036 井の中の蛙、大海に惚れる。
アンジェリカ・ヴァ・エルラドは、自身が強者であることを知っていた。
幼き頃より非凡な才を見せ、幾多の大人たちが舌を巻いた。
その才を恐れる者。
その才に媚びへつらう者。
人は彼女を剣姫と呼び、父親譲りの傑物として扱う。
だが奢りはあれども、慢心はなかった。
世界はあまりにも、彼女に都合の良い世界だった。
欲しい物は望めば何でも手に入る。
高価なドレス、装飾品……そして、力でさえも。
あぁ――――彼女は神の祝福を受けているのだ。
曰く、剣姫の剣は剣神に届く。
曰く、傑物の子もまた傑物だと。
未だ父には及ばない。
だがそれも時間の問題であると。
事実、いなかったのだ。
同世代に、彼女の相手をできる者が。
あまりにもつまらない灰色の世界……。
それが彼女のいる世界だった。
オルフェン王国演習場。
破損した備品が多いその舞台は、彼女の胸を躍らせる場ではなかった。
王国と公国の共同演習、そこでも剣姫はただ一人。
王国の騎士など、彼女の前では烏合の衆でしかない。
そしてまた一人、赤髪の騎士が彼女の前に立つ。
この騎士もまた、彼女を褒め称えるのだろう。
さすが剣姫だ……と。
立会人の合図とともに剣を交える。
だが様子がおかしい。
汗と寒気が止まらない。
そして……彼女の世界は感情に支配される。
――――剣姫は生きている心地がしなかった
恐怖という感情に彩られ、ただひたすらに翻弄される。
技術の面ではすでに父を超えている。
だがその剣は、目の前の騎士にとっては児戯のような扱いでしかなかった。
立ち続けることさえ叶わない。
耐え切れず折れてしまった剣。
それはまるで、彼女の自信そのものだ。
「さすが剣姫殿、つい本気を出してしまいました」
そう口にした騎士は汗一つかいていない。
さすが剣姫……あまりにも聞きなれた言葉。
同じ言葉でも、こんなにも心を抉られるのだろうか。
……こんなにも、心ときめくのだろうか。
「あの、お名前を伺っても……?」
この日、赤髪の騎士は彼女の世界に彩りを与えた。
◇ ◇ ◇ ◇
「そして私は悟ったのです。あぁ、私はお姉さまという美しい一輪の花にとっての、引き立て役でしかなかったのだと」
アンジェリカさんは一人捲し立てるように話す。
別に過去の話を聞いたわけではない。
勝手に楽しそうに語りだしたのだ。
リズさんはちょっと引いている。
そりゃそうだ。
剣を折った相手に、お姉さまなんて呼ばれて自分に心酔されたら……。
「アンジェ、その辺にしてくれないか。キミは過去を美化しすぎだ」
リズさんにしてみればやらかした過去なのだろう。
「すいませんお姉さま、久しぶりでしたのでつい……」
アンジェリカさんは申し訳なさそうに……いや、嬉しそうだ。
やべぇ人じゃん……。
「そういえば、今は冒険者だとおっしゃいましたね?」
パッ、と表情と共に話が変わる。
表情豊かな公女様だ……。
「あぁ、この中央都市を拠点に活動している」
もはや拠点というか住んでるというか、永住しそうな流れではありますが。
「どちらの宿に泊まってらっしゃるんです?」
これは来るつもりだ……絶対に来るぞ。
「家を買ったんだ。私たちローズクォーツの拠点だ」
リズさんはちょっと誇らしげに答えてしまう。
公女様からしたら犬小屋レベルの家だろうに。
「家を? それならいつでも会えますね!」
嬉しそうな表情に……と思ったが、急に鋭い目つきに変わる。
「まさかお二人で住んでる……というわけではありませんよね?」
アンジェリカさんがジロッとこちらを一瞥する。
二人だと何か問題が……?
