6 縮まらない距離
あっという間にデート当日になった。
イリーナはその時が待ち遠しすぎて、約束の2時間前に待ち合わせ場所に到着してしまった。
カリスが来るまで読書でもしていようと思っていたのだが、驚くことに、ちょうどカリスもやって来たところだった。
「か、カリス様……!?」
イリーナはびっくりして声を漏らす。
一瞬、目が合った。カリスの冷たい双眸はいつもと変わらずイリーナを見返す。そして、素早く目を逸らされてしまった。
無言で佇む両者。リュビが呆れたように2人を見上げて、きゅいきゅいと何かを言っている。
イリーナはドキドキと高鳴る胸を必死で抑えようとした。
(ああ……カリス様、なぜこんなに早い時間に……。嬉しいです。でも、心臓が持ちそうにありません……)
カリスを待つ時間で、ドキドキとそわそわを落ち着ける計画だったのに。
これでは顔が赤くなっているのがバレてしまう……!
イリーナは落ち着きなく視線を散らしてから、カリスに声をかけた。
「あ、お、おはようございます、カリス様。今日がとても楽しみで、こんなに早い時間に着いてしまいました。カリス様もお早くいらっしゃってくださって、とても嬉しいです」
「……別に」
と、カリスは冷たい声で答える。
「早く来ようと思った訳ではない。これはただ……」
少しだけ言葉につまってから、カリスはきっぱりと言い放った。
「少し時間を勘違いしただけだ」
(2時間もですか!?)
イリーナは内心驚いたが、何も言わずにほほ笑んだ。何となく深くつっこんではいけない気配がした。
劇の開始までかなり時間がある。
それまで近くのカフェに入ることにした。席に案内される時に、「対面の席は避けてほしい」とカリスが店員に告げたことで、イリーナは落ちこんだのだが……。
(こ……これは……!?)
案内されたテーブルの配置が問題だった。
確かに対面ではない。
これはいわゆるL字型の席。部屋の角にテーブルが設置されていて、斜めに向かい合うように椅子が置かれている。
ジェーンが前に「デートで距離を縮めたいなら、対面よりL字型か、隣同士に座ると効果的と聞いたことがありますわ!」と熱弁していたことをイリーナは思い出した。
(じぇ、ジェーンの言う通りかもしれません……!)
湯気でも出そうなほどに頭が沸騰していくのがわかる。
テーブルが小さい。そのため、距離が近い。互いの息遣いを身近に感じられる配置だ。
気を抜けば、腕や膝が当たりそうになってしまう。イリーナの全神経が右側に集中していくのがわかる。何もしていなくても、ぽっぽ、と体が熱くなっていく。
少し目線をずらすだけで、カリスの顔を至近距離から拝むことができる。でもイリーナはそうすることができずに、石像のように固まって正面を見続けた。こんな距離で目を合わせたら、恥ずかしすぎて魂が蒸発しそうだ。
きゅ、きゅ……と、かわいらしい鳴き声が聞こえてくる。テーブルの上に腰かけたリュビが口元を抑えて震えていた。笑っているようにも見える。
(私の様子がきっとそれほど滑稽なのでしょうね……)
カーバンクルにまで笑われてしまって、イリーナはますます恥ずかしくなった。
何を話したらいいのかわからず、ひたすらに固まる。
「…………」
「…………」
お互い真正面を見据えたまま、気まずすぎる沈黙が過ぎた。
カリスはもともと無口なので、イリーナが口をつぐんでしまうと、会話がまったく生じない。
と、そこへ店員が紅茶を持ってやって来た。席に案内された時に頼んだものだ。
店員が盆からカップを移そうとした時だった。
「お待たせいたし……あ!?」
「きゃっ……!」
手からソーサーが滑り落ちた。中身が飛び散って、イリーナの方へと向かって来る。イリーナはびっくりとして身を引いた。カリスの肩にもたれるような形となった。
熱々の紅茶からは、湯気が立ち上っている。それが一気にイリーナに降り注がれようとした、次の瞬間。
じゅ、と水が一気に蒸発するような音が聞こえた。
「…………え?」
眼前の光景に目を見開く。
店員の手から滑り落ちたソーサーとカップが宙で停止していた。カップからは紅茶が零れ落ちていたが、それもそのままの形で固まっている。
凍りついているのだ。
時が止まったかのようにイリーナには見えた。店員も目を丸くしてその光景を眺めている。
イリーナはハッとして振り返った。すると、思っていたよりも至近距離でカリスと視線が交わって、ぼっと頬が熱くなる。触れ合っている肩と腕が熱い。弾かれたようにイリーナは離れた。
「あ、ありがとうございます。カリス様。魔術で助けてくださったのですね」
カリスはいつも通りの無表情だ。冷たい眼差しでイリーナを見返す。
そして、小さな声で告げた。
「……すまない。限界だ」
「え?」
イリーナが首を傾げた時には、カリスはもう立ち上がって背を向けている。すたすたと歩き去り、さっさと店を出て行ってしまった。それをリュビが慌てて「きゅいきゅい!」鳴きながら追いかけている。
イリーナは動くことができずに呆然とその姿を見送った。
……寒い。
遅れて冷気が体に染みこんで、ぶるりと体を震わせる。
(か、カリス様……?)
もしかしたら戻って来るかもしれないと淡い期待を抱いて、イリーナは少しの間、そこに座りこんでいた。
しかし、カリスもリュビも帰ってこない。
視線を移すと、先ほどカリスが凍らせたカップが空中でかちこちに固まっている。触れることもできないほどの冷気を放っていた。その様子はカリスを思い起こさせるものだった。
氷のように冷たくて。
近付くものすべてを拒んでいるようで。
そして、泣きたくなるくらいに切なくなる。
(限界とは……もしかして)
イリーナは呆然と考えた。
(それほどまでに私といるのが堪えがたい……ということでしょうか)
テーブルの上で拳をぎゅっと握りしめる。
感覚がわからなくなるほどに指先が冷え切っていた。
(ごめんなさい……カリス様……)
冷たくて、痛い。
胸を刺すような痛みに、途方もない気持ちになって、イリーナはしばらくその場から動くことができなかった。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
シュラール家は混乱状態にあった。
寒い。外よりも家の中にいる方が寒いのだ。
刺すような冷気が屋敷中に充満している。使用人たちは室内でコートを羽織り、マフラーと手袋を身に着け、それでも歯の根が合わないほどに体を震わせていた。
屋敷の中でも一際、凍えきっていた一帯――それはカリスのいる訓練室だった。
昼間、逃げるようにその部屋にこもってしまってから、カリスはずっと出てこない。
時折、部屋からはきゅいきゅいとカーバンクルの叫ぶ声が聞こえてきていた。
使用人たちはいかにして暖をとるかに必死になっていたので、気付かなかった。使い魔に答えるカリスの声がいつもとまったくちがって覇気がなく、今にも泣きそうな色をしていたということに。
「もう……無理だ……絶対に嫌われた……」
悲嘆に暮れる少年の声が響く。
それに対して、カーバンクルはより大きな声で「きゅいきゅい」と鳴く。もし屋敷の人間が使い魔の言葉を聞くことができたならば、その声はこう告げていただろう。「謝らないとダメだよ!」と。
「……許してもらえるだろうか……」
カリスの声は更に絶望に沈んでいく。
一際、冷たい風が屋敷の中を吹きすさび、使用人たちは一斉にくしゃみをした。
しかし、その日から――
イリーナはいつもの通学時間に姿を見せなくなった。