9.ヨシゾウさん
十数分後、勝浦さんが帰ってきた。
「あー……すまねぇな、おめぇら。こいつは、俺の娘のさくらだ」
彼の後ろから、先程の女の子がひょっこりと顔を出した。
「原中さくら。宜しく」
ぶっきらぼうな口調だった。全員居間に揃っていた私達は、曖昧な会釈をした。
「えー。さくら、とりあえずここ座れ」
勝浦さんは自分の席に手を置いて言った。そして自分はそこから離れ、カーペットの上にあぐらをかいた。
さくらちゃんは素早い動作で椅子に座った。それから、日吉君を目にとめて眉を上げた。
「健吾郎兄ちゃん?」
「ああ、そうだ。覚えているのか? あの頃は赤子も同然だったのに」
日吉君も驚いた様だった。
「当たり前や、あんだけ仲良うしてくれたやん。父親側の親戚で好きになれる人、兄ちゃんしかおらんかったし」
「そうか。……そうだろうな」
彼は苦い顔をした。彼自身にも同じ様な思いがあったのだろう。
「そうそう。親戚が集まると、いつもおめぇらふたりで遊んでたよな。まぁ、俺が離婚してから会う機会もなくなっただろうが……さくらも立派に成長して、今や12歳だ」
勝浦さんは広い額に汗を浮かべている。何せ約6年振りの再会だ。さぞかし気まずいのだろう。
「今日はこいつが、俺の周囲の人間に訊きたい事があるっつって、パチ屋の前で待ってたもんだからさ。その質問とやらを聞いてやってくれねぇか」
「あ、そんな大層な事は訊かんで。ほんまに軽い質問やから」
さくらちゃんはテーブルに両肘を突いて指を絡め、私達の顔を見回した。
「まず、あんたらは何で一緒に住んでるん?」
「えっとねー、さくらちゃん」
先生が自ら口を開いた。随分優しい口調だ。
「先に自己紹介しとくね。僕は真彦っていうんだ。真彦兄ちゃんって呼んでくれていいよ」
「上は」とさくらちゃん。
「え?」
「名字や。赤の他人を名前呼びとかキショいやん。おまけに血の繋がりも無いのに兄ちゃんなんて呼ぶ訳ないやろ」
言葉はきついが、頷ける意見だ。初めて会った子供に“真彦兄ちゃん”などと呼ばせる先生は気色悪すぎる。
「あ、ああ、ごめんね。僕は斉藤真彦。で、このお兄ちゃ……この男の人が一ノ瀬さん、この女の人が跡部さんね」
「斉藤、一ノ瀬、跡部」
ひとりひとりに向けて指を差しながら、さくらちゃんは名字を確認した。まだ子供だから仕方ないのだろうが、それにしても不躾な少女だ。
「うん。それでね、ここにいる人達が一緒に暮らし始めた時期はバラバラなんだ。最初は僕と一ノ瀬さんと、君のお父さんが一緒に住む事になった」
先生はそれから、私がここに来た日に聞いた説明を易しい言葉で繰り返した。仕事で子供と接する機会も多いのか、やけにスムーズな語り口だった。
「っていう事で、健吾郎兄ちゃんもここに住む事になった。最後に、跡部さんだけど……」
先生はそこまで言って、ふと私の顔に視線を移した。
「あー……えっと」
彼は分かりやすく言いよどんでいた。子供に家庭内暴力や鬱の話は出来ないと判断したのだろう。上目遣いに私を見つめ、SOSのサインを送っている。
私は僅かに首を縦に振り、さくらちゃんの方に向き直った。
「私は、斉藤先生と付き合ってるの」
「え!?」
案の定、さくらちゃんより先に先生の方が声を上げた。
「んもう、何驚いてるのよっ」
私は先生を肘で小突きながら、表情で話を合わせる様にサインを送った。
「いや、だってそれは秘密にするのかと思ったからさぁ」
先生は照れた様に頭を掻いた。良い演技だ。これはいくら鋭そうなさくらちゃんでも騙されるだろう。
「はーん。そっちのタレやったか」
彼女は唇の端を上げた。やっぱりそういう意味なのか、タレって。
「それで私、彼とふたりで住みたいなってずっと思ってて」
「うわっ、同棲? 大人しそうな顔してやらしー……」
何考えてんだこの子。まるでエロオヤジと喋ってるみたいだ。
「いやらしい同棲じゃありませんー。ゆくゆくは結婚しようと思ってるから、その予行練習みたいなものよ。でも、彼は一緒に住んでる皆と別れたくないって言ったの」
「そうそう、僕にとってこの3人は家族みたいなものだからね。そういう訳で、跡部さんにはここで一緒に生活してもらう事にしたんだ」