「いや、メイドがいるので3人だ」
メイドという名のオカンだけど。
「女3人……それなら安心ですね」
アンジェリカさんがホッとしている。
ここでも誤解は発生したようだ。
「いや、エルは――――
「リズさん! そろそろ大事なアレの相談もしないといけないので……公女様も忙しいでしょうし、とにかくこの辺にしておきましょう!」
誤解を解こうとしたリズさんを遮るように、ありもしない用を作る。
アンジェリカさんの誤解は解かない方が良い……と、僕の直感が告げているのだ。
「大事なアレ……?」
何か……リズさんがここを離れる何かを考えないと。
「…………お風呂に関することです」
こそっとリズさんに耳打ちする。
「ふむ、たしかにそれは大事だな」
リズさんの目の色が変わる。
やはりこの人は風呂が好きなんだな。
「悪いなアンジェ、良かったら今度家に来てくれ。場所は――――」
律儀に教えてしまう。
こそこそ話したせいか、アンジェリカさんの瞳には疑惑の色が垣間見える。
あぁ……これは対策を考えておかないと、僕の命が危ない。
「それで? 風呂で大事な用とはなんだ?」
なんとか適当な用件でアンジェリカさんと別れることに成功したが、この先のことは考えていなかった。
そもそも今のお風呂だって必要な時にメイさんが沸かしておいてくれるので、何の不満もない。
あるとしたら、師匠の家と違って魔道具シャワーがないことぐらいで……。
「そうだ……シャワーがないんだ」
師匠の家には温水の出るシャワーがついていた。
あれがもし売ってあるのなら……。
「シャワーか、貴族の風呂にはたまについている、と聞いたことはあるが……」
実物はみたことない、といった口振りだ。
だがそういうことなら、魔道具店に行けばあるのかもしれない。
金はあるので、商業区でも高級志向なお店のほうへと足を進めた。
ということでやってきたのが、魔道具店【バルバラ】。
ロンバル商会の直営店より貴族向けの専門的な品揃えのようだ。
そして置いてあった温水シャワーヘッドが……金貨5枚。
思ったより良心価格に感じるのは、白金貨100枚以上という所持金のせいだろうか。
だがもう一つ気になるものがあった。
それは、【給水庫】と書かれた謎の箱……金貨30枚。
「すいません、この給水庫ってなんですか?」
従業員に説明を求めると、かなり丁寧な解説を始めた。
こういうところはさすが高級店だ。
給水庫は、魔石から水を生み出し貯蔵しておける、便利な貯水タンクのような魔道具。
そこから引いた水をお風呂や台所などの水場で使えるということらしい。
もちろん引くための工事は必須。
試しに水を見させてもらう。
飲み水としても使える、ということなので一口だけ……うん、軟水だ。
これは合わせて買わねばなるまい。
ついでに台所でも温水が出せるように……あぁ、すごい物が目に入ってしまった。
そこには【保冷庫】と書かれた、長方形の箱があった。
これは……どう見ても冷蔵庫ではないか。
さすがに冷凍室はついていないが、これは文明開化の音が聞こえてくる代物だ。
全て――――買わねばなるまい!
温水と冷水の切り替えができるシャワーヘッド、及び同じ性能の蛇口も合わせて金貨10枚。
給水庫は、水属性の魔石を半年に1回ほど交換する必要がある。
水属性なので、僕では魔力補充ができない。
だから買わなければならないが、必要経費だ。
本体は金貨30枚、消耗品の魔石は1個で金貨2枚。
保冷庫も同じく水属性、厳密には氷属性の魔石を交換する必要がある。
本体は金貨18枚、消耗品の魔石は1個金貨3枚。
合計で金貨63枚。
個人的にはすごく良い買い物をしたと思っている。
きっとメイさんも喜ぶに違いない。
そう思っていた時期が、僕にもありました。
結果……僕らの正座はプライスレス。
「こんなぎょうさん買うてきて、どこに置く場所あんねん」
「おっしゃる通りです……」
ただいま僕らはメイさんに正座させられております。
一番大事な給水庫と保冷庫の置く場所を、まったく考えておりませんでした。
「だいたい、水を引く工事はどないすんねん」
それね、思ったより高かったのでケチっちゃいました。
「メイ……頼む」
申し訳なさそうに、リズさんも懇願する。
仕方ない、あまりこういうことはしたくなかったが……。
金貨を2枚取り出し、僕は交渉に入る。
「もちろん臨時ボーナスもお支払いしま――――
「――ウチに任せとき!」
なんだかんだで頼もしいオカンメイドだった。