発表
星野家では毎年元旦に家族で初詣に行くそうで、翌二日、俺と水月は二人で川越氷川神社に初詣に行く。
「知ってたケイくん。この神社は『縁結び』と『夫婦円満』の神社で有名なのよ。」
「少なくとも『学業成就』の神社ではないとは思っていたけど。どうしてそれが有名なんだ?」
「二組の夫婦神が鎮座しているのよ。だからじゃない?」
「そう言えば夏に縁結び風鈴やってるよな?」
「そうそれ。もう私たちに必要ないけれど。」
「ハハハ! それなっ」
「…いま、『重っ』って、思ったでしょ?」
「へ… いや。全然。」
「夫婦の話とかして… 『ウザ』って思ったよね?」
「夫婦か… って、どんだけ先の話だよ…」
「少なくとも二十代で子供が欲しいわ。」
なんの照れもなく言い放つ水月に確かにギョッとしてしまう。
「両親が元気なうちに… 孫の顔を見せてあげたいわ。」
「そ、その前にー受験突破! 同じ大学行くんだろっ?」
「え、ええ、そうねー 先ずは大学受験、よね…」
そして四月からの大学生活。俺は一人暮らしを決めている。そのことを話すと、
「…そ、そうなんだ…」
「お、おう。だから… その… もしアレなら…」
「アレなら?」
「だ、だから、お前さえ… アレなら…」
「私さえ、アレって?」
さっき引いたおみくじをギュッと握り締めながら、
「一緒に、暮らすか?」
「それはないわ。」
「…へ…?」
「だって学部が違うじゃない。一緒のクラスはありえないわ。」
……ここで、親父ギャグかよ…
「同棲、する?」
急に立ち止まり木像と化してしまう水月。なんだよ、急に夫婦とか子供とか言い出すから。でも急にそんなこと言われても、な……
「家族に、相談してみる…」
「え… あ、うん。」
「兄に。」
「それはやめてね。」
「そうね。やめておくわ。」
「そうしてね。」
「フフ。同棲生活。フフフ。」
「なんだよ?」
「でもあなた、サッカー部に入るんじゃないの? そうしたら寮に入らなくては?」
「あの大学はグランドが埼玉にあるから自宅生も多いって。地方から来た奴は入寮するらしいけど。」
「そうなの。それならー大学生になったら、私はバイト探さなくちゃ。それからー」
「そーゆーのも、合格発表終わってから。一緒に考えようぜ。」
「ケイくん」
水月を振り返り見る。
「だいすき」
神聖な神社の境内という事を忘れ、強く抱きしめる。すかさず水月のスマホが鳴動する… もういいって、わかってるって、義兄さん…
* * * * * *
元の世界のことを思い出してみる。確かこの月末ぐらいからコロナウイルス騒動で日本中が大騒ぎになり、危うく俺たちの大学受験も延期になりそうだったのだが、何とか受験自体は行われ、四月からズーム主体の大学生活が始まったのだった。
社会活動は乱れに乱れ、トイレットペーパーの買い占め騒動や学校の一斉休校、会社員のテレワーク化などで受験生にとっては勉強にとても集中出来ない状態だった。
この世界でも同じことが起こるのだろうか。それを心配し、年末からお袋を焚きつけマスク、トイレットペーパーなどの紙類は大量に確保してある。
どちらにせよ、俺たちの本番まであと二ヶ月。社会の混乱に巻き込まれることなく、粛々と己の実力を磨き上げることが先決だ。
そう考え、三ヶ日以降、予備校そして病院での勉強会に俺は集中し、水月や洋輔、駿太らも巻き込み試験日を見据え切磋琢磨し合っている。
洋輔の怪我からの回復は今月に入り目を見張るものがあるそうだ。もう普通の生活に関しては他人の助けなく大体出来るようになっている。
そしてやや出遅れていた勉強の方も俺たちにほぼ追いついており、学力的には俺たちと受験しても全く問題のないレベルに来ている。
水月も駿太も、菊池穂乃果もあと小宮卓や間旬たちも順調に仕上がっているようだ。そんな中でただ一人、オカンこと吉村円佳だけが受験勉強ルートから離れて我が道を行こうとしている……
「ウチさ、看護学校行こーかなって。いや、行く!」
確かに生来の面倒見の良さは看護師に向いているのかも知れない。だがその動機がーあの栗栖さん、いや栗栖先生狙い、と言うのがなんだかなーなのだ。なのだが、本人は…
「てか、ウチしかいなくね? あのポンコツを支えられんの。その為には看護師になんなきゃ。え? いやもうウチ決めたし。願書出したし。」