「ふーん」
かなり無茶苦茶なストーリーになってしまったが、さくらちゃんはそれには違和感を覚えず、別の事を考えている様だった。
「じゃあ、このオヤジの事も家族やと思っとるん」
彼女は勝浦さんを顎で指し示した。
「そうだよ」
先生の迷いの無い返事を聞くと、彼女は俯いてしばらく黙ってしまった。
私達はその異変に戸惑い、顔を見合わせた。ただ勝浦さんだけは、彼女と同じ様にうなだれていた。
やがてぽつりと、彼女は呟いた。
「お母ちゃんが言うてた。あんたのお父ちゃんはろくでなしやって」
「ろくでなし? ヨシゾウさんが?」
先生が驚いた様に聞き返した。彼女は力無く頷く。
「離婚する前、お父ちゃんは工場をクビになったんやて。そんで、次の仕事探すのめんどくさなって、毎日パチンコやら何やらで遊んどってんて」
淡々と語られる勝浦さんの過去に、私は少しショックを受けた。今まで、彼は自分に非が無いのに子供にも会わせてもらえない、可哀想な父親だと思っていたからだ。
「一応確認しとくけど、それはほんまなんやな?」
さくらちゃんは勝浦さんを見て言った。
「……ああ。本当だ」
「そう」
彼女は背もたれに体を預け、ため息を吐いた。嫌な気持ちを吐き出すかの様に。
「うちが今日ここに来たんは、自分の元父親がどんな人間か確かめる為や。でももう分かった。お母ちゃんの言う通りやったんや。せやろ?」
彼女は私達を睨む様に見つめながら言う。顔に似合わず、厳しい表情をしている。しかしその裏に隠れているのはきっと、寂しさだった。
「それは、まだ分からないんじゃないの?」
先生が諭す様に言う。
「ううん。今は真面目に働いとんか知らんけど、パチンコはやめてないし」
「それだけでろくでなしとは言えないでしょ」
「じゃあ、斉藤さんはどう思うん」
「僕? 僕は……」
肝心なところで、先生の口の動きが止まった。
さくらちゃんが訝しむ様な視線を送る。彼は頬を掻いた。
「そうだなぁ。ヨシゾウさん、今でもパチンコも打つし馬券も買うし。仕事帰りにお酒引っ掛けて、その辺の若い子と喧嘩したりするし」
いきなり何を言い出すんだと思ったが、それは間違いなく私が知っている勝浦さんの姿だった。
「しかも、もう歳だから絶対ボコボコにされて帰ってくるんだ。それでも家でぶつぶつ喧嘩相手の悪口言ったりするし。あと、職場の人にセクハラやらパワハラやら」
「もうやめてくれよマッチ」
勝浦さんが先生の言葉を遮り、自嘲気味に笑った。
「はいはい、悪ぅござんした。俺に父親ぶる資格なんてねぇよ」
いつになく塞ぎ込む彼を、さくらちゃんが眉をしかめて見据えていた。
……違う。少なくとも今の勝浦さんは、ろくでなしなんかじゃないのに。
私は先生の様子を窺った。彼は意外にも、いつも通りの微笑を浮かべていた。
「でも、悪い人じゃないと思うんだ」
そう先生が言った。その場にいる皆が、彼に視線を注いだ。
「だってこの人、今も僕らと一緒にいるんだもん。そりゃあ住み始めた頃は、さくらちゃんに会えずに寂しかったのかも知れない。でもそれだけで6年も続かないよ」
彼はまっすぐに、さくらちゃんに語り掛ける。
「君のお父さんは、僕らのお父さん代わりになってくれたんだ。特に、勉強のストレスで医者への道を挫折し掛けてた僕の事を、ずーっと支え続けてくれた」
勝浦さんの口元が、段々緩んでいく。先生はそれを横目に見て、にっこりと笑った。
「僕にとっては、恩人だよ」
「……俺もいいか」
ずっと黙っていた一ノ瀬さんが、口を開く。
「こいつが言った事は正しい。おっさんは俺らの親父みたいなもんだった。6年前、まだ若くて変に尖ってた俺の事も、受け入れてくれたんだ」
さくらちゃんの表情が、次第に揺らぎ始めていた。
「今まで、こんなフラフラしてる俺を受け入れてくれる大人なんていなかったんだよ。だから、このおっさん、口は悪いけど優しい人なんだって思って……分かるか?」
彼女は神妙に頷いた。一ノ瀬さんはそれを見てほっとしたのか、照れた様に笑った。それを誤魔化す様に、日吉君に目を向ける。
「ゴローも何か言ったら」
「そうだな。僕も生意気な人間だから、大人には嫌われやすかった。でも1年前に家出した時、この人なら頼れると思ったのがヨシゾウさんだった」
