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「ごめんね、騒がしくて」
縁側を遠くなっていく足音が聞こえなくなると、椿ちゃんは恥ずかしそうに肩をすくめて、部屋の隅に置いてある文机へ向かった。
二段目の引き出しから螺鈿が施された漆塗りの小さな箱を取り出して、蓋を持ち上げる。
中に何が入っているのか私のいる位置からは見えなかったが、誠さんがさっきくれた髪飾りを、大切そうにしまったことはわかった。
「和奏……ありがとうね」
「え?」
私に背を向けたままの椿ちゃんが、らしくもなく消え入りそうな声で呟くので、何のことを言われたのだか、一瞬わからない。
しかし椿ちゃんの真っ黒な髪の間から、赤く染まった耳の先が見え、帰りの列車での出来事を感謝されているのだろうと察した。
「あ……」
椿ちゃんは誠さんを好きなのだろうとは気づいているが、言葉にして言っていいのかはわからない。
なんと答えていいのか返答に困り、私は遠回しな言い方をしてみた。
「夏祭り……楽しみだね」
「……うん」
椿ちゃんが、細い首が折れてしまいそうに頷くので、これでよかったのだとほっとする。
「とても盛大なお祭りなのよ。といっても、田舎基準だけど……」
当日は出店が出て、太鼓の演奏があったり、のど自慢大会があったり、抽選会があったり、いつもは静かな髪振神社に多くの人が集まるのだと、椿ちゃんは教えてくれた。
「最後には花火まで上がるの。数は少ないけど……」
「花火って……どこで?」
「もちろん、神社で」
「えっ?」
驚く私を、椿ちゃんは面白そうに笑う。
「真下から見上げることになるから首は痛いし、燃えカスは降ってくるし、火薬の匂いもするけど、それもなかなかできない経験でしょ?」
「確かに」
「一緒に見ようね」
「う……」
期待に胸をわくわくさせて、当然のように頷きかけたが、私はそれを途中で止めた。
せっかく誠さんと三人で行く予定なのだから、そこは気を利かせて早目に退散し、二人きりにしてあげたほうがいいのではないかと気を回す。
「何よ……嫌なの?」
途中で黙ってしまった私を不審がり、椿ちゃんが首を傾げた時、さっき百合さんが出て行った縁側へと続く障子が、スパーンと音をたてて大きく開け放たれた。
「――――!」
驚いてふり返った先には、厳めしい顔をした大柄な和服の男性が立っている。
髭に囲まれた口を気難しそうにひき結び、着物の袖に手の先を隠すようにして腕組みし、ぎろりと鋭い目を私に向けてくるその人から、目が逸らせない。
「椿、出かけていたそうだな? どこへ行っていた? これは誰だ?」
男性の後ろに、今にも泣きだしそうな顔をした百合さんが控えていることに気がついて、私はまた畳の上に座り直した。
「今日のぶんの課題と練習が終わったので、少し散歩に出かけただけです……彼女は私の友人です」
いかにも不服そうに答える椿ちゃんに続き、私は畳に指をついて頭を下げる。
さっき百合さんにした時よりも、さらに丁寧さを心がけたつもりだった。
「はじめまして、こんにちは。青井和奏といいます」
「青井? 聞いたことがないな……どこの者だ?」
「え……」
何と答えたらいいのか困惑する私に代わって、椿ちゃんの鋭い声が飛ぶ。
「どこの者でもないわ! 和奏はこの町に越してきたばかりだもの」
椿ちゃんの父親だと思われる男性は、ふんと鼻を鳴らした。
「余所者か……勝手に成宮の敷居を跨ぐな」
「お父さま!」
叫ぶ椿ちゃんに、彼女のお父さんは指をつきつける。
「お前もだ、椿。今日、駅のあたりでお前を見たという者がいた……何が散歩だ。勝手をするなら家から出ることを禁じる。学校が休みの間はずっと部屋にこもっていろ」
「――――!」
言いたいことを言うと、椿ちゃんの返事もまたず、彼女のお父さんは行ってしまおうとする。
椿ちゃんは顔を俯けてぶるぶると震えているので、私が代わりにひき止めようと腰を浮かしかけた。
「あの……」
しかし椿ちゃんにブラウスの袖を引かれ、制止される。
「…………」
椿ちゃんのお父さんが行ってしまってから、百合さんが足をもつれさせながら部屋の中へ駆けこんできて、椿ちゃんの前に平伏した。
