8 不穏な影
「イリーナ! イリーナったら!」
何度か呼びかけられて、イリーナはハッと顔を上げた。
あたたかな木漏れ日が舞い散る中庭。イリーナは椅子に腰かけて、ぼうっと物思いに浸っていた。昼食を食べることも忘れて。
王立グルービア学園のガーデンテラス。辺りは生徒たちのざわめきの声が満ちている。
今は昼休みの時間帯。イリーナはいつものメンバーとお昼をとっているところだった。
ジェーンが呆れたようにこちらを見ている。
「もうどうしたんですの? 最近、ずっとぼーっとしていましてよ」
「な、何でもありません」
慌てて首を振ってから、イリーナは笑顔を取り繕った。
「何でもないことないでしょう。いつも能天気というか、周囲にお花を飛ばして、ぽやっーしているようなあなたが、ここ数日は枯れる寸前の打ちひしがれた植物みたいになっていますわよ」
「カリスさんと何かあったの?」
そう口を挟んだのはリリアンだ。こちらも心配そうな顔でこちらを見ている。
「う……」
鋭い一言に、イリーナの胸はぐさりと突き刺された。
カリスとデートに出かけた日から3日――
イリーナはすっかり魂が抜けたような生活を送っていた。カリスと顔を合わせることができなくて、通学の時間も変えてしまった。あれからカリスとは会っていない。
会えないでいると、寂寥感がつのるばかりだった。
ジェーンとリリアンは顔を曇らせて、イリーナを見ている。2人に心配をかけたくなくて、イリーナは無理に笑ってみせる。
「いいえ。カリス様は何も悪くありません。私が悪いのです」
「イリーナ……」
「カリス様は初めてお会いした時からずっと……私なんかに興味はなかったのに……。私がカリス様のことを好きだからと、いつも付きまとったりして……。カリス様が迷惑に思うのは当然のことです」
自分の言葉で、心がぐさりと傷付いて。
イリーナは顔を伏せた。
(私は独りよがりで、自分勝手だったのですね……)
好意の押し付けばかりして、きっとカリスに負担をかけていたのだ。それであの「限界だ」という台詞につながったのだろう。
それを考えると泣きそうになるくらい胸が痛んだ。
カリスに申し訳ないと思う。
でも、それと同時に――
(会いたい……)
どうしようもなく、カリスに会いたいという気持ちを抑えることができなくて。
イリーナは自分の胸をぎゅっと押さえた。
その日、イリーナが学園を後にしたのは、もう暗くなりかけた時間帯だった。
カリスと顔を合わせたくなくて、放課後も教室に残り、教師の手伝いをしていた。時間を忘れて没頭しているうちに、すっかり遅い時間になってしまっていたのだった。
イリーナは慌てて鞄を手にして校舎を出た。公共天空車の乗り場まで足早に歩いていく。徒歩で通学する生徒はもともと希少な上に、こんな時間だ。イリーナ以外の生徒の姿はなかった。
いつもは活気に満ちた街中も今は閑散としている。店はシャッターが下りているし、通りを行く人の数も少ない。上空を飛び回るスコル便もおらず、辺りは静謐な雰囲気に包まれていた。
イリーナが少しだけ心細さを感じて、足を速めようとした――その時だった。
「ん……!?」
突然、後ろから手が伸びてきて、イリーナの口元を覆う。
何が起きたのかわからず、イリーナはパニックになった。体中から力が抜けていく。意識がぼやけていって、イリーナはそのまま気を失った。
◇ ◇ ◇
「ねー。カリス、もう諦めて帰ろうよ」
リュビが呆れたようにそう告げる。さっきから口を開けば、「帰ろう」か「ピーナツバター」の文言ばかりだ。
カリスはため息をついて、使い魔の方に顔を向けた。
町はずれの公共天空車乗り場。そこに佇んで、カリスとリュビはずっと待ち続けていた。
イリーナに避けられていることにカリスは気付いていた。下校時間もずらされている。だから、校門の前ではなく乗り場の方でイリーナを待っていたのだ。
が、辺りはすっかり暗くなるのに、イリーナは一向にやって来る気配がない。
退屈したリュビがその場に座りこんで、文句を垂れている。
「だって、もう最終下校時間は過ぎてるでしょ? きっと行き違いになっちゃったんだよ」
「天空車の乗り場はここだけだ。僕がイリーナの姿を見落とすはずがない。……一度、学校まで戻ってみよう」
「えー」
と、リュビは地面の上でぐったりと倒れこんだ。
そんな使い魔に腕を差し出して「乗っていいから」と無言で示す。リュビはふてくされつつも、腕を登って肩の上に収まった。
カリスは学校までの道を辿った。
半分ほど来たところでのことだった。
不穏な声が耳をかすめる。
「早く車に乗せろ! 行くぞ!」
ひどく慌てた声。続いて、ドアが乱暴に閉まり、翼がはためく音が重なる。ペガサスが飛び立とうとしている音だった。
何か嫌な予感がして、カリスは走り出した。
叩きつけるような風が道中に吹きつける。見上げると、1台の天空車が慌ただしく飛び去って行くのが見えた。
「カリス!」
リュビが鋭い声を上げて、肩から飛び降りる。道の端に何かを見つけたようだ。
小さな手が示す物を見れば――それはイヤリングの片割れだった。
氷の結晶のようなデザインをしている。カリスがイリーナに贈った物だ。
「イリーナ……」
それを拾って、カリスは空を仰いだ。天空車はすでに姿が見えなくなっていた。