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 髪振駅に到着すると、誠さんは恩師へ挨拶に行くと、私たちとは違う方向へ向かった。


「じゃあ夏祭りの夜に会おう」


 手を振って去っていく姿を見送り、この後どうしたものかと考えるまでもなく、椿ちゃんが私の腕を引く。


「ねえ和奏……もしよかったら、これから私の家へ来ない?」


 それは願ってもない申し出だったので、私は即座に頷いた。


「行く! 行きたい!」


 駅へ来る時に私も利用した、町を周回するバスに乗っていくのかと思ったが、椿ちゃんは先に立って歩きだした。


「じゃあさっそく行きましょう」


 長い髪を揺らしながら、てくてくと歩く椿ちゃんが、さっき体調を崩したことを思い出して、私は問いかけてみる。


「歩いて行くの? 椿ちゃん大丈夫? 途中までバスに乗ったら……?」


 椿ちゃんは私をふり返り、首を傾げた。


「バス……? そんなものないわよ」

「え……」


 また私に背を向けてさっさと歩き始める小さな背中を、慌てて追う。


(椿ちゃんの家がある方角へは、バスは行かないってことかな……? 確かにお父さんの仕事小屋がある山とは全然違う方向だし……)


 ワンピースの裾をひらひらさせて、腰の低い位置で軽く手を組んでいる椿ちゃんは、商店が並ぶ大通りではなく、脇道へとどんどん入っていく。

 住宅の間を縫うような細い道が続いたが、しばらく進むとふいに視界が開けた。


「わあっ」


 感嘆の声を上げて思わず足が止まってしまった私をふり返り、椿ちゃんが笑う。


「何やってるの、和奏。おいてっちゃうわよ」


 私は急いで椿ちゃんの隣まで駆けた。


「待って!」


 舗装もされいていない細い田んぼ道は、左右にどこまでも水田が続く。

 青々と繁った水稲が、風に吹かれてさわさわと揺れ、天気はとてもいいが、暑さはあまり感じなかった。

 道沿いに細い用水路がずっと続いているせいかもしれない。

 コンクリートで固められていない水路には藻が揺らめき、魚の影も見えた。


「今、なんかいたよ!」


 私が指すほうをちらりと見て、椿ちゃんは前へ向き直った。


「鯉か鮒でしょ……そんなのが珍しいの?」

「珍しいよ!」


 少なくとも私がこれまで暮らしていた街には、魚が泳いでいる小さな川などなかった。

 いや、私が知らないだけで、コンクリートで蓋をされた下には流れていたのかもしれないが、おそらくこれほど澄んだ水でも、魚や藻が育つような水質でもなかっただろう。


 柄の長い網を持った小学校低学年くらいの男の子たちが、遠くでしきりに水路沿いを行ったり来たりしている。


「かずーそっち行ったー」

「うわあっ、待てって……ああー逃げられたー」

「なんだ、またかよー、あはは」


 いかにも夏休みを満喫しているふうの元気な声に、感嘆の息が漏れた。


「いいなぁ……」

「何が?」


 突然の風に麦わら帽子が飛ばされてしまわないように、手で押さえて私をふり返った椿ちゃんには、きっとわからないだろう。


 空がこれほど高く、青いこと。

 太陽がどんなに照りつけても、木陰は涼しく、頬を撫でる風は優しいこと。

 澄んだ水には、たくさんの生命が息づいていること。

 

 私がこの町へ来て初めて知った事柄は、どれも、これまでの夏では感じることのなかったものばかりだ。


(来てよかった……)


 すれ違う男の子たちに、口々に「こんにちは」「こんにちは」と挨拶されて、律儀に一人ずつに返している椿ちゃんのあとを追いながら、考える。


「こんにちは!」


 私にもちゃんと挨拶をしてくれる少年に、私も「こんにちは」と返して、また少しこの町の住人になれたような気がした。



 田んぼ道をずっと歩き、突き当りの丘を登る道へ入ると、椿ちゃんは急に口数が少なくなった。

 それまでは、小さな頃の夏休みの思い出などをしきりに私と言いあっていたのだが、それも途中でやめてしまった。

 道は綺麗に舗装されており、両側に剪定された植え込みが続いているので、もうすでに椿ちゃんの家の敷地内に入っているのではないかと思う。

 そう訊ねてみると、「そうだ」と肯定された。


「ちょっとここで待っててくれる? 和奏」


 丘を登りきると椿ちゃんは私にそう言い、どこまでも続く白塀の曲がり角から顔だけを出して、左の方角を確認した。

 どうやら入り口付近に誰もいないかを確かめているようだ。


 私はといえば、自分の背丈の二倍ほども高さがある白塀を、山の上から見た時に、椿ちゃんの大きな家をぐるりと取り囲んでいたあの塀だと、感嘆の思いで見上げていた。


(やっぱり……すごく立派なお家……)


