7.人生で初めて
「もう一度問おう。“目を離さない”という言葉の意味は知っているか」
「……はい」
夕飯の鍋を皆で囲む中、私と先生は日吉君から説教を受けていた。
「では、僕が“レイから目を離さないでもらいたい”と言ったのは」
「覚えて、ます」
「だったら何故そのライブに出掛けた?」
「それはこの人のせいです」
私は隣で美味そうに鍋を食う先生の腕を掴み、強引に手を挙げさせた。
「この人が嫌がる私を無理矢理外に引っ張り出したの!」
「えぇ!? ちょっと、何でそんな嘘吐くんだよ」
「その慌てぶりを見ると、跡部さんの証言に間違いは無さそうだな」
「は!? ちょっとちょっとゴロー、騙されてるって!」
先生が必死に弁明しているうちに、私は豚肉と白菜を口に放り込んだ。しょうゆベースのシンプルな出汁が染み出す。こんな状況でも日吉君の料理は美味い。
「あのさ、確認しときたいんだけど」
一ノ瀬さんが唐突に口を開いた。
「あんたらが行ったライブのバンド名って、“ゴートゥーヘルス”だったか?」
「ぴんぽーん」と先生。
「あ、じゃあ俺が行ったのと同じだ」
「知ってるよ、帰り際にモッチーがいるの見たから。あのライブ良かったよねぇ」
「どこが? あんなの洋楽の模倣でしかないだろ。面白味も何もあったもんじゃない」
どうやら一ノ瀬さんはこちら側らしい。私は先生の不機嫌そうな顔を見ながらほくそ笑んだ。
「で、一緒にいた新小岩の女はどうでしたか」
「え? ああ、あそこで喋ってたのは新小岩の女じゃないよ。たまたま席が隣だった子」
「……あ、そうなんですか?」
何故か私はほっとしていた。
「新小岩の女とライブ行くって言ってなかったか?」
勝浦さんが興味津々といった感じで話に入ってくる。
「その予定だったけどドタキャンされてさ。どうせ暇だし、ひとりで行ったんだよ。で、隣の子も誘ってくれた友達が来られなくなったから、たまたまひとりだったらしい」
「お前、隙あらば女に手ぇ出してるなぁ」
「いや、その子は自分から話し掛けてきたんだ。開演までの待ち時間に」
「へー、積極的な人なんだねぇ」
佐野さんなら充分あり得る話だ。彼女は1秒でも暇な時間があると、周囲の人間に手当たり次第声を掛ける人だから。
「それで、ライブが終わったあと、その人とはすぐ別れたんですか?」
「いや。近くの喫茶店でちょっとだけお茶した」
「あ。じゃあその時、電話番号とか交換したり……」
「LINEならアドレス交換したよ」
「あらら」
「何かまずかった?」
一ノ瀬さんは怪訝そうな表情だ。そりゃそうなるか。
「彼女、私の会社の同僚なんです」
「えええ!?」
何故か一ノ瀬さんよりも先に先生が驚きの声を上げた。
「美咲が優希の同僚? ほんとに?」
「ええ。っていうか、もう名前で呼んでるんですか」
「あ、それは女の子呼ぶ時の俺の癖。まだそんなに深い仲にはなってないんだけど、ついつい名前呼びになっちゃって」
確かに、私もいつのまにか下の名前で呼び捨てにされていた。でも悪い気はしない。
「成程なぁ。自分の同僚がモッチーの遊び相手になって、優希ちゃんは嫉妬してる訳だ」
勝浦さんは腕組みをして、一ノ瀬さんと私を交互に見ながら言った。
「いい加減な事言わないで下さいよ。私には夫がいるんです。今は、あれですけど」
「じゃあふたりがこれから良い感じになったら、歓迎出来るのか?」
「勿論歓迎しますよ。でも……現実的には、それは難しいと思いますけど」
「難しいって、俺と美咲が付き合う事が?」
一ノ瀬さんは箸を止め、眉をひそめた。
「はい。あなたは気付いてないかも知れないですけど、彼女相当な変わり者ですよ」
「変わり者、か。個性的な子だなとは思った」
個性的。良い様に言えばそうなるか。
大体一ノ瀬さんだって変わり者なのだから、もしかしたら相性は良いのかも知れない。
「一ノ瀬さん自身はどう思ってるんです? 彼女とどういう関係になりたい、とか」
「おっ! 核心を突いたぞ」
茶化す様に言う勝浦さん。
「いけいけー!」
それに乗っかる先生。どこまでも無神経な人達だ。
「……こんな事あんたらの前で言うの、恥ずかしいんだけど。人生で初めて、真剣に付き合いたいって思えた」
「おいおい、マジかよてめぇ!」
勝浦さんが嬉しそうに叫んだ。先生も「凄いじゃんモッチー!」と興奮気味だ。日吉君までほんのり笑顔を浮かべている。
私だけが取り残されていた。
「……人生で初めて?」
「モッチーは今まで、真剣交際というものを経験していないんだ」と日吉君。
「毎日の様に色んな女性とデートしてるのに、ですか?」
「あの子達には悪いけど、全員遊びだったんだ」
一ノ瀬さんは平坦な声で言った。
「でも、美咲だけは遊びで終わらせたくない。初めて運命の人に出会えた気がしたんだ」
「……本気ですか?」
「本気」
私は天を仰いだ。
何だかややこしい事になってきた。でも、私に出来る事なんてきっと何も無い。路傍の石の様にただ見守るしかないのだ。
「まさかお前の口から本気って言葉が出てくるとはなぁ。その子のどこがそんなに良いんだ?」と勝浦さん。
