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苔むした石造りの鳥居の向こうに、角度の急な石階段が見える。
近づいてみても、登った先に何があるのか見えないほど長い石段だが、鳥居の脇の石碑に『髪振神社上之社』と彫られているので、おそらく私が目指していた場所にまちがいないだろう。
「着いたあ……」
ほっとひと息をつき、鳥居の横の岩肌をちょろちょろと伝い流れている湧き水で、手を洗った。
冷たい水が心地いい。
両手ですくって少し飲んで、それから私は再び歩き始めた。
途中で大きな風が吹いた時にも感じたことだが、ふとしたきっかけで、山の空気はガラリと変わる。
今もそうで、私が鳥居を潜って石段を登り始めた途端、また体感温度が下がったように感じた。
(寒いくらいだ……)
もうすぐ七月も終わり。
まさに夏真っ盛りのはずなのに、半袖の上に何か羽織ってくるべきだったかと後悔するほど、山の頂上付近は涼しい。
アスファルトの照り返しでじりじりするようだった都会とは、まるで違う国へ来たかのようだ。
(暑い暑いって言いながら、お母さん、今日も仕事へ行ったんだろうな……)
母のことを思うと少し胸が痛むので、しばらくは考えないように努力しながら、私は石段を登った。
登りきった先は、想像していたよりもずっと拓けた場所だった。
神社の拝殿と、その奥に本殿、お守りやお札の授与所と、社務所らしき建物もある。
しかしそのどれも無人で、授与所に至っては閉めきられており、私以外には人の気配もなかった。
「…………」
ひとまず拝殿でお参りしてから、ハナちゃんが言っていた『展望台』へと向かう。
敷地をぐるりと囲っている柵に沿って進むと、すぐにそれらしき場所へ到着した。
「わあああっ」
思わず大きな歓声を上げずにはいられない。
確かにその場所からは遥か眼下に見下ろす形で、町を一望することができた。
大きな川沿いに田園と住宅地が広がり、高いビルはほとんど見当たらないこの『髪振町』は、人口四万人弱の、山も海もある町だ。
主な産業は農業と漁業だが、世界的にも名の知れた大きな企業の工場もある。
田舎のわりには若者が多く、高校が三つ、短大と大学も一つずつあった。
私が九月から通うことになっている中高一貫の女子高も見え、家からの大筋の道のりを確認できた。
(やっぱり自転車かな……山を下りるのは楽だけど、登るのは……地獄だな)
今のうちに体力と脚力をつけておくべきかと、腕組みをした時、視界の隅を何か黒いものが横切った。
「あれ……?」
思わずそちらへ視線を向けてしまったのは、長い髪の女の子のように見えたからだ。
社は無人だったので、私のようにわざわざ山を登ってきたもの好きが他にもいたのかと、確認しようとしたが、すでに姿がなかった。
「え? ……え?」
影が消えていった先は、柵の向こう。
原生林が鬱蒼と繁る中だ。
落下防止の防護柵を越えてまで、そんな場所へ入っていく理由がわからず、思わずその場所へ駆け寄る。
「あ……」
長い髪を翻らせて、確かに私と同じくらいの年齢の女の子が、木々の間に消えていった。
「いったいどこへ……?」
その子の行き先が、どうしても知りたかったわけではない。
ましてやあとを追ってみようなどと、思ったのでもない。
それなのに、柵から乗り出して少女の姿を確認しようとした私は、大きくバランスを崩して、防護柵の向こうに落ちてしまった。
「きゃあああああっ!」
木の枝や葉にバサバサとぶつかりながら、いったいどれぐらい落下してしまったのかわからない。
気がついた時には、断崖絶壁からわずかに突き出た足場のような場所に、仰向けで横たわっていた。
崖の下まで落ちず、運よくその場所にひっかかったらしい。
落ちてしばらく気を失っていたらしく、いつの間にか日が暮れかけている。
夕焼けに染まる真っ赤な空を見上げながら、ぼんやりと考えた。
(助かった……)
と、その時――。
私の視界を全て埋め尽くすようにして、見知らぬ女の子の顔がぬっと目の前に現れた。
「ちょっと! あなた大丈夫!? 大丈夫なの!!!?」
「――――」
必死で呼びかけてくれるのに、私がすぐに返事をできなかったのは、その子の顔があまりにも整いすぎていたからだ。
びっくりして、思わずまじまじと見つめてしまった。
睫毛のびっしりと生えた大きな瞳が印象的な、抜けるように白い肌の、日本人形のように綺麗な女の子だった。
腰まである長い黒髪はまっすぐサラサラで、襟と袖とスカートが紺色の、白いセーラー服を着ている。
(あ、これって……秋から私も通う聖鐘女学院の制服だ……可愛い子が着るとほんと可愛いな……私、大丈夫かな……?)
そんなことを考えながらぼんやりしている私を見つめる女の子は、大きな瞳からぽろぽろと涙を零している。
拭っても拭っても溢れてくるらしい涙を見ながら、また「綺麗だ」などという考えが頭を過ぎったが、客観的に考えてみれば、彼女が気の毒だと気がついた。
(これって……早く返事してあげたほうがいいよね?)