二年前、確か吉村円佳は駿河台辺りの大学に入り、文学に傾倒していた気がする。それがこうなるとは…
最近の吉村は和田婦長を神のように崇め、看護学校受験の事やその後の学業について色々アドバイスを貰っているようだ。
ルートは変わってしまったが、俺が見るに吉村なりに生き甲斐を見つけた、という感じかも知れない。皆も大きく声には出さないが彼女の変針に理解を示し、陰ながら応援している様子だ。
一月の半ば、駿太の共通テストまで後数日、といった頃。栗栖さんが俺たちの勉強会に真顔で顔を出し、
「今中国で流行っているコロナウイルスがヤバいらしい。もうすぐ中国の春節で大勢中国人が日本にやって来る。そして日本でも大流行するかも知れない。」
やはり。
個々人の生き様に変化はあるようだが、社会的な事象はこの世界と元の世界は等しく起こるのだ…
「インフルエンザも流行ってきているし。明日からお前ら、ここに来るな。自宅で勉強しろ。図書館やカフェもやめておけ。いいな!」
皆、喉をゴクリと鳴らす。駿太をチラ見すると、一人何処吹く風、といった様子で栗栖さんの話を聞き流している。
「駿太。栗栖さんの話、ちゃんと聞いてたか?」
「は? 大丈夫だって。俺インフルエンザかかった事ねーし。なんなら風邪ひいた事ねーし、高校入ってから。」
「大丈夫じゃねえんだよ!」
久しぶりに頭に血が上ってしまう。テーブルを叩きつけ、一人食堂に立っている俺。
「…なんなんだよケイ、そー言えば去年から、うがいしろとか手をよく洗えとか。ウゼーんだよ正直。」
「ウザがればいいよ。でも、マジでマスクと手洗いは…」
「何見下してんだよっ!」
駿太がテーブルに拳を叩きつけ立ち上がる
「夏からよお、俺より成績上がってよ、彼女出来てよ、何見下してんだよ。オマエ何様なんだよ。ウゼエよマジ。変わったよオマエ。人の事にこんな口出しする奴じゃなかったわ。正直オマエに言われると腹立つわ。女にモテて、サッカーメチャうまくて、勉強出来て。あー胸糞悪いわ。」
そう言い放って駿太は荷物をまとめ鞄を肩に掛け、
「栗栖先生もこう仰るし。あとは個人で頑張りましょうねー じゃーねー」
パカリパカリと靴音を響かせ、駿太は食堂を出て行ってしまう。
水月が立ち上がり、駿太の後を追う。俺は…ちょっと打ちのめされ… 駿太が俺のことをそんな風に思っていた事にショックで、その場に突っ立って動けずにいる。
洋輔や菊池穂乃果が慰めの言葉をくれるが、全く耳に入ってこない。栗栖さんが俺の横にやってきて、
「よっ。青春、やってんじゃん。」
と言って俺の頭を叩く。
「大丈夫だ。アイツはわかってるから。そのうちシレーっと今まで通りオマエに話しかけて来るから。」
それから俺にだけ聞こえる声で。
「そん時、一発ぶっ飛ばしてやれ!」
と言ってニヤリと笑った。
自慢じゃないが生まれてから一度も人を殴った事が無い。だがそのシーンを想像して、
「わかった。そーする。」
と答えると、栗栖さんは俺の髪の毛をグチャグチャにして、
「さ。そろそろお開きにしろー。そんで明日からは菊池以外は自宅学習。いいなー」
菊池穂乃果がホッと胸を撫で下ろすと、皆からようやく笑いが溢れ出てくる。俺も皆につられて凍り付いた顔を綻ばせてみる。ショックがすこーし軽くなった気がする。
洋輔は病室に戻り、他の皆には先に帰ってもらい、一人食堂で水月を待つ。その間に駿太とのことを何度も思い返す。
俺はあいつを見下してなぞいない。断じて見下したりしていない。ただ二年前のことがあるから、あんな風になって欲しくなくて。あんなことであんないい奴の人生が狂って欲しくなくて。
ただその思いはあいつにはわからない。話せない。他の誰にも話せない。お袋にも、やはり話せない。
これからこういったことはポロポロ出てくるのだろうか。元いた世界の人生を踏み外した人間を俺が今更なんとかしよう、などというのがおこがましいのだろうか。
そいつの為になんとかしてやろうというこの思いが当の本人には正に『重い』のだろうか。なんだかわからなくなってきた。どうしていいか、わからなくなってきた…
時間がどれだけ経ったのだろうか。気付くと水月が俺の前にちょこんと座っていた。
「待っててくれたんだ、ありがとう。」
「駿太のこと… お前に任せっきりにして… ごめん。」
「ううん、全然。駿太くんは大丈夫だよ。うん。」
「そっか。はーーーーーー」
盛大に溜息をつく。
