206 私は主人公じゃない。
魔王の器を持っていたのは、この世界の私じゃない。
前世の……世界に絶望した私のほうだった。
あの魔力は云わば負の感情だ。
忘れていたわけではない、忘れられるわけがない……。
ただ、当時の感情が強く甦る――
結果――――感情に身を任せるしかなかった。
代わりに、私の意識は理想の世界に引きこもった。
ここには何でも揃っている。
ソファでくつろぐアンジェリカは、今までになく満たされていた。
理想的な両親。
理想的な家庭環境。
自分を否定する存在のない世界。
ここはすごく心地良い……。
もうずっとここにいれば心がざわつくこともないだろう。
わざわざ疲れにいくこともない。
……わざわざ嫌なことをやる必要もない。
ずっとぬるま湯に浸かることの何が悪いというのだ。
そう……わかっているはずなのに。
なぜ――――こんなにも落ち着かないのか。
その理由もよくわかっている。
……この世界で得たものが大きすぎた。
それを捨てたくないと……失いたくないと焦りを覚える。
戻ればきっと、この先辛いことはいくらでもあるだろう。
また心折れるようなこともあるかもしれない。
それが怖い……だから――――
誰か……強引にでも私の手を引いてほしい――――
◇ ◇ ◇ ◇
人々は、落ちた大聖堂の上空にて繰り広げられる戦いに目を奪われていた。
「なんだよあの禍々しい魔力は……」
「魔神は倒したんじゃなかったのかよ」
「見ろ、聖騎士様が戦ってるぞ!」
「教皇様亡き今、もうこの国を救えるのは聖騎士団長だけだ……」
邪神像の力から解放されたにも関わらず、信徒たちは再び祈りを捧げ始める。
「ふむ……神と認識されるにはまだ演出が足りぬか」
であれば目の前の新たな敵の出現は丁度いい。
公爵はそう思っていたのだが、徐々に期待ハズレだとガッカリし始める。
「――――ッ!」
アンジェリカは、叫び声を上げながら暴風のような魔力の渦と共に突っ込んでいく。
「愚かな、ただの魔力の塊など……」
何の工夫もない。
ただただ力任せに魔力を垂れ流した攻撃は、神力の盾に阻まれ公爵に届いてすらいなかった。
「自身の魔力に飲まれているのか……残念だ」
この魔力は混じり気の無い純粋な魔力。
故にどれだけ強大であっても、公爵には通じるわけがなかった。
魔神のように創造神が生み落とした神力があるわけではなく。
リズリースのように神の遺物による神力もない。
かといってエルリットのような精霊の力があるわけでもない。
「使いようによっては可能性があっただろうに」
無限とも思える魔力がそう思わせていた。
事実効いてはいないものの、アンジェリカの猛攻は続いている。
それを見ていたリズは、辛うじて立ち上がった。
拳を握りしめ、高く跳び上がる――
「歯を食いしばれッ!」
その拳は――――公爵ではなくアンジェリカの頬を捉えた。
遠慮のない一撃に、その身は大地に叩きつけられる。
着地したリズは、アンジェリカを見下ろしていた。
「まだ慰めてほしいのか?」
握った拳には血が滲んでいた。
「……いえ、ありがとうございます……お姉さま」
アンジェリカは立ち上がる。
その目は、先ほどまでと違って光が灯っていた。
強引に現実に引き戻されたが、干渉に浸っている暇はない。
(これが私の力か……)
冷静に自分の魔力を分析する。
暴走が止まったからといって、力の質に変化はない。
受け入れよう……これも自分だ。
(そして今の公爵に魔法は通じない)
だから考えろ、今自分にできることを……。
「どうした? せっかく冷静になれたのだ、色々試してみたらどうだ?」
公爵は、かかってこいと言わんばかりに手招きしていた。
たしかに……これだけの膨大な魔力だ。
工夫次第で戦える可能性は大いにあるはず……。
私が物語の主人公であったなら――――
アンジェリカは手に魔力を込め、リズへと流し込んだ。