私は急いで、こくこくと彼女に頷いてみせた。
「私は、大丈夫……みたい……ありがとう」
「よかったあ」
彼女は大きく叫んで、そのまま足を投げ出し、地面にぺたりと座りこんだ。
私も起き上がって、彼女と向かいあうようにして座ってみる。
腕や足に多少の擦り傷はあるが、大きなけがのようなものはない。
ほっとしながら改めて、自分が今いる場所を見渡した。
白詰草がびっしりと生えているその場所は、マンションのベランダほどの広さしかない。
あまり端に寄ると、また崖下へ落ちてしまいそうだ。
かなり端のほうにいる女の子のスカートの裾を、思わず掴んだ私を、彼女は涙に濡れた瞳で見つめる。
「ところで……あなた誰? いったいどうやってここへ来たの?」
(どうやってって……)
私は頭上へ視線を向けた。
ここがどこかはわからないが、上之社があった山の頂上より低い位置であることは確かだ。
今のところはっきりしている情報だけ、ひとまず伝えておく。
「私は……青井和奏。高校二年生、十七歳。たぶん……上の神社から落ちた……のかな?」
「落ちたですって!?」
女の子はただでさえ大きな瞳をますます見開いて、驚愕の表情で私を見た。
(よく表情が変わって、見てて面白い子だな……)
私の心の声が聞こえたわけでもないのだろうが、自分の大きな声が森にこだましたことが恥ずかしかったらしく、彼女はこほんと咳ばらいをして、私の目の前に座り直す。
「うまくここで止まれて、運がよかったわね、和奏。上之社から麓まで落ちたら、猪や兎や鹿だって、助からないわ。よく麓で死体が見つかるのよ」
「そ、そうなんだ……」
あまり嬉しくはない例を出されて、思わず自分で自分を抱きしめた私を、女の子は黒目がちな瞳でじいっと見つめる。
どきりと胸が跳ねた。
(何……?)
彼女がふいに口を開く。
「私は、椿。成宮椿。和奏と同じ高校二年生よ……ここは私の秘密の場所なの。一人きりになりたい時、よく来るんだけど……他の人と会ったのはこれが初めてだわ。隠し通路を抜けたらあなたが倒れてて、心臓が止まりそうにびっくりした」
「驚かせてごめんなさい……」
頭を下げつつも、私は首を捻らずにはいられなかった。
「……隠し通路?」
首を傾げた私に、『椿』と名乗った女の子は、背後の崖を指してみせる。
「そうよ。蔦で見えないけど、あの裏に、人一人通れるだけの穴があるの。中は真っ暗だけど……緩やかな勾配になっていて、山の頂上付近の大きな岩まで続いてるわ」
「そうなんだ」
それでは彼女は、山頂近くのその岩へ向かうため、防護柵を越えて原生林の中へと踏み入ったのだ。
そうとも知らず、行く先を確かめようとしてバランスを崩し、崖から転落した自分が情けない。
「…………」
なんとも言えず視線を地面へ向けた私を、彼女がまだじいっと見ている気配がする。
「あの……何か……?」
気になって問いかけようとしたが、彼女の声が重なった。
「あなた、この町の人間じゃないでしょ」
「え……?」
突然何を言われたのかと間が空いてしまったが、確かに彼女の言うとおりなので、私は正直に頷く。
「うん、そう。このあいだ、越してきたばかり」
「やっぱり」
なぜわかったのかを訊ねるまでもなく、彼女が説明してくれた。
「この町の住人で、『成宮』を知らない者はいないもの」
少し棘のある声でそう呟くと、彼女は長い髪を翻して私に背を向け、原生林の向こうに広がる麓の景色を指す。
「あの丘の上に大きなお屋敷があるでしょう? あれが私の家」
彼女が指した場所には、工場や学校などにも匹敵する面積を有する建物群があった。
いくつもの家屋と蔵のようなもの、小屋や木々、それらを取り囲む長い白塀が見える。
ぱっと見にはとても個人の邸宅には見えないが、もし本当にそうならばかなりの資産家にまちがいない。
「すごく大きなお家だね」
率直に感想を言った私に、彼女は叫んだ。
「私は大っ嫌い!」
うしろ姿なのでその表情は見えないが、彼女のこぶしは、固く握られている。
細い肩も震えているように感じ、私はそっと呼びかけた。
「椿ちゃん?」
黒髪を翻してもう一度こちらを向いた彼女は、目にいっぱい涙を溜めていた。
私を呼び起こした時も泣いていたが、あれはこの場所に到着する前から、すでに泣いていたのではないかと思う。
だからあれほど、拭っても拭っても涙が止まらなかったのではないだろうか。
(椿ちゃんはここを『私の秘密の場所』って言った。『一人きりになりたい時よく来る』とも……だとしたら悪いことしちゃったな……)
興味本位で私があとを追ったせいで、彼女の大切な時間を邪魔してしまったのではないかと、申し訳ない気持ちになる。
「あの……」
謝ろうかと発した声に、また彼女の叫びが重なった。
「私だって好きなことがしたい! 行きたい場所へ行って、食べたいものを食べて! 友だちと他愛もない話をして、一緒に笑って、泣いて! 今しか作れない思い出をいっぱい作りたい! ……私だって!」
それはどれも、私にはまったく関係のないことで――でもだからこそ、彼女は思いっきり叫べたのではないだろうか。
彼女の立場や、置かれている状況や、責任や決まりごとなど何も知らない――この町に越してきたばかりで初対面の私にだからこそ、彼女は思いっきり本音をぶつけることができた。
そう感じたので、私はめいっぱい彼女の思いを肯定することにした。
私が迷ったり悩んだりした時、母がいつもそうしてくれたように――。
「うん、そうだよね。私もそう思うよ」
「――――!」
私の返事を聞いた椿ちゃんが、今にも零れ落ちんばかりに大きく目を開き、そこでみるみるうちに膨れ上がった涙が、ぽろぽろと止まることなく白い頬を伝う。
「うわーん!」
大声を上げて子どものように泣きだした彼女に寄り添い、私はその頭をよしよしと撫でた。
思いっきり泣いてすっきりした彼女が落ち着くまでにはかなりの時間がかかったが、次第に闇に沈んでいく町の光景に不安を覚えながらも、私は彼女を急かすことはしなかった。