「さ。私たちも帰ろう。家まで送って行ってね?」
「もち!」
重たい腰を上げ、夜の病院を後にする。二年前と同様、この冬は記録的な暖冬でコートの下は薄いセーターで十分寒さを凌げるほどだ。だが、凍てついた心は中々暖かくならない。
「それより。どうする? 明日から」
「予備校も今週一杯か。ウチか、オマエん家で…一緒に?」
「でも栗栖先生は個々人宅でやれって。」
挑戦的な目付きで水月が言うものだから思わず吹き出してしまう。
「じゃ、お互い別々で勉強するか?」
「いや!」
演技じみた拗ね方が凍てついた心を溶かしてくれる。
「試験日まで、一緒じゃなきゃ、いや!」
俺の心を溶かす為にわざと甘えてくれる水月。わかっていても、俺の強張った顔が緩んでいくのが笑える。
「じゃあ、俺もオマエと一緒じゃなきゃ嫌!」
「は? じゃあって何? じゃあって?」
急に真顔で睨みつける水月。俺は水月を抱きしめる。
「ちょ、ちょっと。誤魔化さないで! ず、ずるいよこんなの…」
苦情を無視し、唇を押し当てる。次第に水月の抵抗が弱まる。彼女の両手が俺の腰にからま…
ブルっ ブルっ ブルっ
……アンタ、いつか地獄に落ちるぞ。
* * * * * *
結局、水月があの時駿太に何を言ったのかは聞かなかったし水月も何も言わなかった。その三日後に栗栖さんの予見通り、駿太がシレッと日本史のわからないところを俺にラインで聞いてきた時、枕を死ぬ程殴りつけてやった。
それから通話で二時間ほどグダグダとどーでもいい事を話し、その終わり際に、
「あんさー、こないだはゴメンなー、みんなの前でー」
と駿太が呟く。
「気にしてねえ… のは嘘。ちょっと凹んだ。」
「悪い悪いー マジ謝罪っす。」
「オマエにどんだけ嫌われてもいい。だから、頼むからマスクと…」
「手洗い。な。わかってるって。ミヅキちゃんにあんだけ叱られたしー」
叱ったのかアイツ…
「迫力あるわ、あの子… 涙ボロボロ溢しながら、『どうして駿太くんを思うケイの気持ちがわからないの!』って。ちょっと変わってるけど、あの子、サイコーだなー やっぱケイには勿体ねー、今からでも俺にワンチャン…」
「ねーよ。」
「だよなー」
「…って、駿太が言ってたぞ。狙われてるぞお前。」
「何喜んでいるのよ!」
「自分の彼女がモテるのって、ゾクゾクするわー」
「…あなた、変態?」
「だったらどーする?」
「兄に相談―」
「うっそー。嘘、嘘。な訳ねーだろ。な。」
二人で吹き出す。
二人きりでの勉強も一週間が経つ。世の中は二年前とほぼ同じ流れとなり、水月の父親も俺の親父も在宅テレワークが多くなる。いや、親父は二年前、毎日会社に行っていた気がする…
「ホントは出て来いって言われてんだけどな。でも『受験生抱えてますので』って断ってんだよ。感謝しろよ、感謝。で、今日は美月ちゃんは?」
「おい。オヤジ。俺じゃなく、水月目的じゃねーか!」
「英語くらいなら教えてやるぞ。」
「マジで言ってんなら、受験生舐めすぎ!」
「うるせー あー、美月ちゃんに会いたいよおー」
「… これから来るけど。」
「それ、早く、言え!」
慌てて支度して家を出ていく親父に溜息をつきながら、カレンダーを眺める。共通テストは一昨日終わった。駿太は二年前共通テストは楽々突破し、二次試験の二日前にインフルエンザに罹患したのだ。
あと一月後。それは俺たちの入試日程とも重なる。駿太はあれから自宅で狂ったように勉強しているようだ。毎日頻繁に主に文系科目の問い合わせがあった。共通テストが終わるとその頻度は更に増していき、今では一日の三割くらいあいつと話している気がする。
時には水月も加わり三人でチャット状態で勉強をする。今日も恐らくそうなるだろう。社会の混乱を他所に、俺たちのモチベーションは確実に上がってきている。
水月が家に来てから一時間後、親父が帰宅する。
「美月ちゃーん、いらっしゃーい!」
「お邪魔してます。お父様。」
「んっぐ… ほら、あれ買ってきたよっ 駅近の、プチロワイヤルのラムレーズンサンドっ!」
「わざわざ買いに行ってくださったの? 後で一緒に食べましょうね。」
「グオーーっ じゃ、じゃあごゆっくるーーー」
…最後噛んでるし。軽くあしらわれているし。俺も将来、息子の彼女に……
「いい人ね。お父様、大好き!」
急に悪寒が走る。
「もし、俺の父親じゃなければ?」
