統計の烈士 フローレンス・ナイチンゲール
200年前、1820年5月20日はフローレンス・ナイチンゲールの誕生日である。
一般的には『(近代)看護学の母』と言われている
裕福な家に生まれるが、ある病院を視察したことから、
というあたりまで、昔の偉人伝には載っていた。
しかしすごいのはここからである。
「クリミアの天使」とよばれていたが、本人はこれを嫌っていたという。
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wikipedia
1820年5月12日、裕福なジェントリの家庭である両親の2年間の新婚旅行中にトスカーナ大公国の首都フィレンツェで生まれ、フローレンス(フィレンツェの英語読み)と名づけられる。幼少期は、贅の限りを尽くした教育(フランス語・ギリシャ語・イタリア語(姉妹とも読み書き会話ができた)、ラテン語(聖書や哲学の勉強の基礎となるものとして学ぶ)などの外国語、ギリシア哲学・数学・天文学・経済学・歴史(イギリス、外国)、美術、音楽、絵画、英語(英文法、作文)、地理、心理学、詩や小説などの文学)が施される。しかし、慈善訪問の際に接した貧しい農民の悲惨な生活を目の当たりにするうちに、徐々に人々に奉仕する仕事に就きたいと考えるようになる。
1847年、ブレスブリッジ夫妻という有名な旅行家の友人に連れ添われてローマに旅行に出掛ける。そしてローマの保養所の所長をしていたシドニー・ハーバートと友人を介して知り合った。帰国後、ハーバート夫人である、通称リズことエリザベス・ハーバートとも親しい交際が始まる。
ナイチンゲールは精神を病んだ姉の看護をするという口実で1851年、ドイツの病院付学園施設カイゼルスベルト学園に滞在する。ここでは、看護婦(当時)に対しても教育が行われていた。その後、看護婦を志し、リズ・ハーバートに紹介されたロンドンの病院へ就職する。ただし無給であった。生活費は年間500ポンドかかったが、数少ない理解者の父が出していた。就職に反対する母、姉とは険悪となる。のちに婦人病院長となったナイチンゲールはイギリス各地の病院の状況を調べ、専門的教育を施した看護婦の必要性を訴える。当時、看護婦は、病院で病人の世話をする単なる召使として見られ、専門知識の必要がない職業と考えられていた時代であった。
クリミア戦争へ
1854年頃の写真
ナイチンゲールが考案した「鶏のとさか」と呼ばれる円グラフ[1]。クリミア戦争での負傷兵たちの死亡原因を、予防可能な疾病、負傷、その他に分けて視覚化している。
しかし、1854年にクリミア戦争が勃発すると、転機が訪れた。ロンドンタイムスの特派員ウイリアム・ハワード・ラッセル(英語版)により、クリミア戦争の前線における負傷兵の扱いが後方部隊で如何に悲惨な状況となっているかが伝えられるようになると、一気に世論は沸騰する。ナイチンゲールも自ら看護婦として従軍する決意を固める。
事態を重くみたシドニー・ハーバート戦時大臣は、ナイチンゲールに戦地への従軍を依頼する。10月21日、ナイチンゲールはシスター24名、職業看護婦14名の計38名の女性を率いて後方基地と病院のあるスクタリに向かい、11月に到着した。しかし、兵舎病院は極めて不衛生であり、官僚的な縦割り行政の弊害から必要な物資が供給されていなかった。さらに現地のホール軍医長官らは、縦割り行政を楯に看護婦団の従軍を拒否した。ナイチンゲールらは、病院の便所掃除がどの部署の管轄にもなっていないことに目をつけ、まず便所掃除を始めることによって病院内へ割りこんでいった。しかし味方がいないわけではなかった。ヴィクトリア女王はハーバート戦時大臣に対し、ナイチンゲールからの報告を直接自身に届けるよう命じた。ハーバートはすぐにこれを戦地に送り、病院内に貼り出させた。ナイチンゲールと看護婦団、そして傷病兵らは元気付けられ、対抗勢力には無言の圧力となった。
看護婦として戦傷兵を見舞うナイチンゲール(1855年)
こうした経緯を経て、彼女はスクタリ病院の看護婦の総責任者として活躍した。後に判明することであるが、着任後に死亡率は上昇 (42%) したものの、『衛生委員会』の査察で衛生状態の改善により好転した。当時、その働きぶりから「クリミアの天使」とも呼ばれた。看護婦を「白衣の天使」と呼ぶのは、ナイチンゲールに由来する。夜回りを欠かさなかったことから、「ランプの貴婦人(または光を掲げる貴婦人)」とも呼ばれた。ナイチンゲール自身はそういったイメージで見られることを喜んでいなかったようである。本人の言葉としては、「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」が知られる。
ナイチンゲールの従軍後の1855年、戦時省と陸軍省が合併すると若干事態は好転した。新陸軍省は衛生委員会を組織し、現地へ調査団を派遣した、そして、ナイチンゲールの報告どおり、病院内を衛生的に保つことを命令した。この命令の実施により、2月に約42%まで跳ね上がっていた死亡率は4月に14.5%、5月に5%になったことが後に判明した。兵舎病院での死者は、大多数が傷ではなく、病院内の不衛生(蔓延する感染症)によるものだったと後に推測された。
この間もナイチンゲールは陸軍内の政治的トラブルに巻き込まれる。もっとも大きなものは、ナイチンゲールの辞令の任地に最前線であるクリミア半島が含まれていないことを楯に、ホール軍医長官がその活動を制限したことだった。最終的には、この部分を修正した女王名による新たな辞令が届くが、これは1856年の講和直前のことであった。
1856年3月30日パリで平和条約が締結され、4月29日にクリミア戦争が終結する。7月16日には病院の最後の患者が退院した。