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5.犬の話

 その晩の食卓には、鮮やかな赤のボルシチとライ麦パン、余ったジャガイモを茹でた物などが並んだ。

 例によって“いただきます”と声を揃えたのち、私は恐る恐るボルシチのスープを口に含んだ。

 ベースとなっているトマトの甘味がまず飛び込んできた。そこにコンソメの旨味が上手く絡み合っている。

 続いてキャベツをすくう。柔らかいけれどしゃきしゃきした歯ごたえも残っている。染み込んだスープがじんわりと口の中に広がった。

 鶏肉も柔らかく、濃厚なスープの味の奥からほのかにバターの甘さを感じた。

「……日吉君。独学の域を超えてるわよ、これ」

「うむ。今回はあえてビーツを使わずに作ったので懸念点もあったが、割と良く出来た」

 彼は満足げな微笑を浮かべた。初めて見た彼の笑顔には、意外にも年相応な可愛らしさがあった。

「ボルシチなんて普通、この歳の子が知ってる料理じゃないもんなぁ。凄いでしょ、うちの子」

 斉藤先生が誇らしげに言う。

「あなたの子じゃないでしょ」

「1年も一緒に暮らしてるんだから、もう自分の子供みたいなもんだよ」

「たった1年でそこまで深い関係にはなれないと思いますけど」

「そのくらい馴染んでるって事だよ。そういえば、跡部さんも1日で大分ここに馴染んできたんじゃない?」

 ふざけた事を言うな。ヤブ医者が。

「どこが? 先生がそう思いたいだけでしょ」

「そんな事無いよ。現に、こうして一緒に食卓を囲んでいても違和感が無いんだもの。ねっ、皆」

「まぁ、そう言われりゃそうだな。眼鏡率が70%に上がったぐれぇのもんだ」

 勝浦さんが口に入れた物をくちゃくちゃ噛みながら言った。

「それを言うなら60%ではないのか」

 間髪入れずに日吉君が訂正する。

「ん? ええと、100割る5で20、20掛ける3で……ああ、そうか。そうだな」

 勝浦さんは照れた様にフフンと笑った。

「中卒の自分が言える事ではないが、ヨシゾウさんは本当に学が無いな」

「うるせぇな、ちょっと計算間違えただけだろ」

「ゴローも言う様になったねぇ」と斉藤先生。

「元はといえばお前がイジってきたんだろうが! それでこいつが真似する様になったんだろ」

「だってヨシゾウさん、小学生レベルの知識も無かったりするじゃん。ついつい茶化したくなっちゃうんだよ」

「ふん、糞医者が。大学出てるからって偉そうにしてんじゃねぇ」

「はいはい、すいませんでしたー」

「盛り上がっているところ悪いが」と、日吉君が流れを切った。

「何だ? まさか、またあの話じゃねぇだろうな?」

「そうだ。あの(・・)話だ」

 勝浦さんは呆れた様にため息を吐いた。

「何回も言ってんだろ。駄目なもんは駄目なんだよ」

「こちらもそう簡単に折れるつもりは無い」

「あの、何の話ですか?」

 雰囲気を見る限りでは大した事でもなさそうだったが、一応私は訊いてみた。

「犬だよ。こいつは前から犬を飼いたがってんだ」

 勝浦さんがうんざり顔で言った。

 日吉君が犬を飼いたがっている。どうも彼のイメージと結びつかない。

「へー、犬をねぇ。ここってペット可なんですか?」

「ああ、まぁな」

「ならいいじゃないですか、飼えば」

「何でぇ。お前さんも無責任な奴だな」

「だって、彼ならちゃんとお世話するでしょうし、何の問題も無いじゃないですか」

「あるよ! 犬なんてうるさいし邪魔だし毛は落とすし、家に置いとくのにあんな余計なもの無いでしょ?」

 斉藤先生が熱っぽく反論した。

「その分癒してくれるんだからいいじゃない。先生が犬嫌いなだけでしょう」

「僕は別に嫌いって訳じゃないよ。でも飼うってなるとまた別問題じゃん」

「ふーん。新しい同居人は気軽に連れてこれるのに?」

「なっ! 別に気軽に連れてきたつもりじゃないよ!」

 目が泳ぎまくっている。

「それで、反対派の理由はそれだけですか」

「あと、金の問題もある」

 一ノ瀬さんが静かに言った。

 成程、お金か。斉藤先生なんかは結構稼いでいそうだが。

「そういえば、同居するにあたって金銭面はどうしてるんです? 家賃とか、光熱費とか」

「ひとつの口座から引き落としになっている。働いている3人に給料を全額振り込んでもらっているんだ」と日吉君。

「で、そこから僕らのお小遣いとかを引き出して、配ってくれるのがゴローね」

「え? 日吉君にお金の管理を任せてるの?」

「うん。あ、そのチェックは僕がしてるけどね」

「……そう」

 やはり変な大人達だ。それぞれの配分で飯を喰らう彼らを眺め、改めてそう思う。