あまり得意ではないが、簡単な治癒も施していく。
「アンジェ、何を――」
「私は主人公じゃなくていい……」
もう片方の手は、別方向に向かって魔力を飛ばした。
それを受け取ったエルリットは、体内の魔力が回復していく。
「これは……」
「魔力で良かったらいくらでもあげるわよ」
そうだ……可能性があるというのなら、それは私である必要はない。
戦う力を持っているのは、私である必要はないんだ――
「……助かった、アンジェ」
リズは再び聖剣を身に纏う。
その姿を見て、アンジェリカは自身の選択が間違っていなかったことを知る。
あぁ――ずるいな。
やっぱり勝てる気がしない。
「これでまた戦える――ッ!」
アンジェリカの眼差しの中、リズは公爵に肉薄し拳を放った。
「ふん、何度来たところで」
だが神力の盾はあっさりと割れる。
公爵は自身の腕で防がざるをえなかった。
「盾は使えぬか……しかし芸のない」
そう言いつつも、力を緩めればおそらくこの拳は自身に届く……そう確信していた。
「私一人ならそうかもしれんな」
「――ッ!?」
公爵は咄嗟にもう片方の腕で反対側をガードする。
直後――閃光が襲い掛かった。
「これで両手が塞がりましたね」
エルリットは指先から閃光を放ち続ける。
それでも公爵から余裕は消えない。
「たしかにどちらも神に届きうる……だが二人では足りんな。頼みの綱は盾を抜けんのだろう」
公爵はアンジェリカを見て笑みを浮かべている。
こんな状況でも、魔力による攻撃であるなら傷一つ負わない自信があった。
「そうね……私じゃ無理だわ」
しかしアンジェリカは悲観していない。
なぜなら、頼みの綱である味方は私ではないからだ――――
「この神力は――」
公爵が上空からの気配に気づくよりも速く、光の星が大地に落ちる。
――――聖槍流星!
一際眩い光が弾ける。
同時に、王都は一瞬だけ大きく揺れた。
砂煙が徐々に薄れていくと、巻き込まれていたリズが起き上がる。
「以前私が受けた時とは比べ物にならん威力だ」
とはいえ特に傷は負っていない。
同様にシルフィも姿を現した。
「すみませんリズさん、神力の通りが良くて加減が……」
「いやいい、こうでもしないと…………いや、これでも足りないようだからな」
リズは先程の地点を振り返り、シルフィは槍を構えなおす。
そこには膝を付く公爵の姿があった。
「これは……私を除けば最も創造神に近い力のようだな」
公爵は額から流れる血を拭い立ち上がる。
僕とリズで動きを止め、シルフィの神力を宿した渾身の一撃……その結果があれか……。
傷こそ負わせたものの、やはりまだまだ浅い。
それでも……それでも少しずつ可能性は上がっているはず。
「神に届きうる者が三人……総力戦というわけか」
そう言った公爵はどこか楽しそうにも見えた。
「私はもう眼中にないってわけね……ま、元から全力でサポートに徹するつもりだけど」
アンジェリカは自分の魔力を、エルリットたち三人に纏わせる。
その肉体を活性化させ、彼らを常に万全の状態に持って行く。
(私にできるのはこれだけか……)
そう思った矢先、アンジェリカの隣にアゲハが降り立ち肩に手を置いた。
「微力ながら、私も助太刀します」
そう言ってアゲハはそっと目を閉じる。
アンジェリカの魔力を通して、瞳術の力を送り込んでいた。
「私の目は、それがたとえ神力であっても見逃しません」
一瞬だけ目が熱くなると、今まで見えていなかったものが視界に映り始める。
これが魔力の流れ……僕の体にもう一つあるのは精霊の力だろうか。
公爵のほうを見ると、あまりにも色々なものが混ざり合い濁り切って視えた。
「その目には私がどう映っているのかな」
公爵は挑発的な笑みを浮かべている。
「……神を名乗るにはちょっと汚く見えますね」
その言葉が、総力戦始まりの合図となった……。