「兄に即通報するわ。」
聞きたかった答えを得て、俺は勉強に集中する。
「ケイがさ、うるさかったんだよ。マスク買っとけだの、トイレットペーパー買い置きしようとか。こいつより煩くってー」
母を顎で指しながらラムレーズンサンドを頬張る親父。
「こいつ美月ちゃんにも煩くしてない? 気に入らなかったらハッキリ言うんだよ! なんか夏休みくらいから一丁前な口きくようになりやがってさー」
一人絶口調の親父をほぼ無視してラムレーズンを頬張っている水月を眺めるお袋。その目は何かを探るようなやや鋭い眼差しである。お袋と水月の相性はその性格の違いから合わせる前は少し心配していたが、今まではそこそこ上手くやっているように感じるのだが。そう言えばお袋にも水月にも、上手くやっていけるか聞いたことは無い。
「美月ちゃんは四月からはご実家から通うのよ、ね?」
お袋が急に変な事を言い出すので俺は硬直する。
「はい、えっと。ケイくん次第かとー」
俺は口に含んだコーヒーを吹き出す
「? ケイ次第とは…? この子は四月から一人暮らしの予定なのよ?」
「ええ。ですから、どんな間取りのお部屋でセキュリティーがどうなっているのか、近隣の環境はどうか、などを鑑みて……」
「ちょ、ちょっと母さん。そーゆーのは試験終わってから! 水月も! まずは合格、だろ?」
「そうね。まずは合格。浪人は許さないわよっ あなたも頑張ってね。」
「はい…?」
……まずい。同棲の話は親には全く話してなかったー
お袋の水月を見る視線がキツくなったような……
「そうなの? お母様は同棲に反対なの?」
「いや… まだちゃんと聞いたわけでは無いが…」
「話してないの? まだ?」
「…てか… そっちはどうなんだ? 許してくれるのか? 特に、お兄さんは…」
あーーー と水月は頭を抱えてしまう。彼女もすっかり失念していたようだー
「…ま、まずは合格、ね… それから二人で考えましょう。いざとなれば駆け落ちも好くって?」
「いや… 国家権力を敵にまわしたくねえ… 何とか全力で考えよう…」
「そ、そうね。今はこの事は忘れましょう… さ、続きをやるわよ!」
「お、おう」
こうして四月からの同棲の件は棚上げというか保留というか、先延ばしになる。実際俺は元の世界で里奈と半同棲生活を送っていたのだが、水月との同棲生活について深く考えたことは無い。
里奈との生活は思い出しても… なんと言うか自堕落と言うか、不謹慎と言うか、言ってしまえば「ヤる。寝る。起きてまたヤる」の繰り返しだった気がする。
水月との生活はどうなるのだろう。想像して顔のみならず全身が真っ赤になってしまう。里奈としていた事をこの水月と……
「何? どうしたの、顔赤いよ… まさかあなた、コロナウイルスに…」
流石に本当のことは言えない俺は頭を冷やす為に、ちょっとトイレ、と言って前傾姿勢のまま部屋を出た。
* * * * * *
共通テストの結果が発表され、駿太は志望校に十分手の届く点数であった。そして本試験は俺の第一志望の入試の翌日である。その後、洋輔の志望学部、水月の志望学部の入試が続く。
洋輔は車椅子での受験となる。なんとその付き添いに栗栖さん、いや栗栖先生自らが買って出てくれたそうだ。栗栖さんから来院禁止令を出され、洋輔たちとは二週間ほど会っていないのだが、体調を含め準備は万端なようだ。
そしてー肝心な駿太も今の所は咳一つ無い、と自画自賛している。きちんと手洗いも実施しマスクも欠かさず付けていると言う。
そして。
万全の準備の元、俺の第一志望学部の試験日となる。
俺は二年前にこの試験を受けている。可能性として、全く同じ問題が出てもおかしくない。正直言うと、それでは元塾講として『つまらない』。
歴史の歯車はどう転ぶのか? 最初の科目である英語の試験用紙が配られ、試験開始の合図とともにそれを一瞥する。
面白い。問題はほぼ、いや全く同じなのだが、答えの選択肢が全く変わっている! 選択問題は十分気を付けねば。記述問題も答えるべき内容がだいぶ変わっている。これは最後まで気が抜けまい。それでも頬の笑みが試験終了まで消えることはなかった。
国語。これも英語と同様、主題された文は同じだったのだが、問題がだいぶ変わっていた。古文に至っては作者―小野小町は同じだが全く別の文章であった。
水月に教わった古文は二年前よりも遥かに出来が良かった。