「なら、私も今月お給料振り込みますけど、お小遣いは少なくていいです。その分をペット代に充てれば、当面はどうにかなるんじゃないですか」

「だがなぁ」と勝浦さんが苦虫を噛み潰した様な顔で渋る。

「結局俺らは犬なんか好きじゃねぇんだよ。犬好きがゴローとお前さんで、その他3人が嫌がってる。なら多数決で飼わない方に決まるだろ」

「あれっ、一ノ瀬さんは犬好きだと思ってましたけど」

 私は苦しまぎれの嘘を吐いた。当然ながら一ノ瀬さんは困惑している。

「俺が犬好き?」

「だって、今朝観てたじゃないですか、きょうのわんこ。それもにやにやしながら」

「えっ? 俺、にやにやしてたっけ」

 何故か彼は焦っている様だった。まさか、あながち嘘でもないのか。

「してました。好きでもないものを観てあんなに笑ってたらどうかしてます」

「モッチー、お前まさか」

「……ごめん、俺も賛成に回る」

 一ノ瀬さんはおずおずとそう申し出た。

「何だよモッチー、犬好きだったのぉ? 何となく反対派寄りの空気出してたのに」

「いや、小遣い減ったら嫌だなと思ってたから」

「デート代でカツカツだっつってたもんな、お前」

「うん、まぁ」

 道理でずっと黙っていた訳だ。

「さ、これで3対2で賛成派多数です。多数決で飼う方に決めましょう」

「ちょっと待ってよ! 少数派の権利も守らないと真の民主主義国家とは呼べないんだよ!」

「今国家とか関係無いけど。っていうかそもそも、先生が私に盾突くのおかしいから。あなたは私を騙してここに連れてきたのよ、分かってる?」

「だからって自分の意見を言う権利まで失うなんてあんまりじゃないか! ねぇ、皆?」

 しばらくの間、重い沈黙が流れた。先生以外の3名は、彼と私から目を逸らしていた。

「あれ、よく考えればそれももっともな話、か。じゃあ僕は跡部さんに盾突く権利、無いんだ。本当に。そっかーあははー……」

 流石の先生も空気を読んだ様だ。

「分かっていただけて嬉しいです、先生。じゃ、勝浦さんも認めてくれますね?」

「はぁ……しゃあねぇか。ゴロー、ちゃんと世話しろよ。よそへ売ったり捨てたりしたら承知しねぇからな」

「勿論だ」

 日吉君は顔をほころばせた。昨日今日のポーカーフェイスからは想像も出来ない表情だ。余程嬉しかったのだろう。

「良かったねゴロー、跡部さんがいて」

 先生がしたり顔で彼に話し掛ける。

「……ああ」

「だからって先生が私にした事を正当化出来ると思ったら大間違いよ」

「わ、分かってるよ? ただ跡部さんが味方してくれて、犬が飼える事になって良かったなぁ、って言ってやっただけだから」

「そう。目、泳ぎまくってるけど」

「え、そう? あっ、いけないいけない、ボルシチが冷めちゃうよ」

 先生はじゃがいもやニンジンを口に頬張り、誤魔化す様に顔に笑みを張り付けた。




 夕食後。私達は全員居間に居座り、だらだらとお笑い番組を観ていた。

 ただ日吉君だけはキッチンに立ち、黙々と食器を洗い始めていた。私は斉藤先生が愛飲しているというインスタントコーヒーをいただきながら、手伝うべきか否か悩んだ。

 どうせ彼には断られるだろう。さっき料理を手伝わせてくれたのは、キャベツを買いに行かせたついでという感じだった。

 けれど、若い子に仕事を押し付けて自分はだらけているというのは気持ちが悪い。私は立ち上がった。

「ちょっと失礼。この洗ってくれた分、すすいじゃってもいい?」

 泡が付いたまま放置されている皿を指しながら、さりげなく尋ねてみる。

「言っただろう。僕ひとりで充分だ」

「そう。じゃ、仕方ないわね」

 やはり難しい子だ。私はすんなり諦めて、自分の椅子に戻ろうとした。

「跡部さん」

 不意に、日吉君の声に呼び止められる。

「ん? 何?」

「ありがとう。さっき、僕に加勢してくれて」

「え、ああ……どういたしまして」

 彼は気まずそうに、口をもごもごさせている。

「その。女性が同居すると分かって、最初はあまり良い気がしなかったんだが。……あなたが良い人で、助かった」

 思わず口角が上がってしまった。この子は真面目な顔をして、たまに面白い事を言う。

「単純なのね。ペット飼うのに賛成しただけで良い人だなんて」

「確かに自分は単純だ。勘違いされがちだが」

 彼は少し視線を落とし、憂いを帯びた表情をした。しかしすぐに皿洗いに戻った。

 私もまた、自分の席に腰を落ち着ける。先生と勝浦さんが、テレビを観てげらげら笑い転げている。一ノ瀬さんはにやけ顔だ。

 コーヒーを一口飲む。悪くない味の様に思えた。




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