14.それぞれの春を
創と再会してからの数日間、彼とは毎日顔を合わせて話し合った。といっても真面目な話ばかりではなく、くだらない冗談を言い合った事もあった。
それは純粋に楽しい時間だった。そんな時間を通して、創は今も私が愛した彼のままなのだと実感する事が出来た。
今度こそ、幸せな家庭を築く事が出来る。子供が出来る出来ないに関わらず、ふたりでなら幸せになれる。そう確信した。
だから、再会から1週間後の朝に202号室を出る事になったのは、そう急な話でもないと思う。
つぶらな黒い瞳を、じっと見つめる。
もしかして、寂しがってくれてるの? レイちゃんの頭を撫でながら、そう問い掛けた。
彼女は黙ったまま、私を見つめ返してくる。
今までいっぱい癒してくれてありがとう。じゃあ、もう行くからね。
立ち上がって振り返ると、同居人達皆が私の方を見ていた。
「そろそろ、行きますね」
私はそう言ってコートを羽織った。
「もう行くのかよ。しっかし寂しくなるなぁ」
勝浦さんがしみじみと言った。
「そう言う割には結構平気そうですよ、4人とも」
「そんな事無いよぉ。ねっ、ゴロー」
「ああ。もう泣きそうだ」
日吉君が真顔で呟いたので、私は吹き出した。
「白々しいわよ。じゃ、本当に帰ります」
私は玄関で靴を履き、置いてあったキャリーバッグに手を掛けた。部屋の方に向き直ると、同居人達が私を囲む様に集まっている。
「また遊びに来てもいいですか?」
「いいに決まってんだろ。いつでも来いよ」と勝浦さんが言った。
「その時には、僕はここにいないかも知れないがな」
日吉君の呟きに、私は驚いた。
「それ、どういう事?」
「何かしらの職に就いて、実家に戻ろうかと思っている」
「ええっ!?」
大声で叫んだ先生を筆頭に、全員がぽかんと口を開けた。
「本気かゴロー。何があってそうなったんだよ」
「この前、遊園地に行ってからだ。さくらと話している時のヨシゾウさんを見て、親を一番喜ばせる事が出来るのは子だと悟った」
「……つまり、日吉君も親を喜ばせたいって事?」
「ああ。僕の親はまるで尊敬出来ない人間だと思っていたが、人間誰しも悪い面もあれば良い面もある。これもさくらの一件で学んだ事だ」
「それは良い事を学んだわね」
勝浦さんはにやりと笑って「俺達に感謝するんだな」と言った。
「さくらには感謝している」
「俺にはしねぇのかよ。しっかしゴローがいなくなるとすりゃあ、また家事は当番制に戻さなきゃならねぇな」
「うわーそれはめんどくさいなぁ! また3週に1週、地獄が回ってくるなんて……」
日吉君が来るまでは、家事は週替わりで担当していたと聞いた事がある。
「ゆくゆくは2週に1週になるかもね」と私は言った。
「え? 何で?」
「一ノ瀬さんが結婚したらって事」
「そうだ、それもあるのか! モッチー、彼女とは順調?」
「おかげさまで。正直、まだ結婚まではイメージ出来ないけど」
「あと何年か先の話になりそうですね」
「それなら、俺の方が先に再婚してるかも知れねぇな」と、勝浦さんが呟く。
「え、ヨシゾウさんも良い感じの人いるの!?」
「いやまぁ、元嫁だけどな。この前、“さくらを遊びに連れて行ってくれてありがとう”って電話掛けてきて、久々に喋ったからよ」
「あー、成程!」
「いいじゃん。おっさんが戻ってきたら、あの子も喜ぶだろうな」
一ノ瀬さんが優しい口調で言った。勝浦さんがどのくらい本気なのかは分からないが、本当にそうなってくれたら良いのにと思う。
「でも、それが全部現実になったら僕独りぼっちだよ。家出した18の夜に逆戻り」
先生は拗ねた様に言った。冗談で言っているのは分かっているのに、胸がきゅうっと痛んだ。
彼の隣にずっと私がいる。そういう未来も、あったのかも知れない。
「その頃にはお前にも女のひとりやふたり出来るだろ。心配すんな」
勝浦さんが先生の背中を強く叩いた。
