そんなに長い間探してるのに、まだ見付からないの?」
そんな訳ないでしょ、という返しがくるかと思ったのに、クレディアは素直すぎる反応をしてくる。
本当の話ではあるが、ブライゼは面白いと思う反面、少し申し訳なくなった。子どもというのは、こちらが考える以上に純粋らしい。
そう言えば、弟達もそうだったような……。
やはり同じくらいの知能だ、ということだろう。
「じゃ、金の草が見付かってお姉ちゃんの呪いが解けたら、今度はあたしがブライゼのお手伝いをするね」
「いいよ、目星も何もついていないんだから。クレディアは家の手伝いがあるだろ。こうしてこっそり森へ来てる分、手伝いがたまってるんじゃないのか」
「あ……えーと、どうかな」
視線を泳がせるところを見ると、帰ったら叱られると同時にどんな罰があるか、彼女なりに予測しているのだろう。
「クレディアの気持ちだけもらっておくよ」
人間にはどうしようもないとわかっていても、手伝いたいという彼女の気持ちは素直に嬉しいと思う。
弟達はともかく、他の竜は手伝ってやろう、なんて誰も一言も口にしなかった。そのうち何とかなるだろう、くらいに思っていたのだろう。ブライゼも逆の立場なら、きっとそういう態度になる。
こんなことを言ってくれるあたり、初対面の人間の子どもの方が、ずっと優しくで親切だ。
「んー……ねぇ、呪いってあちこちにあるものなの?」
「どうだろうな。呪いでなくても、自分ではどうしようもないことなんて、いくらでもある……」
ブライゼが言葉を切った。何かの気配を感じ取ったのだ。
竜本来の力でないブライゼが感じられるくらいだから、かなり濃い気配だと言える。
付け加えれば、あまりよい雰囲気はない。
何だよ。今まで平和な状態だったのに、こんな時に出て来るのか。
この気配は、まず間違いなく魔物だ。それも、さっきのような雑魚ではなく、そこそこ強い魔力を持っていると思われる。
これを相手にしてピンチな状況を作れば……と思ったが、ブライゼはすぐに却下した。
今は自分だけではない。ほぼ何もできない、人間の少女が一緒だ。
自分がピンチになれば指輪が外れ、元の姿に戻れるが、戻るより先にクレディアが襲われたりしたら、よい展開は望めない。
クレディアと同行したのはたまたまだが、ブライゼは自分の都合で人間を巻き込むつもりはなかった。襲われて負傷すれば、元の姿に戻った時に治すことはできるが、万が一の時はいくら竜でもなす術がない。失われた命を戻すことは、竜の世界でもタブーだ。
ピンチには違いないが、どちらかといえばこれはブライゼではなくクレディアの方。同行を了承した以上、クレディアに何かあれば責任を感じてしまうではないか。
「何かいるぞ」
隠しても仕方がないので、ブライゼは立ち止まってクレディアに伝えた。
「ちょっとやばそうな相手かもな」
「あたしも一緒に戦うよ」
クレディアはベルトにはさんでいたナイフを取り出そうとし、ブライゼがその手を押さえた。
「かえってケガするから、やめておけ」
さっきの様子を見た限り、間違っても戦いに巻き込んではいけないタイプだ。
「でも」
クレディアが反論しようとした時、進行方向にある草むらががさっと音をたてた。
そこから現れたのは、人間の大人より大きな身体の狼だ。後ろ脚で立てば、もっと大きい。
もしかして、こいつがいるから他の奴らは怖がってどこかへ逃げてた、とか? それで、俺達はここまでほとんど問題なく来てしまった……ってところかな。
「気が立ってるみたいだな」
灰色の身体のあちこちに、赤い筋状の傷がいくつもある。つい最近、それもここ数時間のうちについたものだ。まだ濡れている部分がある。
その傷痕は、噛み傷や爪でついたものではなさそうだ。猟師、もしくはそれに近い来訪者にやられて逃げて来た、というところだろう。
戦いの興奮と同時に、傷の痛みによる苛立ちが、狼の身体から湯気のように放出されている。あまり鉢合わせしたくない状態だ。
ここで「また人間か、やばい」と思って、狼の方から逃げてくれればいい。だが、そう都合よくいきそうにはなかった。
むしろ「こいつらで憂さ晴らししてやる」と考えているようで、好戦的な空気が漂っている。薄い青の目が血走っていた。
相手の様子を見たブライゼは、すぐクレディアに結界を張った。そう簡単にはケガをさせないつもりだが、狼の勢いに今のブライゼの力が対抗できるかは少々怪しい。
狼が、こちらとの間合いをじわじわと詰め始めた。やはり襲う気満々だ。