日本史― 奇跡が起きる。
問十三 下線部の時代に作成された仏像の中で現在も残されているものを一つ記述せよ
こんな問題は二年前には無かった。あったとしても違う答えを書いていただろう。試験会場でなければ大爆笑をしているところだ。
恐らくここにいる受験生の中で唯一無二の答えを力強く書き込む。
東慶寺所在 水月観音坐像
時間が二十分以上余ったので、問十三の回答の余白に水月観音の絵を描いてやった。まさか減点されることはあるまい……
こうして俺の第一志望の試験は呆気なく終わる。手応えー日本史はまず満点。英語は二問微妙。国語は漢字が不確かなのが一問と古文の訳し損ねが一問か。
各答案用紙の受験番号と氏名も間違いなくチェックしたので、結果はまず間違いなく合格だろう。
それでも帰りの電車の中では疲れからか爆睡してしまい、終点で駅員に肩を叩かれるまで目が覚めなかった。
「それとー スマートフォンはマナーモードにしておいてくださいよ。ずっと鳴ってたから。」
ハッとしてスマホを見ると… 栗栖さんから何度も着信していた。
* * * * * *
「結論から言う。駿河はP C R検査の結果、陽性と診断された。」
「なん…ですって…」
「駿河の母親の通うスポーツクラブで感染者が出たんだ。自覚症状はないものの、母親が心配して保健所へ連絡し、一昨日検査したそうだ。その結果……おい、早乙女、聞いて…」
全身の力が抜け、俺はスマートフォンを落としていた。立っていることが出来ず、駅前の広場にしゃがみ込んでしまった。
呆然として目の前の光景を眺める。普段よりも少ない人。今の今まで気づかなかったが、抜けるような青空。二月下旬にしてはあり得ないこの陽気。全てが、幻に思えてしまう。
スマホからの叫び声に気付き、震える手でそれを持ち上げる。落とした衝撃で画面にヒビが走っている。
「早乙女! 聞いているか! おい、ケイ!」
「……ハイ。聞こえて…ます…」
「落ち着け。大丈夫か?」
「…なんだよ。これ。どーしてこーなるんだよ。インフルじゃねえのかよ…」
「は? 何言ってんだお前?」
「なんだよコロナって… どう足掻いてもダメだったのかよ… じゃあ俺は一体どーすれば良かったんだよ! なあ栗栖さん。オレ、どうすれば良かったんだよ!」
「だから、落ち着けケイ。まず深呼吸しろ、え? いいから早くしろ!」
耳からスマホを離し、オレは言われるがままに深呼吸をする。マスク越しの川越の空気が肺いっぱいに入ってくる。すこし唾液の匂いがする。
やはり。
洋輔の事故にしても、駿太の罹患にしても… 今日のオレの試験問題の如く、大筋は決して変えることが出来ないのだ。形は少し変わるのだが、元の世界の歴史と今進行している歴史のメインイベントは人智によって変えることは不可能のだ。
駿太。この数ヶ月、色々ぶつかったりしたが、オレはアイツの何も変えることが出来なかった。アイツの浪人人生からの転落を未然に防ぐことが出来なかった…
「落ち着いたか? バカだなお前。当の本人の方がよっぽど落ち着いてるぞ。電話代わるか?」
「え? 今、話せるの?」
「ちょっと待ってろ。オレも防護服着てっからコレがちょっと面倒くせーんだわっ おい、駿河、ケイに代わるぞー」
ゴクリと唾を飲み込む。一体駿太に何と声をかければ…
「おーい。ケーイ。やっほうー」
この場に及んでムードメーカー振りを発揮しないで欲しい。こちらはどう応じれば良いのか…
「試験どーだったー? 楽勝かー?」
「駿太、お、オマエ……」
「ったくこっちは散々だわー。あのババア、やっても仕方ねえだろって散々言ってたのによー。色気付いてこの一年、ジム通いなんてすっから。ま、天罰だ天罰。」
「……」
「こっちは鼻汁一滴出さずに頑張ってきたのによ。あーやってらんねー。あ、でももうちょっと古文とか漢文やっときたかったから、オレはちょっとラッキーかもー」
「はあ?」
「あとこの期間に現代史も一回流せるしな。あ、それ手伝ってくれよー」
「この期間って… は?」
「あ! あれだ、オレってコロナ陽性患者じゃん?」
「あ、ああ… そう、だな…」
「ってことはさー」
「あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」
オレは大声で叫んでいた! 歴史は変わった! 間違いなく、改善された!