「お嬢さま! 申し訳ございません! 申し訳ございません!」
「百合のせいじゃないわ。気にしなくていいのよ」
椿ちゃんは力なく呟いてから、私に向き直る。
「和奏もごめん。嫌な思いさせちゃったわね……私が浅はかだったわ」
私の心配より、椿ちゃんのほうこそ、とても悲しい顔をしているのにと、声をかけてあげることができず、私はただ懸命に首を横に振るしかなかった。
帰りは百合さんの案内で、裏門からお屋敷を出た。
「どうかこれからも、お嬢さんと仲良くしてくださると嬉しいです……」
さっきから恐縮しっぱなしの百合さんが気の毒で、私は笑顔で答える。
「もちろんです」
椿ちゃんはお父さんに言われたように部屋から出ず、すでに三日先のぶんだという難しい数学の問題集を、黙々と解いていた。
文机の引き出しの二段目を時々開けて、悲しそうに中を見ていたことが印象的だった。
そこにしまった誠さんからのお土産を、おそらく見ているのだと思うと、私も切なくなる。
(夏祭り……ちゃんと行けるといいけど……)
日の傾きかけた田んぼ道を進み、父の仕事小屋兼住宅がある山に着いたのは、もう辺りが暗くなりかける頃だった。
日が暮れても月明かりがけっこう明るいことを椿ちゃんに教えてもらった私は、それを不安に思うことはなかったが、頂上へ通じる山道を逸れて、家へ向う小道に入ると、庭に佇む人物の姿が見えて、どきりとした。
「お父さん!」
また心配させてしまったのかと慌てて駆け寄ろうとしたが、そうではなかった。
父は仕事の合間の休憩だったようで、手にしていた煙草を唇で挟み、私に向かって手を上げてみせる。
私はほっと胸を撫で下ろしながら、ゆっくりと父に近づいた。
紺色の作務衣を緩く着て、頭には手拭いの、いつもどおりの格好。
父はこの家では常にこの格好をしている。
作業がしやすくて、その上楽なのだそうだ。
都会で一緒に暮らしていた頃は、いかにもサラリーマンという、スーツにネクタイ姿しか見たことはなかったが、今のほうが父らしい気はした。
他の何も気にせず、ただ自分の好きなものだけに向かっている姿は、いつも羨ましくさえある。
ふと――椿ちゃんのお父さんも和服姿だったのに、ずいぶん違うものだと思った。
もっともあちらは羽織まで着た、正装ではあるけれど――。
父の隣に立って、しばらく庭の木花を眺めながら、私は今日の顛末を簡単に話した。
「友だちと隣街へ行く予定だったんだけど、途中でやめたの。その子が、体調悪くなっちゃって……」
「大丈夫だったのか?」
「うん、少し休んだら治ったみたい」
「そうか……」
やはりそれ以上会話は続かない。
その居心地の悪さには多少慣れたつもりだが、並んで立っているのならばやはり何か話したほうがいい気がして、私は問いかけた。
「ねえ、お父さん。成宮って知ってる……?」
昨日初めて椿ちゃんに会った時、「この町の住人で、『成宮』を知らない者はいないもの」と彼女が言っていたのを思い出し、訊いてみたのだった。
父が「知っている」と答えたら、「その成宮の子と友だちになったんだよ」と話を続けるつもりだった。
ところが――。
父は唇の端にくわえていた煙草をぽとりと地面に落とし、それすら気にせずに両手で私の肩を掴んだ。
「誰に聞いた?」
力ずくで父のほうを向かされ、怒気をはらんで問いかけられた声は、これまで聞いたこともないほど低かった。
「え……?」
椿ちゃんのお父さんを彷彿とさせる鋭い眼差しで、睨むように見据えられる。
「いったい誰に聞いたんだ?」
「お父さん……?」
戸惑う私に初めて気がついたように、父ははっと肩から手を放し、足もとに落ちた煙草を拾うため身を屈める。
しかし声の刺々しさは変わらない。
「ハナさんか?」
何がこれほど父を怒らせてしまったのかがわからず、私はうまく言葉が出てこなかった。
「ち、ちがう……」
「そうか……」
父は煙草を拾うと、仕事小屋へ向かって歩き出す。
「しばらく小屋から出てこれないと思う」
「……うん」
遠くなっていく背中は、私がこれ以上何かを問いかけることも、説明することも拒んでいるような気がして、悲しかった。