「……月並みだけど、話が合うっていうか。女の子と話しててあんなに面白いと思ったの、初めてだったから」
「じゃあ今までは、女の話す事なんてつまらないと思ってたんですか」
「あ、いや」
「ほーらボロが出た。こいつは結局こういう男なんだよ。無意識に男の方が上だと思ってやがる」
勝浦さんが嬉々とした表情で言う。
「意識して男尊女卑的な発言をするあなたよりましじゃないですか」
「何だと? 俺ぁ紳士だろうが」
「まぁ、そういう話は置いといて。兎に角、面白くて良い子なんだ。美咲は」
一ノ瀬さんが場を仕切り直す。
「あの子、犬飼ってるらしいし。犬好きに悪い人はいないって言ってたよな、ゴロー」
「ああ。そうだな」
床に丸まっているレイちゃんをちらりと見て、日吉君は頷いた。
「というのも、実は美咲の事でゴローに頼みがあるんだ」
「随分唐突だな」
「すまん。今思い出したんだ」
一ノ瀬さんは軽い咳を2度繰り返した。
「今日、美咲とLINEでやり取りして、明日デートする事になったんだ」
「えええ!? 超急展開!」
「先生、うるさいわよ」
「あっごめん。それでそれで?」
「それで、美咲が自分のペットの話をした時、俺も犬飼ってるって言って話が盛り上がったんだ。だから、お互いの犬を連れて一緒に散歩しようってなって」
何だそのトリッキーな初デート。
「だから明日レイを貸してほし」
「断る」
「……健吾郎。あんたがここに来てから、俺がこんな無茶な相談をした事があったか?」
「今日が初だ」
「だよな。それくらい俺の人生にとって重大なイベントなんだ、これは。ゴローも自分の好きな子に置き換えて考えてみてくれ」
「まだ三次元の女を愛した事が無いから考えようが無い。だからレイは貸さない」
「んくわ――っ」
一ノ瀬さんは変な声を出した。固く握られた拳が戦慄いている。どうやら佐野さんの事を本気で想っているというのは嘘ではないらしい。
「第一、犬に慣れていないモッチーがリードを引いて、事故にでもあったらどうする。一方でレイを貸し出さなくてもその女性が死ぬ訳ではあるまい」
「大丈夫、慎重に扱うから。それに犬を連れていけなかったせいで美咲と上手くいかなかったら、希望を失った俺は最悪死ぬぞ」
「そんなに軟な人間だったのか、あなたは」
「皆死ぬときゃ死ぬんだ」
先生がウィスパーボイスで「こういうの何て言うんだっけ」と言った。「水掛け論だ」と勝浦さんが返す。
私は「ごちそうさま」と呟き、流しまで皿を持っていった。勝浦さんも先生も、あとを追って皿を片付ける。
静かなバトルを続ける10歳差の男ふたりを食卓に残し、私達は黙ってそれぞれの部屋に戻った。
「てめぇら、夜中までぶつくさ言い争ってんじゃねぇよ。地味に気になって寝つけなかっただろうが」
勝浦さんがあくびをしながら文句を言った。そして再びトーストをかじる。
「あれ、そうか。俺らも気ぃ遣って段々トーン落としてたんだけど」
一ノ瀬さんがレタスを口に入れたまま言った。
「私も睡眠薬呑んでたのに中々眠れませんでした」
「僕はすぐ眠れたけどなぁ。跡部さん、睡眠薬効いてないんじゃない?」と斉藤先生。
「だったら効くやつ頂戴よ。医者でしょ?」
「処方してほしかったらちゃんとうちのクリニックに来てお金払って下さーい」
「同じ釜の飯食ってんだからそれくらいタダでどうにかしなさいよケチ」
「それはおかしいでしょ!」
「おうおう、そこまでだ。全く、うちは喧嘩が絶えねぇなぁ」
勝浦さんはため息を吐いた。
いけない、このままじゃ私の常識人ポジションが奪われる。しかもこんな常識の無いおっさんに。
「で、レイちゃん問題は解決したんですか?」
「解決した。僕がふたりの散歩に付き合う事になった」
「へー、日吉君が……えっ?」
……えっ?
「何だそりゃ。モッチーのデートにゴローが同行するって事か?」
「そうだ。僕がついていれば、レイが悲惨な目に遭う確率はぐっと減る。もっとも、僕がレイを助けたせいでサードインパクトが起こる可能性も否定しきれんが」
「えっ?」
「失礼、どうやら僕も寝不足らしい。兎に角、レイを借りるというのなら僕もおまけとして連れていく様要請した」
「ゴローのペット愛は凄いなぁ。最近飼い始めたばっかりなのに」
先生は孫の成長を見守る老人の様な目で微笑んだ。いくらペット愛が大きいからといって、他人のデートに交ざるのはどうかと思うが。
「一ノ瀬さんも佐野さんも、それでいいんですか?」
「ああ。美咲にはLINEで訊いたんだ。同居してる親戚の子を連れていっていいかって。そしたら“全然大丈夫、長女だから年下の子の扱いは任せて”って言ってた」
佐野さん、長女だったのか。むしろ末っ子タイプなのに。
「変わってんなぁ、その美咲って子も。初デートに親戚の子供連れてくる奴なんて考えられねぇだろ、普通」
「それを許してくれるのなんて美咲くらいだろうな。本当に面白い子だよ」
「お似合いだな、モッチーと」
日吉君が真顔で呟いた。
佐野さん、一ノ瀬さん、日吉君。この3人の会話なんて、正直想像もつかない。
けれど、何となく面白いデートになりそうな予感がした。