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9 憧れの人


(ここは……?)


 ゆっくりと意識が浮上していく。

 かび臭さが鼻先をかすめた。知らない匂いと空気だ。イリーナは眉をひそめ、上体を起こした。


 見知らぬ部屋だった。内装は荒れ果てていて、長い間、使われていなかったことがわかる。室内には何も置かれておらず、扉は前方に1つ、窓が後ろに1つ。小さな窓枠からは月明かりが差しこんで、ホコリを照らし出している。


(私……どうしてこんなところに……?)


 イリーナはぼんやりと考えながら、周囲を見渡した。


 ――すると。


 しゅー……と鋭い呼気が聞こえた。イリーナの体は金縛りにあったように動かなくなった。

 近くに何かがいる。その気配に身の毛がよだつ。


「ひっ……」


 後ずさろうとして、壁に背中を打ち付けた。


 イリーナを見張るように鋭い視線を向けているのは人間ではない。幻獣だ。


 イリーナがこの世でもっとも苦手な生物……蛇のような姿の幻獣、ナーガだった。部屋の隅でとぐろを巻いて、じっとこちらを見つめている。


 嫌悪感が全身をかけめぐり、イリーナは悲鳴を上げていた。


「い、いや……!」


 すると、ドアの向こうから物音が聞こえた。

 誰かがいるらしい。イリーナは更に恐怖で凍りつく。


 ドアが開き、誰かが顔を出す。見知らぬ男だった。イリーナと目が合うと、嘲笑するように口元をゆがめる。


「ああ、起きたのか。お嬢様?」

「あ……」


 野暮ったい風貌の男だ。

 イリーナはぶるぶると震えながら、相手を見返した。


「あなたは誰ですか! ここはどこ? どうして私をこんなところに……」

「あんたに用はねえ。あんたの親父さんと少しお話がしたくてな。話し合いが穏便に済むように、あんたには協力してもらうぜ」


 それでイリーナは今の自分が置かれている状況に気付いた。

 小さな頃のトラウマが蘇る。カリスと共に誘拐された時のことだ。


(また……あの時と同じ……)


 イリーナの震えは大きくなる。


「……これのどこが穏便なのですか」


 男は愉しそうに低い声を漏らす。


「は、お嬢様には想像もつかない世界だろうな。だが、覚えておきな。世の中はきれいごとばかりじゃねえ。話し合いの前には相手の弱みを握るのが交渉の基本ってやつさ」

「こ……こんなことをして、許されるはずがありません」


 イリーナの言葉に、男は愉快そうに眉をつり上げた。


「へえ……箱入り娘かと思いきや、肝が据わってやがるな。おい、少し遊んでやれ」


 最後の台詞はイリーナに向けられたものではない。部屋の隅に控えるナーガに向かっての言葉だった。その瞬間、男の目の中に赤い火花のようなものが弾ける。

 すると、ナーガはまるで頷くように頭を下げた。


(幻獣使い……!?)


 イリーナは絶句した。幻獣使いとは幻獣と心を交わして、意のままに操ることができる者だ。


 ナーガはゆっくりと床を這いながら、イリーナへと寄って来る。細長い体が床を這う度に、ずる、ずるっという気味の悪い音と共にホコリが舞い上がった。


 その気色の悪い動作に、イリーナはすっかり縮み上がった。


「や……こ、来ないで……」

「は、さっきまでの威勢はどうした? お嬢様は蛇がお嫌いなんですか?」


 男は楽しそうに笑っている。

 イリーナは恐怖のあまり声も出せない。蛇が少しずつイリーナに近寄って来る度、戦慄が膨れ上がっていく。


 誘拐されたのはこれで二度目だ。しかし、前の時はカリスが一緒だった。カリスがイリーナの身を守ってくれた。あの時の経験はイリーナの心に強く焼き付いて、ずっと忘れることができなかった。

 その時からカリスはイリーナにとって憧れの人となったのだ。


 恐ろしさのあまり思考が混濁して、その時の光景と今の光景が重なる。イリーナは心の中で叫んでいた。


(助けて……カリス様!!)