インフルエンザでは明日の受験資格を失うのだ。大怪我でも、他の病気でも。然しながらーコロナウイルスに罹患した受験生はーーー
「そゆこと。あと三週間、ラインビデオ通話での日本史の授業、ヨロピクーー」
* * * * * *
オレが何をした訳でもない。しかし歴史は平行線ながらその様相が少しずつ変化するのだ。今回の駿太のことでオレはハッキリと自覚した。
従って元の世界のままに行動していてはこの世界では通用しない。この世界に応じた立ち振る舞いが要求される。
オレは変わった、と周りから言われて久しい。母親は唯一人この事実に気付いている。二年前のオレ、即ち二十歳の頭脳と魂のオレが十八の今のオレであり続けるには、この様にオレ自身が変化しなければならない。
二年前のオレ。自分の事しか考えれなかった。自分の試験に集中するあまり、水月の気持ちを受け入れることが出来なかった。
二年前のオレ。洋輔の事故後の本当の苦しみに目を瞑り、口先だけで励まし同情していた。
二年前のオレ。インフルエンザで試験を受けられなく浪人を余儀なくされた駿太を口先だけで励まし同情していた。
二年前のオレ。上司の失態をひっかぶり左遷される親父にただ呆れるだけだった。
二年前のオレ。好きでもない、惚れてもいない里奈を弄び、妊娠させその後の人生を悲観していた。
今のオレ。里奈とは適切な距離を取り付き合って行こうと思う。
今のオレ。仕事を干され気味の親父に四月からオレのサッカーを見せたいと思う。
今のオレ。コロナウイルス罹患で延期された受験日まで、ガッチリ日本史を駿太に叩き込んでやると誓う。
今のオレ。明日の洋輔の受験に、栗栖さんと共に付き添う事にした。
今のオレ… 明後日の水月の試験後、家まで送って行き星野家で試験お疲れ様会に出席する。
* * * * * *
「全くあいつときたら… 今夜だけは何があっても帰ってくるって言ってたくせに…」
「仕方ないわ。管内であんな事件が起こったのだから。全く、駿河くんがこんなに辛い思いしているというのに… その犯人には少し永眠が必要ね…」
恐ろしい事を言ってのける水月だが俺も同感だ。今日の昼、コロナウイルスに罹患しているのに街を歩き回る男が水月の兄の管内で逮捕されたのだ。
街のスーパーマーケット内で「俺はコロナだー」と叫びながら生鮮食品に唾を吐きかけたと言う。うん、死刑で良い。
ただそのお陰で、今夜もあの兄と会わなくて済む。これはちょっと嬉しい。三ミリほど犯人に同情してやろう。
「いや、それにしても二人とも本当によく頑張ったわね。お母さん感心しちゃったよ。美月がこんなに真剣に勉強しているから。」
? 俺は首を傾げ、
「いや、受験ですしー誰も真剣になるのではー」
「この子は違うの。いつもどこか斜に構えて物事に真剣に向き合ってこなかったの、今まで。ピアノにしても、バスケットにしても。そんなに努力しないでもちょっと人より上手く出来ちゃうから。」
「まあ、美月は一種の天才だからね。流石僕の娘… いや、キミの娘。」
ナイスフォローです。星野さん。
「高校受験の時なんか、受験日の前の日にここで映画観てたわよね。そんな美月が…この半年、本当に良く向き合って… 良く… うん… 頑張った!」
あららら… 大粒の綺麗な涙。美魔女には綺麗な涙が良く似合う。
「で、早乙女くんは四月から大学には自宅から通うのかい?」
「いえ。学校の近くに部屋を借りようと思ってい……」
星野さんが鋭い眼差しとなり、
「そうなんだ。実は最近、美月が大学生になったら家を出たいなんて言い出してさ。」
水月を見るとソッポを向いている… おい。割と今、修羅場なんだぞ…
「僕はね、いいんだよ。僕はね。ただねえ、この子の兄がだねえ…」
持っていた箸を落としてしまう。
「学生の間に家を出るなぞもっての他。学生は学生らしく自宅から粛々と学校に通うべし、なんて言っているんだよ。早乙女君はどう思う?」
「いいじゃない。いいじゃない、私は賛成よー。美月ちゃんのご飯食べれなくなるのが残念なんだけどー」
状況を冷静に分析してみる。水月の一人乃至二人生活に同意しているのは母親。反対しているのが父親。断固反対しているのが兄。
となるとー断固反対は棄てよう。捨て問題だ。多数決で二対一に持ち込もう。父親を、星野さんをなんとか仕方なく賛成、に持ち込んでしまえば別に法や条例に反する行為ではない故、兄も渋々認めざるを得まい。
この父親―星野さんは常識的な人だ。一部上場企業の役員を務める見識のしっかりした人だ、俺の親父とは違って。故に嘘や誤魔化しはきかない。ハッタリなんて一笑に付されるだろう。
となると、これは正攻法で行くしかない。野球で言えばど真ん中に直球勝負だ。サッカーで言えば……何だろう?
