13.再会
2月も終わりに近付いた今日、関東に春一番が吹いたらしい。
月日が経つのは早いものだと、改めて感じる。私がファミリア202号室に転がり込んでから、もう1ヶ月近くになるのだ。
時々、強い恐怖に襲われる事もある。今の生活がいつまで続くのだろう。夫は何を考えているのだろう、と。
このままでは私は、幸せな家庭を築くという夢から大きく遠ざかってしまう。それどころか、誰を愛していいのかすら、分からなくなってしまう――。
「跡部さん、大丈夫ですか?」
隣を歩いていた佐野さんに肩を叩かれ、我に返る。
「え、ああ……ごめん、ちょっとぼーっとしちゃった」
「そうですか。跡部さんがぼーっとしちゃうなんて珍しいですねー」
屈託の無い笑みを見せる彼女に、ぎこちなく笑い返した。
今日は休日で、今私は佐野さんとショッピングモールから帰る途中だ。数日前の昼休みにショッピングの話で盛り上がり、今度一緒に買い物に行こうと約束していたのだ。
先日遊園地に行ってから、彼女とはかなり距離が縮んだ様に感じる。
「うーん、それにしても今日はいっぱい買いすぎちゃいました!」
両手に提げた大きな紙袋を持ち上げて、彼女は満足げに言った。
私はバッグに入る程度のこまごました雑貨しか買わなかった。佐野さんと比べると、私はお金を使う事に対し慎重すぎるのかも知れない。
「それ重そうだけど、一個持とうか?」
「いえいえ、このくらい平気です! 跡部さん、先輩なのにいつも気を遣いすぎですよ」
「いつも? 私、そんなに気を遣ってるつもり無いけど」
「遣ってますよぉ。だってほら、未だに私の事さん付けで呼んでるじゃないですか。普通に佐野って呼んでくれればいいのに」
「えー、名字呼び捨て?」
「抵抗あります?」
「だって、そんな風に人を呼んだ事無いもの」
「そうですかー。じゃあ……」
佐野さんは般若の様な目で宙を睨み、しばらく考え込んだ。会社の会議中によく見る表情だが、いつ見ても怖い。
そして突然ぱっと目を見開いて言った。
「さのみさ!」
「えっ?」
「私、子供の頃“さのみさ”って呼ばれてました! 佐野美咲の“き”を取って、4文字で!」
「ああ、キムタクみたいな事ね」
「そうです! どうですか、この呼び方?」
「佐野よりももっと抵抗あるわね」
「えー!」
その時、バサッと大きな音がした。佐野さんが紙袋を2つとも落としたのだ。
「……やっぱり一個持つわよ」
「大丈夫です! 今のはびっくりしただけですから!」
そう言って彼女はすぐさまそれを拾い上げた。持っている物を落とすくらい驚かせる様な事を言った覚えは無い。
「あっそうそう。跡部さんて、あの人達と生活し始めてどのくらい経ってます?」
「1ヶ月足らずだけど……急に話変わったわね」
「実は、前から訊きたかった事があって。元也達と一緒に住むのって、どんな感じなんですか?」
「どんな感じって? もしかして、私と彼が変な関係になってないか心配?」
「いえいえとんでもない! そんな心配これっぽっちもしてません!」
「あ、そう」
そんなに強く否定されると逆に傷付くな、と思う。
「この前、同居されてる方達と遊園地に行った時、何か不思議な感じがしたんですよねー。シェアハウスっていうよりは、家族? みたいな」
「まぁ、私と日吉君以外の3人は、もう6年も一緒に生活してるからね」
「いえ、跡部さんも日吉君も含めてです」
「私も? まだ1ヶ月足らずなのに?」
「だから不思議なんです。跡部さんだって、あの人達の事赤の他人だとは思えないんじゃないですか?」
「うーん、そうね……」
佐野さんが言った事は的を得ていた。たった数週間しか時間を共にしていない筈の彼らが、私には家族の様に心温まる存在だった。
でも、それがどうしてなのか分からない。気を遣わなくて済むからなのか。私の存在を受け入れてくれるからなのか。
「まぁ、良い人達だとは思ってるわ」
「答えになってませんよぉ」