 ナーガがイリーナのすぐ眼前にまで寄って来た。

 ゆっくりと鎌首を持ち上げて、イリーナと視線を合わせる。舌なめずりでもするように、その目を獰猛に光らせた。


 と、その時のことだった。

 きん、と辺りの空気が張り詰めた。叩きつけるような冷気が吹き抜ける。


 次の瞬間、蛇の体が一瞬で真っ白に変わった。

 そして、


「イリーナ!」


 イリーナは幻聴かと思った。


 それを求めすぎるあまり、自分がありもしない幻を作り出してしまったのではないかと疑った。

 だって、この場でその声が聞こえるわけがない。いつもは冷徹な声が、余裕をなくした様子で自分の名を呼んでくれるわけがない。


 イリーナは呆然としながら顔を上げた。

 目と目が合った途端、時が止まった。


「カリス様……」


 後は言葉にならなかった。


 それは幻でもなかった。

 でも、その場にいたのは、イリーナがよく知るカリスの姿ではなかった。


 いつもは無表情で、何事にも興味がなさそうにしている婚約者は、今ははっきりと怒りの表情を湛えていた。瞳には燃え盛るほどの激情が走っている。


「貴様……よくもイリーナを泣かせたな!」


 一瞬でイリーナを除くすべてのモノが凍った。蛇や男はもちろん、床も壁も天井も。部屋全体が真っ白に変わった。

 目にするだけで凍えそうなほどの情景なのに、イリーナは不思議と寒さを感じなかった。


 ぽろぽろとあふれる涙を止めることができずに、ぼうっとカリスの姿を見つめ続ける。

 そんなイリーナにカリスは駆け寄って、更に信じられない行動をとった。


「イリーナ……!」

「カリス様……」


 ためらいなく背に手を回して、イリーナの体を抱きしめたのだ。


 氷のようだと思っていたカリスの胸はとても暖かかった。どくんどくんと鼓動の音を感じる。弾けるような熱がイリーナの体を駆けめぐった。


 いろいろな一気に感情が押し寄せてくる。イリーナはわっと泣き出して、カリスの胸にすがりついた。


「カリス様……っ」

「怪我はないか」

「はい……カリス様が助けてくださるのはこれで二度目ですね……」


 涙をぬぐいながら、イリーナは顔を上げる。

 至近距離で視線が交わった。いつもは恥ずかしくて、こんなに近くで見つめることなんてできないのに、今は安心した反動で平気だった。それどころか、もっとしっかりとカリスの顔を見ていたいと思った。


 お互いにぼうっと見つめ合っていた2人は、突然、響いた声でハッと我に返った。


「カリス! ねえ、カリスったら!」


 声は足元から聞こえてくる。

 そちらに視線を向けて、イリーナは驚いた。


 リュビが後ろ足だけで立ち上がって、こちらを見上げている。そして、小さな口を懸命に動かしながら声を上げていたのだ。


(え……私、リュビさんの言ってることがわかる……?)


 その声はいつもは「きゅいきゅい」とただの鳴き声にしか聞こえないはずなのに。

 なぜか今ははっきりとリュビの言葉がわかった。


 イリーナが怪訝な顔をしていることにカリスが気付いて、


「ああ、僕と触れているからだろう。僕を通じて、リュビの言葉が理解できるようになっているんだ」

「そうだったのですか……」


 確かにカリスとこんな風に触れ合うのは初めてのことだ。だから、リュビの言葉が理解できたのもこれが初めてだった。


 イリーナは顔を上げて、カリスの方を見た。至近距離で視線が交わる。

 それも体同士が密着する体勢だ。


 そこでお互いに初めて距離の近さに気付いて、弾かれたように2人は離れた。すると、途端にリュビの言葉はいつもの「きゅいきゅい」という鳴き声にしか聞こえなくなってしまう。


 イリーナはカリスの言うことが本当のことなのか、どうしても試してみたくなって、手を上げた。


「か、カリス様……少し失礼します」

「ダメだ、イリーナ! 僕に触れては……」


 カリスは慌てて顔を赤くしているが、イリーナはすでに行動に移した後だった。「えいやっ」と思い切って、手を伸ばす。再度、カリスの手と重なり合った。


 すると――


「ほら! やっぱりそうだ! 凍らない! 魔術が発動してないよ!」


 リュビが得意気に声を張り上げている。その言葉がイリーナにははっきりと理解できた。

 カリスはなぜか得心が行かない顔で、首を傾げている。


「しかし……どうして……」

「わからない! でも、これでためらう理由はなくなったよね? ちゃんと言うんだよ!」


 と、リュビが嬉しそうに告げる。

 カリスは戸惑った表情でイリーナに視線を向けた。


 束の間、逡巡した後で、覚悟を決めたようにイリーナの手を握り返す。


「イリーナ……君に話さなければならないことがある」

「はい……」


 いつものカリスと雰囲気が異なる。

 よほど重要なことを告げようとしているのだろう。

 それがわかって、イリーナはカリスが何を言おうとも受け止めようと心に決める。


(婚約を解消しようと言われたら……私はつつしんでそれをお受けいたします……)


 そう思っていたイリーナに、カリスが告げた言葉はまったく予想外のものだった。


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