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スマホを忘れてきてしまったので正確な時刻はわからないが、まだ昼を少し回ったくらいの時間のはずだ。
それなのに帰りの列車は、行きの列車よりも混んでいた。
ボックス席に一人で座っている人が多く、一緒に座らせてもらえばいいのだろうが、できれば椿ちゃんと二人で座りたい。
(また具合が悪くなるかもしれないし……その時に横になれるスペースがあったほうがいいよね)
隣の車両に移動しようかと進んでいると、ふいに声をかけられた。
「あれ……椿?」
瞬間――。
私の肩に腕を廻して頼りなく歩いていた椿ちゃんが、私を押し退けるようにしてその場から数歩飛び退いた。
「え? ……え?」
その突然さに驚いてしまい、私は声の主を確認するのが少し遅れた。
改めて目を向けてみると、右側のボックス席の窓際に座った青年が、椿ちゃんに笑顔を向けている。
二十歳くらいで、見るからに優しそうな男の人だ。
真夏だというのに、長袖の白いシャツをきっちりと着こなし、さらさらの黒髪も綺麗に切り揃えられている。
いかにも好青年ふうの彼から、椿ちゃんは無理に首を捻り、必死で目を逸らしていた。
「び、びっくりした……どうしてこんなところにいるのよ?」
本当に驚いたらしく、手で胸を押さえている。
彼は私に向かって会釈し、椿ちゃんにまた笑いかけた。
「大学が夏休みになったから帰省だよ。毎年夏まつりの前には帰ってくるだろ?」
「そうだったかしら?」
ぷいっとそっぽを向く椿ちゃんを笑いながら、青年は私に自分の斜め前の席を示した。
「せっかくだから、どうぞ」
「えっ!?」
椿ちゃんは目を剥いたけれど、私は彼の申し出に甘えることにした。
「ありがとうございます」
私がさっさと通路側に座ったので、椿ちゃんはその奥の窓際の席か、青年の隣に座るしかなくなる。
ぶつぶつ言いながら私の隣に座ったが、青年と向きあう格好になったことが不都合らしく、ずっと下を向いている。
艶やかな黒髪の間から見え隠れする耳の先が真っ赤なことに、私はとっくに気がついており、きまり悪そうな椿ちゃんの横顔を、頬が緩むのを必死にこらえながら見ていた。
「何笑っているのよ、和奏」
どうやら私の努力は足りていなかったらしい。
椿ちゃんが恨みがましい目を向けてくる。
「わ、笑ってないよ」
「和奏ちゃんって言うんだ……椿の友だち?」
ふいに青年に訊ねられたので、私ははっと背筋を伸ばした。
「はい、青井和奏です。はじめまして」
「はじめまして。僕は、折川誠といいます。椿の……ご近所さん? 幼なじみ……かな? そういう感じです」
「そうなんですか」
なるほどと頷きながらも、私の耳は隣に座る椿ちゃんの
「感じってなんなのよ、感じって……」
という呟きを鋭く拾ってしまい、ますます頬が緩む。
「椿、よかったね。友だちできて」
「余計なお世話よ!」
椿ちゃんが態度悪く叫んでも、誠さんはにこにこと笑っている。
その様子を見ていると、不思議と私まで幸せな気持ちに包まれた。
(好き……なんだろうな、椿ちゃん。誠さんのこと……)
私はあまりそういう勘がいいほうではないが、さすがにわかる。
彼の言葉や仕草や表情に過敏に反応して、赤くなったり焦ったりしている椿ちゃんは、これまでにも増して可愛い。
「そうそう、今度はちゃんとお土産買ってきたよ、椿」
「別にそんなもの頼んでないわよ」
「まあそう言わず……あれ? どこにしまったかな……?」
肩から掛けるタイプの布製の鞄を漁っていた誠さんは、そこから綺麗な髪飾りを出した。
小さな花がいくつか重なったデザインの、凝った造りの髪飾りだ。
「燈籠祭りにつけて行ったらいいんじゃないかな」
「ありがとう……」
消え入りそうな声でお礼を言った椿ちゃんのために、何かできることはないだろうかと思案しながら、私は声を上げた。
「燈籠祭り?」
誠さんは頷いて、説明してくれる。
「ああ。髪振神社の夏祭りだよ。和奏ちゃんはひょっとして髪振町の子じゃない?」
「最近越してきたんです」
「なるほど」
誠さんは頷いてから、身振り手振りを交えて説明してくれた。
「毎年七月の終わりに催されるお祭りなんだけど、境内のあちこちに、町民の作ったいろんな燈籠が奉納されるんだ。だから『燈籠祭り』。紙製のものはもちろん、石製や竹製や布製……本当にいろんな種類が、いろんな飾られ方をする。遠くから見ても綺麗だけど、実際にお参りするといろんな発見があって更に楽しいから……ぜひ椿と一緒に行ってみて」
想像するだけで素敵な光景だと、私は大喜びで「はい」と頷きかけたが、寸前でそれを止めた。
ちらちらと誠さんを見ている椿ちゃんを確認して、本心に反し、いかにも残念そうにため息を吐いてみせる。
「行きたいけど、行かせてもらえるかな……もし私が無理だったら、誠さん、ぜひ椿ちゃんと……」
我ながら、実に良いことを思いついたと考えながら、提案しかけたのだったが、ものすごい強さで椿ちゃんに腕を掴まれた。
(痛っ!)
慌てて隣を見ると、椿ちゃんが大きな目に涙をうっすらと浮かべて、真っ赤になって首を振っている。
その必死な様子に、私は彼女の心中を推し測った。
(二人きりでお祭りは、恥ずかしいと……)
けっこういい雰囲気の二人なのにと思いながらも、私はひとまず椿ちゃんの懇願に屈することにした。
(そんなに恥ずかしいなら最初は三人でもいいか……いい感じになったら私がいなくなればいいんだものね……)
心の中で決意し、言いかけていた言葉を改める。
「私も、なるべく行けるようにお願いしてみるんで……よかったら誠さんも一緒に三人で行きませんか?」
「え? 僕も?」
そういう提案がされるとは思っていなかったらしく、少し考えるそぶりをしたあと、誠さんはにっこりと頷いた。
「ああ、いいよ。椿と二人で、和奏ちゃんに、『燈籠祭り』を案内してあげるよ……と言っても僕も、髪振町へ帰ってきたのはお正月ぶりなんだけどね」
それからしばらく、誠さんは自分について私に説明してくれた。
東京の大学に通っていること。
今四年生で、卒業後もあちらへ残り、就職すると決まっていること。
仕事に就いたら学生のように簡単には帰ってこれなくなるだろうから、ひょっとしたら今年が最後の夏祭りになるかもしれないこと。
椿ちゃんは彼の話を口を挟むこともなく、ずっと窓のほうを向き、景色を眺めているふうだったが、トンネルに入った瞬間、その表情がはっきりと窓ガラスに映り、とても悲しそうな顔をしていたのだとわかった。
(椿ちゃん……)
まるで自分のことのように、私の胸も痛んだ。
(どうなるのか、先のことはわからないけど……いい思い出作りのお手伝いはできるんじゃないかな……)
咄嗟の勘を頼りに、夏祭りに三人で行けるように動いた自分を、褒めてやりたい気分だった。
(うん……二人がいい思い出を作れるように……がんばろう)
ひそかな決意を固めながら列車に揺られた帰路は、往路よりもかなり速く、目的の駅へ着いたように感じた。