「星野さん。実は僕、美月さんと将来のことを真剣に考えています。」
我ながら結構凄いことをサラリと言ってのける。案の定星野さんは口をポカリと開け、奥さんは目を皿のようにまん丸に開き口を手で覆う。
当の水月はー 意外にも冷静に俺の話を聞いている。
「あくまでも試験に合格し、四月に晴れて二人入学したらの話なんですが。僕は水月さんと同居したいと考えています。僕はこの半年彼女と共に過ごし、大きく成長出来ました。そして今回の試験も必ず合格する自信があります。それは全て美月さんと共に頑張れたからです。もし学生生活を彼女と共に過ごせたらー必ず最高の学生生活を送れる自信があります。同時に、彼女にとっても最高の学生生活を送ってもらう自信があります。まだ早いのではーそう思われるかも知れませんが、僕はこう思いますーもっと早く彼女と出会いたかったーそうすればもっと凄い高校生活を送れただろう、と。それ程僕にとって彼女は、そして彼女にとって僕は互いの成長に不可欠な存在なのです。如何でしょう、娘さんの成長の過程を見守っていただけないでしょうか?」
途中から目を瞑りながらも、俺の話を一言も逃さず星野さんは聞いてくれた。
奥さんは先程以上の大粒の涙をボロボロ溢している。
水月はー
ああまただ。なんて優しげで穏やかな表情― あの日二人で呆然と眺めたあの像の如くー
星野さんも水月の表情に気付きずっと見つめている。その神々しい程の微笑みを。その思わず縋りたくなるほどの優しさを。
そこには凡俗な意見を拒絶する神聖なオーラが揺れめいている。
どれほど時間が経っただろう。星野さんが、
「美月がそうしたいなら。僕は応援するよ。」
寂しげな笑顔でそう呟いてくれる。
水月の瞳から一筋の涙が流れ出る。
* * * * * *
試験結果の当日。俺は一人発表会場に赴き、合格を確認する。
二年前は喜びを抑えきれずその場で歓喜の声をあげた気がする。その帰り道、今もしている手袋をふと見つめ、唐突に星野美月への想いに気付いたのだ。
スマホで水月を呼び出す。一回の呼び出し音で彼女の声が聞こえる。
「合格。以上。」
「何それ。おめでと。すごく嬉しい。」
「お前の合格発表、やっぱ俺も行きたい。」
「一緒に、行ってくれるの?」
「うん。行きたい。」
「ん。ありがと。明後日だよ。」
「はは、明日は洋輔の発表。今日から三日連チャンでここかー。ホテルでもとろっかなー」
「そうすれば? ついでに不動産屋巡りでもしたら?」
「バーカ。それは一緒に… したいし…」
「…う、うん…」
翌日。洋輔の発表を栗栖さんが車を出してくれる。自分で買えばいいのに、またも友人から借りたらしい。
「いらねーよ。維持費とか勿体ねーし。ぜってー買わねえ」
その言葉は近い将来、ある人物により覆される気がする… 頑張れ、オカン…
車椅子での車の乗り降りは意外にも重労働だ。本人は義肢に慣れたら免許を取り車を乗り回す気満々である。入学式は義肢で出たいと言っていたが、コロナウイルスの影響で入学式は取りやめになったそうだ。それに加え…
「ハハハ… コロナが無くても、入学式は、無理だったみたいだわ。」
洋輔の受験番号は、残念ながら掲示されていなかった。
帰りの車の中で俺たちのグループラインに洋輔は努めて明るくその結果をアップし、周りの皆もそれに合わせ明るく労いの言葉を送っている。あれだけの惨事からここまで立ち直ったのだ。誰も悲観していない。むしろここまで頑張った洋輔に尊敬の念を投じている。
また来年ならばすっかり義肢に慣れている頃だろう。外見からは健常者と変わらずに受験に赴けるだろうー
俺はそう思っていた、その時は…
然しながら歴史の歯車は俺の予想を簡単に覆すー
翌朝。水月と待ち合わせをし、川越駅から電車に乗る。やや緊張気味の水月は普段にも増して無口だ。俺もあまり無理に話しかけず、ただしっかりとその右手を握りしめていた、その時。俺と水月のスマホが鳴動するー
『先程―なんか、補欠合格の書類が送られてきてしまいましてー』
おっしゃあーーーーーーー
やったあーーーーーーーー
二人して、コロナウイルスの影響でガラガラの車内で思いっきり叫んでいた。
「正直に言うわ、水月。俺、お前の結果に関してあんま心配してないから。」
「あなたはそうでも… やはり張本人は緊張するわ。だって…ただこの大学に行けるか否か、だけじゃ無いから…」
「え…」
「あなたと… その… 一緒に… 暮らせるか、どうか、の瀬戸際だから…」
なんて事言うんだこいつは…それじゃ、もし、万が一ダメだったら、俺たち… そんな事言うから、俺まで一気に緊張してきてしまう。
いやまさか…歴史の流れから言って、その可能性は否めなくなってきた。四月からの生活が水月とでは無く、他の誰か、例えば里奈と共に、と言うオリジナルに沿った展開も有り得なくはない!
うわ… マジで緊張してきた… 自分の発表なんか目じゃない。これほど緊張するのは何年振りだろう… もし番号が無かったらー本当俺たちどうなってしまうのか…
思考がグルグル回転し同じことばかり考えてしまう。結果発表の会場までが地獄の道のりに思えてくる。
繋ぐ手が汗ばんでしまう、間違いなく俺の手汗だ。掲示板が見えてくる。項垂れてすれ違う男子や女子がやけに多く感じてしまう。大丈夫だ、信じろ。水月は大丈夫。間違いなく合格している。絶対に受かっている。絶対に!