 上に瓦を乗せたいかにも歴史ある造りの塀の向こうには、よく手入れされた大きな木々が連なる。

 松の木一本とっても、梯子を掛けなければてっぺんの剪定ができない高さの立派なものだ。


(すごいなぁ……)


 父の住居兼作業小屋のあの庭の、いったい何倍の規模だろうなどと考えていると、椿ちゃんに腕を引かれた。


「よし、今よ! 和奏行くわよ!」

「え? え?」


 促されるまま小走りで角の先にある門へ近づき、椿ちゃんと共にそれを潜る。

 まるで時代劇に出てくる武家屋敷のような、大きな木製の門だったが、椿ちゃんによるとあれは正門ではなく、裏門だったらしい。


「正門になんて回って、もし私を探している連中がいたら、たいへんなことになるわ!」

「椿ちゃん……?」


 実は彼女は、ちょっと散歩に行ってくると言っただけで、今日出かける許可を、正式に両親から取っていなかった。


(そういえば出がけにちらっと、そんなことを言っていたような……)


椿ちゃんの自室だという離れの縁先に、まるで泥棒のように足音を忍ばせて近づきながら、私は声をひそめる。


「そんなことして、もしバレたら、今後ますます出かけにくくなるよ……?」


 私の忠告に、それでも仕方がなかったのだと椿ちゃんはぷーっと頬を膨らます。


「お父さまがどんなに頑固で、私の話にどれだけ聞き耳を持たないか……和奏は知らないから……お母さまはお父さまの言いなりだし……」

「でも……」


 これは、迂闊に家へ遊びに行く約束などしている事態ではなかったのではないかと、不安を大きくしながら椿ちゃんと共に濡れ縁へ上がり、真っ白な障子を開けた時、暗い室内から押し殺した声がした。


「お嬢さまぁ……よかったぁ……」


 部屋の中央に赤い着物姿の女の子が座っており、目に涙を浮かべてふり返ったので、私は驚きのあまり椿ちゃんに抱きついた。


「――――!」


 椿ちゃんは、まあまあと私の肩を叩き、女の子の前に座る。

 椿ちゃんと背格好がよく似たその女の子は、急いで着ているものを脱ぎ始める。


「すぐにバレるんじゃないかと、もう、生きた心地がしませんでしたよ」

「誰にも気づかれなかったでしょ? 次もぜひお願いね、百合」

「もう絶対に嫌です!」

「ええーっ」


 椿ちゃんはテキパキと、女の子が脱いだ着物に袖を通し、女の子のほうは押入れから出したもう少し落ち着いた色の着物に着替える。

 二人のやり取りから、どうやら女の子は椿ちゃんの身代わりとして、この部屋に座っていたらしいと察した。


「それに『百合』はやめてください。そんなたいそうな名前、お嬢さまに呼ばれると恥ずかしくて……名付けた両親を恨んでるっていつも言ってるじゃないですか」


 私たちより少し年上くらいの女の子は、椿ちゃんの家で働いているのだろうか。

彼女のことを『お嬢さま』と呼ぶ。


「名前じゃなきゃ、なんて呼べばいいのよ?」

「それは……『おい』とか、『お前』とか、適当でいいです」

「そんなわけにはいかないわよ」


 二人の着替えを凝視しているのも申し訳なく、純和風の部屋の中をもの珍しくきょろきょろと見回していた私に、女の子がふと視線を向けた。


「あの、こちらは……?」


 私は慌てて、畳の上に正座で座り直す。


「こんにちは、はじめまして。青井和奏といいます。椿ちゃんの……友人です」


 これでいいのかよくわからないながらも、畳に指をついて頭を下げた。


 ちょうど着替えが終わったらしい女の子も、慌てて座り直す。


「そんな! どうか頭を上げてください! 私は、お嬢さまのご友人に頭を下げていただくような人間じゃ……」


 焦りながら手を振る途中で、はたとその動作をやめ、信じられないようなものを見る目で、ゆっくりと椿ちゃんをふり返った。


「ご友人……お嬢さま……ついにお友だちができられたんですね……」


 感動的に目を潤ませ、鼻をすする百合さんを、椿ちゃんは不服そうな目で見る。


「まるで、これまで全然友だちがいなかったみたいに言わないで! まあ……遠からずだけど……」

「よかった。本当によかった……」


 百合さんはずずいと私の前に膝を進め、私の両手を取った。


「どうぞ末永く、仲良くしてあげてくださいね。ちょっとわがままで頑固ですけど、根は優しい方なんです……」

「はい……」


 頷く私の手を、椿ちゃんが百合さんから取り上げる。


「いいから! お茶とお菓子かなんか持ってきて。くれぐれもお父さまには見つからないようにね」

「はい」


 百合さんは着物の袖で涙を拭いながら、部屋から出て行った。

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