「そんなに怒らないでよ。自分でもよく分かんないんだから」
子供の様にむくれる佐野さんを、曖昧な言葉でなだめた。
彼らの存在が私にとってどれ程大切かという事は、口に出してはいけない気がした。それを言ってしまったら、もうあの人のところには戻れない。
――すると、私のその思いに呼応するかの様に、後ろから声が降ってきた。
「優希……優希なのか?」
雷に打たれた様に、全ての思考が止まる。
恐ろしい事が待っていると本能で悟りながら、反射的に振り向いてしまった。
そこにいたのは、私がかつて死ぬ程愛した人。
彼の鋭い眼光が、私を貫いて放さない。今すぐこの場から逃げ出したいのに、指一本すら動かせない。
「えっと……跡部さん、お知り合いですか?」
佐野さんが私の耳元で囁く。海の底で浜辺にいる人の声を聞いたかの様に、ぼんやりと頭の中で響いた。
私は彼と対峙している。でも、どうすれば。彼はどうする気なのだろう。
私の考えがまとまる前に、彼が動いた。地面にうずくまっている。
それが何を意味するのか、最初は分からなかった。けれど段々と落ち着きを取り戻すうち、ふっと気付いた。
彼は土下座をしているのだ。
「……創?」
「ごめん。本当にごめん、優希」
跡部創は地面に頭を擦り付け、狂った様に私への謝意を口にしていた。
「取り返しのつかない事をしたんだって、やっと分かった。でも俺には、優希が必要なんだ」
その声は掠れていた。しかし、彼の気持ちはまっすぐ私の胸の中に流れ込む。
まさか、彼がこんな事をするなんて。常に世間体を気にして、周囲の目を引く行動なんてしなかったのに。
まるで、昔の純粋な彼に戻った様だ。
「あのー……大丈夫ですか。落ち着いて下さい」
不意に、佐野さんが創に近寄って話し掛けた。彼は顔を上げると、怪訝そうに彼女を見上げた。
「私、今優希さんと一緒に住んでいる者です。あなたは彼女の旦那さんですよね?」
「……はい」
一緒に住んでいる。そんな嘘をさらりと吐いて、彼女は冷静にこう続けた。
「あなたがちゃんと謝れる状態になって、良かったです。でも、兎に角落ち着いて。あなたがその状態だと、優希さんを怖がらせてしまいます」
創は虚空を見つめ、彼女の言葉を飲み込んでいる様だった。
「そうですね……すみません」
やがて彼は立ち上がり、私に強い眼差しを向けた。
「僕は、優希にこれまでの事をきちんと謝りたい。そして、話がしたいんです」
「彼女もきっとそれを望んでいますよ。ね、優希さん?」
佐野さんが私の方に向き直り、優しく両肩に手を置いた。私は小さく頷く。
「えっと。まず、どこか静かに話せる場所に行きませんか?」
「それなら、家に……僕らの家に行きましょう。ここからだとそんなに遠くありません」
「優希さん、それでいいですか?」
ふたりで住んでいたマンション。1ヶ月ぶりに帰る事になる。私はもう一度頷いた。
「優希がいなくなる前の俺は、自分の事で精一杯だった」
自らが淹れたお茶を一口飲むと、創はそう言った。
私達はリビングに腰を落ち着けた。私と佐野さんはソファーに、創はテーブルを挟んで向かい側の椅子に座っている。
佐野さんは、自分は外で待っていようかと尋ねたが、私はここに残ってほしいと頼んだ。第三者が存在している方が、私も創もゆとりを持って話せると思ったのだ。
久し振りに顔を合わせた創は、以前よりも痩せて見えた。元々こけていた頬の肉が更に薄くなり、野性的だった目は輝きを失っていた。その下に出来たクマが痛々しい。
それでも彼は、私と対話しようと必死に言葉を紡ぐ。
「最近、仕事が上手くいってない……というか、ほとんど出世が絶望的な状態で。唯一明るい気持ちになれたのは、子供の事を考えている時だった。
でも、そんな希望も消えて……何を目標に生きていけばいいのかも分からなくて、自暴自棄だった」
彼は顔を伏せて、小さく呻いた。
「だけど……そんなの、俺のエゴだ。