日吉君は眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。いつも動きが硬い彼だが、その動作だけはスタイリッシュだった。
「さくらが父方の親戚の中で僕にだけ気を許せた様に、僕も全ての大人達の中で彼だけを信用していた。ほとんど本能的に。その直感は当たり、彼は僕を迎え入れてくれた。学校にもアルバイトにも行っていない、ニートの僕を、だ」
さくらちゃんは彼の話に引き込まれていた。彼はふっと言葉を切ると、私の方をちらと見た。
「僕から言えるのはここまでだな。跡部さんも、何か言いたい事があったら」
「私? まだここで暮らし始めて2週間も経ってないのよ」
苦笑しつつも、私はフォローの言葉を探した。
「そうね。私も勝浦さんの事は悪く思ってない。セクハラまがいの事もたまに言われるけど、それでも根は良い人なんだなって思えるわ」
「おいおい。無理矢理言わされてるみてぇじゃねぇか」
勝浦さんが軽口を叩いた。少しは元気が戻ったみたいだ。
「ほんま、口裏合わせとるんかってくらい、いきなり褒めだしたな」
さくらちゃんが微笑を浮かべながら言う。
「けどまぁ、今はまともにやってるんやったら良かったわ。やっぱり、自分と血ぃ繋がってる人間やからな。……じゃあ、うちはこれで」
彼女はそう言うか言わないかのうちに席を立ち、玄関の方へ歩き始めた。
「待って!」
それを止めたのは先生だった。
「何?」
「今度、ここの皆で遊園地に行くんだ。一緒に行かない?」
「え?」
予想外の言葉に、場の空気が変わる。
「おい、そんな予定は……」
正直にそれが嘘だとバラそうとする勝浦さんを、一ノ瀬さんが小さく手を振って制した。
「ヨシゾウさん忘れちゃったのぉ? こないだ言ったじゃん、気晴らしに皆で遊びに行こうって。もう僕とゴローで大体スケジュール決めちゃってるんだから」
先生は何とか騙し通そうと早口でまくしたてた。
「ほら、君のお父さんがどんな人なのかを知る良いチャンスじゃない。ついでに楽しく遊べるしさ」
私はさくらちゃんがそれに賛同するとは思えなかった。もう12歳だし、何ならそれ以上に大人びている子だ。遊園地につられて来るとは考えづらい。
「それ、いつなん」
「えーっと、来週の土日辺り、かな?」
「土日辺り? 大体スケジュール決まっとるんとちゃうの」
「いやまぁその、それは一日の中の時間割であって、日にちはまだ迷ってるというか……」
先生はヒヒヒと笑って誤魔化そうとした。
「ふーん。ま、ええわ。決まったら電話して。うちの家の電話番号、教えるから」
彼女は上着のポケットからメモ帳を取り出し、椅子に座って数字を書き並べた。
「え? じゃあ君も来るの?」
「気ぃ変わらんかったらな。あんたらの関係にも興味あるし」
彼女はメモを切り離すと、先生に渡した。
「ありがとう。良かったね、ヨシゾウさん?」
「ん、ああ、まぁな」
照れ隠しの為か、それとも心の底から嬉しかったのか、勝浦さんは豪快に笑った。
その拍子に、犬用のベッドで昼寝をしていたレイちゃんが目を覚まし、こちらへ近付いてきた。
「うわ、めっちゃ可愛い!」
突然さくらちゃんがガタンと立ち上がり、レイちゃんの方に駆け寄った。
「何や、こんなとこに犬おったんやぁ。ほらほら、こっちおいで」
彼女は床に座り込んでレイちゃんを抱え、頭を撫でた。
「可愛いなぁこの子。誰が飼ってるん?」
「僕だ」
「やっぱり! 兄ちゃん昔っからセンスええもんなぁ」
さくらちゃんは先程までとは打って変わって大はしゃぎだった。レイちゃんが彼女の顔を舐めると、歓声を上げてニコニコ笑った。
「意外と子供らしいところもあるね。これなら、僕の遊園地で仲直り計画も大成功かも」と、先生が私に耳打ちする。
「それはどうでしょうね。レイちゃんを連れていけば確実に喜んでくれるでしょうけど」
私がそう囁き返すと、日吉君が敏速にこちらを振り返った。
「成程。犬を連れていける遊園地なんていうのも、あるのかも知れないな」
「え? いや、今のは冗談で――」
その日から、私達はペット同伴可の遊園地探しに労力を費やしたのだった。