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両手で耳を塞がずにはいられないほどの蝉の大合唱が、私の頭よりもずっと高い位置で、シンシンシンシンと森に響き渡る。
頭の中まで埋め尽くすような鳴き声ばかりで、蝉本体の姿はまるで見えない。
それは当然で、私が登り続ける山道の前後左右に鬱蒼と茂る木々は、どれもマンション三階ぶんほどの高さがあった。
見上げるほどに高い位置で、青々とした葉が重なりあい、本来そこにあるはずの空さえ見えない。
まだ夕暮れまでには時間があるはずだが、山に入ってもう何時間が過ぎた……?と、ぞっとするような考えが頭を過ぎるほど、森の中は初めからずっと薄暗い。
おかげで体感温度は、登り始める前よりずいぶん下がったように感じたが、蝉の大合唱が、今は真夏であることを忘れさせてはくれない。
(まだかな……)
木々の間に吸いこまれて消える山道の先を見やって、私はため息を吐いた。
瞬間――。
私のスカートの裾と、肩までの長さの髪をさあっと巻き上げて、一陣の風が頭上へと吹き抜けていく。
「きゃあっ!」
慌ててスカートと髪を押さえ、風につられるように上向けた視線の先で、木々の梢がざわざわと擦れあう。
ぴたりと蝉の泣き声が止まり、静寂に包まれた森の奥では、風と葉擦れの音しか聞こえず、不安に駆られた。
(急ごう……)
疲れを感じ始めていた足を、これまでより早く動かして、私は歩みを進める。
(急いで行って、急いで帰ろう……)
目的の場所まであとどれくらいの距離があるのか。わからないことがますます不安を煽り、私の歩く速度はどんどん速くなる。
(そもそもそんな場所が本当にあるのか、わからないし……!)
長い時間をかけて、こんな森の奥まで来たが、それが単なる徒労に終わった時の言い訳を、今から考えながら、歩き続ける。
(気分転換に……ってハナちゃんも言ってたじゃない。そう、これは気分転換なのよ、気分転換!)
ここへ来るきっかけとなったやり取りを思い返しながら、ずんずん歩を進めた。
「田舎にはなにもないけえ、若い人には退屈じゃろうねえ」
庭に面した縁側でごろりと大の字になって、まったく電波の入らないスマホを、試しにあちらへ向け、こちらへ向けと虚しくくり返していた私は、突然かけられた声に驚いて飛び起きた。
「え? あ……!」
すぐ目の前には、手拭いを頭に被った割烹着姿の小柄な老女が、にこにこと笑いながらおにぎりの乗った皿を片手に立っている。
「ハナちゃん……」
ハナちゃんががよっこらしょと隣に腰を下ろしたので、私も縁側に座り直した。
勧められるままおにぎりに手を伸ばそうとして、スマホを握りしめたままだったことに気がつく。
「…………」
私が無言で床に置いたのを、ハナちゃんはちらりと見て、歯のない口でふぉふぉふぉと笑った。
「電波……? とやらは見つかったかい?」
皿に並んだ中でも一番大きなおにぎりを手に取りながら、私はため息を吐く。
「ううん、全然ダメ」
ハナちゃんはまたふぉふぉふぉと笑って、庭に目を向けた。
「田舎じゃけえのう」
つられて私も庭へ視線を向けたが、単に『田舎』では片づけられないこの家の独特の立地を目の当たりにし、またため息が漏れた。
「…………」
陶芸を仕事とし、それで生計を立てている父の住居兼仕事小屋は、樹木が鬱蒼と茂る山の中腹にある。
かろうじて道路は整備されており、麓との行き来は可能だが、近くに建物はなく、住人もいない。
いわゆる、森の中の一軒家だ。
舗装の剥げかけたガタガタ道を、毎日軽トラックで登ってくるハナちゃんが、父とどういう関係なのかはっきりとは教えてもらっていないが、『昔馴染み』だとは聞いた。
父は一日中仕事小屋にこもりっぱなしで、ハナちゃんが運んできてくれる食材がなければ、親子で飢えるか、私が歩いて麓の店まで買いに行くしかないのだから、とてもありがたい存在だ。
塩が表面にまぶされた大きな三角形のおにぎりに、私は頭を下げてほおばった。
「いただきます」
「どうぞ召し上がれ」