「いたっ! やめてよ、もうっ」
いつものやり取りに場の空気が和む。
やっぱりしばらくは、この4人での同居生活が続いてほしい。もう私には関係の無い事だけれど、そう願わずにはいられない。
「……本当に、お世話になりました。ありがとう」
「急にかしこまらないでよ」
先生が笑った。
「最後ぐらいはいいでしょ。……じゃ、さよなら」
「またな!」
勝浦さんが声を張り上げた。皆、笑っているけれどどこかしんみりとしている。
私は名残惜しさに襲われながらも、彼らに背を向けてそっと扉を開けた。
まだ朝なのに、外は意外にも暖かかった。今日は雲が少なく、日差しが眩しい。
もう春がそこまで来ている気がする。ここに来た時はあんなに寒かったのに。
振り返って、ファミリアを見上げた。7階建ての質素なマンション。その中に、様々な人々の思い出が詰まっている。
……何だか今日は、妙に感傷に浸ってしまう。特別な日だから仕方ないか。
ファミリアにも別れを告げて、再び家路を歩み始める。
「おーい、跡部さーん!」
数歩進んだのち、遠くから聞こえてくる叫び声に立ち止まる。
振り向くと、見慣れた男が全力でこちらへ走っていた。
「どうしたの、先生?」
彼は息を切らしつつ、手にしていた小さな紙袋を私に見せた。
それは、彼のクリニックで処方してもらった抗鬱剤だった。
「これ、忘れ物」
「あ、部屋に置きっぱなしだったんだ。ごめんごめん」
受け取ろうと手を出して、ふと思いとどまる。
「……あのね。もったいないんだけど、それ捨てといてくれない?」
「え?」
「もう要らないから。……っていうよりは、もう要らないって信じたいの」
「ああ、そうだね。君には多分、もう要らない」
先生はいつもの様に微笑みかけると、それを上着のポケットにしまった。そして少し気まずそうに視線を逸らす。
「本当言うと、君ならそう言うだろうって気がしてた」
「そうなの? 流石精神科医ね」
「精神科医だからってエスパーみたいに心が読める訳じゃないよ。君と同居してたから何となく分かったってだけ」
「そう。ならどうして、わざわざ持ってきてくれたの?」
「んー、深い意味は無いけど。最後にもう一度、君の顔見ときたくて」
そう言いながらも、何故かずっと俯きがちになっている彼を、私はまっすぐ見つめた。
寝癖のついた細い髪。白く滑らかな肌。幼い顔立ち。二重の大きな目。
やがてその瞳が、私に向く。ぎょっとした態のコミカルな表情。
「もう、どうしたの? そんなに見られたら照れるよぉ」
彼はいつもの調子でそう言う。
「……前から疑問に思ってた事があってね」
「何? また質問?」
「ううん」
こんな事、口にしていいのだろうか。けれどこの気持ちを分かってほしくて、私は口を開く。
「私と先生って、好きな音楽もテレビ番組も、面白いと思うものも幸せを感じる事も、性格も価値観も、全然違うでしょ」
「そこまで言う? まぁ、実際そうだけどね」
「なのに……なのに、何でもっと一緒にいたいって思っちゃうのかな」
駄目だ。やっぱり声が震えてしまった。
必死に平静を装うけれど、彼はそんな私の事を全て見透かしているかの様に、ふっと目を細める。
「不思議だよね。僕もだよ」
「……そうなんだ」
その言葉だけで、全身の緊張が一気に解けた。かわりに、じんわりと胸が温まっていく。
「急に変な事言ってごめんなさい」
「全然大丈夫だよ。それじゃ、えっと……体に気を付けて」
「ありがとう。そっちも、皆元気にしててね」
「勿論。じゃあ……さよなら」
「うん。さよなら」
私と先生は、同時に背を向けた。どちらかがどちらかを見送るという事も無く。
何かが私の胸の奥から消えた。そして、また新しい何かが生まれた。しっかりと芯の通った気持ちが。
春は来る。きっとすぐに。
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