1.すがる様に、恋に落ちて
家族なんて、自分には必要無いと思っていた。ただ愛する男が隣にいれば、それで良かった。
でも、私のお腹に赤ちゃんがいると分かった時。あの人はお医者さんが目の前にいるにも関わらず、私を抱きしめてくれた。
それが嬉しくて、嬉しくて、涙が零れ落ちた。
結婚を前にした妊娠だったので、ステレオタイプな私の両親は激昂し、あの男と結婚するなら勘当するとまで言った。
おかげで式も挙げられなかったけれど、私達は充分幸せだった。これから明るい未来が待っていると信じていたから。
私の赤ちゃんがこの世界を知る事も無く、お腹の中で死んでしまうまでは。
涙が零れ落ちた。
妊娠を知った時に流した涙とは、全く温度が違う。私は嗚咽する事も無く、ただ茫然と泣いていた。
目の前に座っている精神科医の男が、神妙な面持ちでハンカチを差し出した。私は少し頭を下げ、それを受け取る。言葉が出てこない。
白く清潔なハンカチを濡らしながら、自分が何を話していたかを思い出そうとした。
流産してから鬱になり、1ヶ月休職した事。その間に私は出世コースから外れていた事。今まで仕事第一で生きてきた私は、生きる意味を失ったと感じた事。
そこまでは確か、話した筈だ。
「……すみません。それから、ずっと子供の誕生を楽しみにしていた夫も、私に冷たく当たる様になって。時には、暴力を振るわれる事もあります」
精神科医は頷きながら、手元の紙にメモをとった。
「それが一番つらかったです。夫はもう、お腹の子しか見ていなくって、私の事はどうでもよかったのかと思うと……」
私がそこまで言うと、彼はペンを置いた。
そして低い天井を見上げ、何かを決意する様に頷くとやおら立ち上がった。
「跡部さん。コーヒーでも飲みませんか」
「……え?」
彼は人懐っこそうな笑みを浮かべた。以前、2つの心療内科で診察を受けたが、こんな事を言われたのは初めてだった。
とはいえ、泣き疲れた私は事実、喉が渇いていた。
「お願いします。……ブラックで」
数分後、奥の部屋から戻ってきた彼は、私にコーヒーカップを差し出した。
私が礼を言って受け取ると、彼はにっこりと笑い、ミルクがたっぷり入った自分のコーヒーを口に運んだ。
「その眼鏡、どこで買ったんですか?」
唐突に彼はそう言った。
「……どうして、そんな事を?」
「ただ疑問に思っただけですよ。強いて言えば、その縁の赤が素敵な色だからかな」
彼は自身の眼鏡のブリッジを上げ、爽やかに言った。
私が大いに戸惑いながらも答えると、彼は「僕と同じ所だ!」と上機嫌になった。
雑談をして、気持ちをほぐそうとしているのだろうか。そういう精神科医がいても、おかしくはないのかも知れない。
私はそう思いつつ、彼のどうでもいい質問に答えたり、どうでもいい話に相槌を打ったりした。
そのどうでもいい話の最後に、彼は衝撃の一言を口にした。
「だからね、あなたは僕の家で生活すればいいと思うんです」
「……は?」
一瞬、このまま帰ろうかと思った。こんなくだらない冗談を聞く為に、わざわざお金と時間を無駄にしてここへ来た訳ではない。
でも、冗談にしてもおかしい一言だ。私は彼が何を考えているのか、つい気になってしまった。
「あの、どういう事ですか?」
「ほら、僕とあなたって気が合うじゃないですか」
「どういうところが?」
「眼鏡を買った店も同じだったし、他にもほら……そう、歳も一緒! 25ですよね?」
「それは気持ちの問題じゃないですけど」
「兎に角、一緒に暮らしませんか。あなたが心配なんです」
彼の顔から、さっきまでの笑みが消えていた。馬鹿らしい程に真面目な表情だ。
「先生……本気で言ってるなら、まともじゃありませんよ。あなたはお医者さんで、私は患者なんだから――」
「僕は医者としてあなたに提言したい。このまま今の旦那さんと一緒にいるのは危険です」
私は彼の力強い口調に負け、押し黙った。
「かといって、すぐに離婚に踏みきれる程、夫婦関係は簡単ではありません。ですよね?」
「……はい」
「なので、こういう時はほとぼりが冷めるまで距離を置くのが一番なんです。
他に誰か頼れる人がいるなら、その人の家に泊めてもらえばいい。だけど例えそれが親しい人であっても、共に暮らす事でストレスが生まれるでしょう」
確かにそうだろう。今まで私は親しい友人に対しても、どこか気を遣って接してきたのだから。
「僕はあなたの事情を大体知っているし、こういう職業だから精神的な不安にも対応出来ます。おまけに不躾な人間だから、余計な気を遣わなくてもいい」
でも、この人とふたりで暮らすなんて。それって。
「何より、あなたの事を本気で……本気で、思っています」
そんな事が許されるのだろうか。童顔で、笑顔が人懐っこくて、不躾で――私の事を本気で思ってくれる人。
気付けば、心が傾き掛けていた。
「このクリニックの近くに、ファミリアっていうクリーム色のマンションがあるんです。知ってますか?」
「……ええ」
「今日の夜8時から、そこの前で待ってます」
私は目を見張った。
「さっき言ってましたよね。今日、旦那さんが休日出勤になったって。遅くまで帰ってこないんでしょう?」
「いや、そうですけど……」
「なら、そのうちに。ああ、別に来なくても構いませんよ。お好きな方を選んで下さい。僕と、旦那さん」
この人は、何を言っているのだろう。どういうつもりなんだろう。掴めない。
「僕は待ってます」
私はもう、まともな人間ではなくなってしまった。
荷物をいっぱいまで詰め込んだキャリーバッグを引きずりながら、私はそう思った。
2月の夜風はまだまだ冷たくて、夫を裏切った私を責める様に吹き荒んでいた。
温めてくれる人が必要だったんだ、と思う。
今まで夫以外の人に、本当の自分をさらけ出した事が無かった。人前では常に、理想の自分を演じ続けていた。
そんな私の心が、誰よりも信頼していた夫に砕かれた時。おせっかいだろうが、下心があろうが、私を救ってくれる人が必要だった。
「こんばんは、跡部さん」
マンションの入り口前。ダッフルコートに身を包んだ彼が、笑顔で私を迎える。鼻が少し赤い。
「来てくれて嬉しいです」
昼間よりも幼く見える彼は、静かなトーンでそう言った。
その言葉に、微笑みに、躰の芯がカッと熱くなる。