ハナちゃんは父の仕事小屋へ持っていくらしいいくつかを取り分けながら、おにぎりの皿の横に置かれた茄子を指す。
「茄子、持ってきたけんど……天ぷらにでもしてからがよかったかねえ?」
私はもぐもぐとおにぎりを噛みしめながら、首を横に振ってみせる。
「ううん。豚肉と味噌炒めにするから、そのままで大丈夫だよ」
ただでさえお世話になりまくっているのに、そこまで面倒をかけるわけにはいかないと、懸命に首を振る私に、ハナちゃんはまたふぉふぉふぉと笑った。
「若いのに、和奏嬢ちゃんは料理も掃除も洗濯も、全部自分でさっさとやってしまうけえ……きっといいお嫁さんになるねえ」
「……そんなことないよ」
私は照れくさくて、首を竦めた。
七歳の時に両親が離婚し、母と二人暮らしになってから、私は少しでも母の負担を減らすため、家事を手伝った。
雑誌の編集者として朝から晩まで働く母は、仕事の帰りが遅く、家のことはいつの間にか全部私の担当になっていたので、家事が好きなのでも得意なのでもなく、やらざるを得なかったというのが実際のところだ。
都会の手頃なマンションでの母との二人暮らしには、特に不満もなかったが、つい先日、母が長年つきあっていた恋人との結婚を決意した。
相手の長倉さんとは私もよく会っていて、いい人だとはわかっていたし、二人の結婚に文句などなかったが、「だったら私、お父さんのところへ行ってみようかな」と自分の口からぽろりと出たのは、我ながら意外だった。
『え? なんで? 和奏、再婚には反対?』
慌てて問いかける母を『まあまあ』と宥めている長倉さんとの結婚を、反対する気持ちなど、私には微塵もない。
『ううん、大賛成だよ』
『だったらなんで?』
『うーん……』
自分でもよくわからないが、『いい機会』だから、父のところへ行ってみようかと、瞬間的に頭を過ぎったことだけは確かだ。
母と離婚してから都会を離れ、遠い故郷の田舎へ帰った父とは、十年来会っていない。
折に触れて、母が手紙を書くようにと促すので、私は写真を添えた手紙を時々送っているが、父から帰ってくるのはいつも写真のみだ。
それも父本人は写っておらず、緑豊かな田舎の風景が写された写真ばかり。
『信治さんらしい……』
楽しそうに笑い、父が送ってくれた写真を居間のコルクボードに並べて貼っていた母が、どうして父と別れたのかを私は知らない。
母が寝食を忘れるほどに仕事に没頭していったのは、父のことを忘れるためもあったのだろうと今ならばわかるが、訊ねるタイミングをすっかり逃してしまった。
私の記憶に残る父は、部屋にこもってばかりで口数の少ない人という印象なので、今更あちらに訊ねてみても答えは貰えないだろうが、離婚の理由を訊いてみようかと思ったのも理由の一つではある。
それから――。
母と暮らしていたマンションの、リビングのコルクボードに貼られていた写真をいったん頭に思い浮かべ、それから私は改めて目の前の景色へ視線を移した。
父が住む家の縁側から眺める庭は、人が行き来する部分と洗濯もの干しが置かれた部分を除き、あとは全て緑に覆われている。
私の腰ぐらいの高さで、こんもりと丸く切り揃えられているのは躑躅の木。
一番奥に、壁のように並んでいるのは山茶花。
屋根よりも高い、柿や枇杷や栗の木。
上にではなく左右に枝を大きく伸ばした、松の木と梅の木。
その横に寄り添うように繁る、南天の木。
樹木の名前は、ほぼハナちゃんからの受け売りだが、季節を通してさまざまな花が咲き、実が生り、眺めていて飽きることのない立派な庭だとハナちゃんは褒める。
事実、父が撮ったこの庭と、その奥にどこまでも続く鬱蒼とした森の写真を見て、実際に見てみたいと思ったのが、私がここへ来た理由のもう一つではある。
縁側にこうして座っていると、時が経つのを忘れる。
家にテレビがないことと、電波状況が悪くてスマホがほぼ使いものにならないこともあるが、ここで庭を眺めていると、何も考えずにのんびりしていられた。
冷蔵庫にどんな食材が残っていて、それで今晩は何を作ろうかとか、明日は天気が崩れそうだから、今日のうちに大きな洗濯ものは済ませてしまおうだとか、家事のことだけ考えていられる間は、この家での暮らしを私はずいぶんと気に入っていた。