ブライゼの手に武器の類が見当たらないので、それなら自分が優位、と判断したのだろう。
先手必勝で、ブライゼが風の刃を向ける。悲鳴が響き、狼の身体に傷が増えた。
魔法の攻撃に一瞬たじろいだものの、狼は構わずにブライゼへ牙を向ける。それを見ていたクレディアが悲鳴をあげた。
もちろん、ブライゼもやすやすとやられるつもりはない。
狼はブライゼが瞬時に出した氷の壁に激突し、地面を転げる。だが、氷の壁も同時に砕けた。
んー、これを砕いたか。力を抜いたら噛み付かれて、腕の一本も取られそうだな。
本当にそうなりかければ指輪は外れるだろうが、そこから元の力を取り戻すまでにどれだけの時間がかかるだろう。
それがわからないから、へたな動きはできない。
ルボートは指輪を外せたと聞いたが、その直後に力を取り戻すのに時間がかかって……なんてことはなかったのだろうか。
その辺りの真相は誰も知らなかったので、今あれこれ考えても所詮は予想。何もわからないのだから、ブライゼがピンチになる時は、周りに誰もいない状態が望ましい。
余計な被害者が出ないように、と明確に考えていた訳ではないが、誰かを巻き込まないように、とブライゼは今まで単身で行動していた。
でも、今は人間の少女がそばにいる。先が読めないので、この状態は別の意味でピンチだ。本来より少ない魔力を駆使して、魔物に挑まなければならない。
いつもなら、望んでもいないのに要領よくこういった手合いをあしらえてしまうが、こんな時は考えすぎてそれができなかったりするのだ。
「手加減はしないからな。かかって来たのはそっちだ」
ここは迅速に処理しなければ。
壁に当たって地面を転げていた狼は、素早く体勢を立て直していた。ブライゼの攻撃にひるむ様子もなく、まだやる気でいる。
両者が睨み合った。
その時。
「うおおーっ」
いきなりそんな声が聞こえ、ブライゼは狼が気合いを入れて吠えたのかと思った。
だが、目の前にいる狼が口を開いた……ようには見えない。それに狼の声とは違う。
次の瞬間、何か来る、と感じたブライゼはその場から一歩飛び退いた。青ざめた顔で近くにいたクレディアを、自分の後ろに隠す。
その直後、ブライゼに集中していて対処に遅れた狼が、大きな悲鳴を上げた。
「勝手に勝負を放棄するなよなっ」
うなり声を上げながら現れた誰かが、息を切らしながらつぶやいた。
後ろ姿なので、汚れた金髪を無造作に束ねている長身の人間、というくらいしかわからない。声からして、若い男のようだ。
その彼の手には剣があり、切っ先は狼の身体の中に潜り込んでいた。
横腹を刺し抜かれ、狼はゆっくりと地面に倒れる。図体が大きいので、倒れた時の音が重い。
「よっ」
狼の身体に足をかけ、男が剣を抜く。狼は一瞬けいれんしたかのように動いたが、その後はもうピクリともしなかった。完全に事切れたようだ。
「ったく、手間かけさせやがって……って、やばいっ」
近くにブライゼとクレディアがいることに気付いたらしい男は、慌てて近くの木の陰へ走る。
え……今更、何だよ?
突然の不可解な行動に、ブライゼとクレディアはぽかんとなった。
「おれに近付くなよっ。近付いたら、どうなっても知らないからな」
その様子や口調はまるで何かに怯え、周囲を遠ざけるように精一杯虚勢を張っているみたいだ。たった今、大きな狼の魔物を倒した人間の言葉とは思えない。
「近付くなって言うなら、近付かないけど。俺達はお前が走った方向へ行くつもりだったんで、どうすればいい?」
ブライゼに隠されたおかげで、狼が殺されるショッキングな場面を見なくて済んだクレディア。彼女も、この妙な展開に戸惑った顔をしている。
あちらの事情はともかく、助けられたような形なのだが、ここで礼を言っていいものなのか。
「どうすればと言われても……ちょっと待ってくれ。すぐに……ん?」
何か面倒そうなのが増えたぞ。聞こえた声もそうだし、さっきちらっと見えたけど、まだ若いよな、こいつ。
木の陰へ走って行く時、わずかながら顔が見えた。今、ブライゼがとっている少年の姿より少し上、くらいか。二十歳前後、といったところだろう。
汚れなのか、本来の色なのか、黒い革の防具を身に着けていた。それがかなりぼろぼろだったから、魔物退治を仕事にしている人間かも知れない。
現れた時のセリフからして、狼の身体に付いていた傷は彼の手によるものだろう。狼はそこから逃げ、図らずもブライゼ達の前に現れたのだ。
それにしても、仕事が終わったこの男がなぜ隠れなければならないのだ。