一番つらい思いをしてたのは、自分のお腹の中で子供を亡くした優希だった筈だ。なのに、そのあと鬱になって会社を休み始めた優希を見ても、俺は君の事を考えてやれなくて。逆に苦しめて……」
彼は頭を抱え、髪をクシャクシャにしながら咽び泣いた。
「馬鹿だ……俺は馬鹿だ!! 何で……何でこんな事に……」
「そんなに自分を責めないでよ」
私は慰める様に言った。確かにあの時は、彼の事を恨んだ。けれど、ここまで追いつめる事は望んでいない。
「私だって、あなたの事分かってあげられなかった。それに、仕事で疲れてるあなたに無駄な気遣いをさせてしまって……あなたの気持ちが壊れたのは、私のせいなの」
不自然なくらい自然に、ぽろりと涙が零れた。
同時に強い息苦しさが襲ってきて、私は嗚咽した。
「そもそも、私が赤ちゃんを産んでたら、こんな事には――」
「やめろ!!」
彼は声を荒げた。しかし、すぐにそれを反省するかの様に頭を垂れ、手で顔を覆った。
「頼むから、そんな事言わないでくれ……あれは、絶対に君のせいじゃない。誰のせいでもないんだ」
「……そうよね」
「兎に角、俺が全て悪かったんだ。本当にすまなかった」
「私の方こそ、ごめんなさい」
私は頭を下げた。そして、中々上げる事が出来なかった。
一番近くにいる、一番大切な人の気持ちを、理解しようともしなかった。その罪の重さを、今初めて知ったから。
「おふたりとも、もう顔を上げたらどうですか」
佐野さんの戸惑いを含んだ声で、やっと姿勢を戻す。
「あの、ちょっと口を挟みますね。お互い謝罪も済んだ事ですし、これからはおふたりの今後について話し合いませんか?」
彼女は適度に明るいトーンで言った。創は「そうですね」と言い、ハンカチで涙を拭いた。
「優希。今すぐじゃなくてもいい、またここに戻ってきてくれないか」
「勿論。今度は上手くやっていけるわよね、きっと」
「ああ」
再会してから初めて、彼は笑顔を見せた。昔、私が彼に恋をした時と同じ様に、優しく清らかな笑みだった。
その後、私達は十数分程話をして、今後の事を決めた。
“今すぐじゃなくてもいい”という創の言葉通り、私はしばらく今の生活を続ける事にした。そして色々整理をつけてから、元の家に戻る。大まかに言えばそんな流れだ。
話し合いを終えた私は今、佐野さんに支えられながらファミリアへの家路を歩いている。
「あのさ……私の顔、今どうなってる?」
「へ? ああ、お化粧はちょっと崩れちゃってますね、やっぱり。でも全然気にならないですよ!」
「そう……」
多分、本当は酷い顔をしているのだろう。涙でファンデーションが剥がれただけでなく、目元の腫れもとんでもない事になっている筈だ。
「そうだ、それよりも先に言わなきゃいけない事があった。佐野さん、変な事に巻き込んじゃってごめんね。あなたがいてくれて助かった」
「全然大丈夫ですよ! 私、大した事してませんしー」
彼女は何でもない事の様に言ってみせる。彼女がいてくれたから和解が成立した様なものなのに。
「充分大した事よ。ずーっと冷静に私達の話聴いてくれてたし、ちゃんとしたアドバイスもくれたし。正直、いつもと違いすぎて別人に見えたわ」
「それって、いつもはちゃんと話聴いてないって事ですか?」
「いや……まぁ、そうね」
「えー!」
「冗談よ。それはそうと、また今度何かお礼するわね」
「いえいえ、そんなのいいですって!」
「そういう訳にはいかないわよ。あなたには本当に感謝してるんだから。ありがとね、さのみさ」
「えっ?」
「ほら、さっき言ってたあだ名」
「あ、あーあれですか!」
彼女は引きつった笑みを見せた。
「何か……やっぱ、跡部さんに言われるとしっくりこないですね! 佐野でいいです!」
「あ……そう」
私達はいつまで経っても、お互いをさん付けで呼び合う事になりそうだ。でも、むしろそういう関係の方が心地良いのかも知れない。