しかし――。
(転校手続きはしたけど、新しい学校でどのあたりまで授業が進んでいるのかは聞きそびれちゃったな……そもそも教頭先生にわかるとも思えないけど……)
二学期からはこちらの学校へ通おうと、夏休みに入るとすぐに手続きはしたものの、高校も二年になって学校を変わるということがどれほど面倒か、私はよくわかっていなかった。
(せめて二学期が始まるのにあわせてこちらへ来るべきだったかな……早くここでの生活に慣れたほうがいいかと思ったんだけど……することがない……)
都会にいた頃も、友人と頻繁に出かけたりするほうではなかったので、どうせSNSでやり取りするのならば遠くでも変わらないだろうと思っていたが、そもそもそれが繋がらない。
父はほぼ仕事小屋から出てこないので、ハナちゃんが来てくれなければ、誰とも話すことなく終わる一日が続いてもおかしくない状況だった。
(すごく仲がよかったってわけじゃないけど……みんな私のことなんてすぐ忘れちゃうんだろうな……)
あまり多くはなかった友人たちの現在を想像し、一抹の寂しさを感じ、ここへ来た選択を少し後悔する気持ちが芽生え始めた時、ハナちゃんがふいに口を開いた。
「することがなくて暇じゃったら、上之社の展望台に行ってみたらどうじゃろ」
「上の社? 展望台……?」
暇すぎて縁側に寝転がっていたことをハナちゃんに見破られしまい、少し恥ずかしく思いながら、私は聞き慣れない言葉を確認した。
「ああ。麓に大きな神社があるじゃろ? そのもともとの社が山の上にあって、町の全部を見渡せる展望台があるんじゃ」
「へえ……」
それはとてもいい景色だろうと、私が興味を持ったことが嬉しいらしく、ハナちゃんはにこにこと勧めてくれる。
「車で登れる道はないけえ、送っていってはやれんけど、ここからなら一時間もかからんじゃろ。時間があったら、『うてな』を探してみるのもいいかもしれん」
「『うてな』?」
「ああ、今の展望台が整備されるよりずっと前に使われちょった、自然の見晴らし台やね……どこにあるのか誰も知らんけど、古い言い伝えがあって……」
「言い伝え……」
説明に耳を傾けながら、もうすでに、縁石の上に脱ぎ捨てていたスニーカーを履き始めた私を、ハナちゃんは嬉しそうに見つめる。
「ああ。夕暮れ時に、その『うてな』へ行ったら、『いろんなもの』が見れるんじゃそうだ……『いろんなところ』へ行けると言う人もおる」
「それって……?」
いったいどういうことだかわからず、首を傾げる私に、ハナちゃんはふぉふぉふぉと笑った。
「さあ、わしにもよくわからん。ほんとに『うてな』を見つけたっちゅう人も知らんしね」
「ああ……」
都市伝説のようなものかと笑い返す私の肩を、ハナちゃんはそっと叩いた。
「どのみち、夕暮れまで上なんぞにおったら、帰りの道は真っ暗じゃ……そうならんうちに、帰ってくるんじゃよ」
私は、この家に来てからほぼ時計としてしか機能していないスマホの画面を見て、まだ昼を少し過ぎた時刻なことを確認し、庭に下り立った。
「うん、行ってくる。ハナちゃん、ありがとう!」
笑顔で手を振るハナちゃんに見送られながら、颯爽と出発したはいいものの、スマホを忘れてしまったことに気がついたのは、でこぼこの山道を、山頂にあるという『上之社』目指して、かなり登ったあとだった。
(まあいいか、一時間ぐらいで着くだろうってハナちゃんも言ってたし……)
そう決断した時は、私はまだ、森の怖さというものをまったく理解していなかった。
車も通れるほどの広さだった道幅が、やがて人一人が歩くのにちょうどの狭さになり、ある程度の前方まで見渡せていた視界が、前後左右すべて見上げるほどの木々に遮られてしまうに至り、軽率に出かけてきたことを後悔しそうになった。
(いったいどこまで行ったら頂上なの? もう一時間以上歩いたんじゃないかな……ハナちゃーん!)
疲れた足をひきずり、心の中だけで、助けを求める叫びを上げた時、ようやくそれらしき場所へと着いた。