「ケイくん。お願いがあるのだけれど」
そう言って水月は俺に受験票を差し出す。
俺は腹を決め、軽く頷く。水月が俺の胸に軽く寄りかかる。頭を俺の胸につけ、下を向きながら…
俺は意を決し、まず受験票の番号を確認する。1345。覚え易い。1345。よし。掲示板を見る。大分後ろの方だ。1345、1345… ん? 1345年は丁度水月観音坐像が作製された頃じゃないか、南北朝時代…
その瞬間に、目に入ってくる
1345
水月の頭におでこを当てて、
「四月から一緒だぞ。よろしくな」
と言うと、水月がハッと顔を上げる。そして俺が指差す辺りを眺め、ハーと溜息を漏らす。そして、
「ねえ。あれから兄が凄く煩いの。説得する自信は?」
「ねえ。だから、二人で駆け落ちだな。」
「そうね。その前に家族に連絡するわ。」
水月が素早くスマホをフリックする。横からそっと伺うと、こいつ…
『四月から早乙女君と暮らすことになりました』
そんな刺激的な物言いをするから… 知らねーっと。帰りの電車ではスマホの電源切らせねば……
* * * * * *
駿太の再設定された受験日はあっという間にやってくる。その間俺たちは文明の利器―スマホを駆使し、駿太が懸念していた分野の補強に全力を尽くしてきた。結果、駿太曰くー
「戦う準備は整った。」
スマホの画面には全く健康体そのものの駿太が太々しく笑っている。陽性反応であったが、発症することはなく全くの健康体だったのだ。
特別試験当日。俺たちは(暇なので)駿太の試験会場の外で試験終了を待っている。
「ねえ。この後みんなで又ドームシティ行かない?」
急に水月が言い出す。確かにここからだと歩いて十五分と言ったところか。
「えマジ? やってっかなあ?」
「ちょっと待って、調べる… あ残念。アトラクションは臨時休業…」
「あれ。屋内はやってんじゃね?」
「あ、本当だ! アハ、またみづきちゃんのアレが観れる!」
「洋輔くん。何か問題あるかな? 今度はちゃんとやれるわ。うん。もし出禁になっていなければ……」
一同大爆笑だ。余りにウケすぎて、義肢をつけ始めて一週間の陽輔はバランスを崩し、それをすかさず菊池穂乃果が支える。その姿を皆で冷やかし二人は真っ赤になる。
試験終了の時刻が過ぎても駿太は出てこない。三十分過ぎたが、まだ。
「遅いね…」
「何してんだろ。スマホ繋がるかな?」
「ダメ。まだ電源入ってないー」
それから三十分後。ようやく駿太が出てくる。あれ、誰かと一緒に?
「誰…だろ…」
「駿太と同じ、コロナ陽性だったんじゃね?」
その子―小柄な女子―は駿太と何事か話しながらこちらに向かってくる。
「へえー中々可愛い子じゃんー」
「やるじゃん駿太!」
長い黒髪、丸顔、パッチリした目… 確かに駿太のストライクど真ん中かも…
「お待たせ! ワリーワリー、ちょっと、この子と試験問題について色々―」
「……」
どうやら人見知りな子らしい。
「駿太―、この後さ、打上げっぽくさ、みんなでドームシティ行こうかって言ってんだけどー」
「マジマジ? 超行くっしょー、っシャー! 受験終わりっ ウエーーイ!」
一人大はしゃぎの駿太の横でぽかんとしている彼女にオカン吉村円佳が、
「あのさ、よかったらウチらと一緒に行かない? あ、ウチらこいつの同級生なんだけどー」
「……しょ……なん……で…」
「「「は?」」」
「あ、あ、あ……あた……しょ…」
「「「……」」」
『外国人、なのかな?』
『いや。極度のコミュ障じゃね?』
『それとも霊感少女?』
『そんな…偏見で人を見てはいけないわ…』
『駿太とさっきフツーに話してたよね…』
『どうする? 嫌がってる感じでもないし…』
「「「「「おい、駿太」」」」」
「へ? フツーに話してたけどー 聞いてみるわー」
駿太が彼女の元へ行き話しかけると確かにフツーに会話している。
「お邪魔じゃなければ是非ってさ。行こーぜ!」
「「「「「お、おう」」」」」
コミュ力偏差値の高い吉村円佳、菊池穂乃果が話しかけるも、やはりコミュニケーションは取れず。洋輔が話しかけると真っ赤になって地蔵化してしまった。
「任せておいて。私も経験あるからーこういう事―」
決然と水月が彼女に近付き話し始める。だが元々限りなくコミュ障に近い水月と意思疎通が叶うわけもなく、項垂れて水月は俺の横に戻って来る。
然しながら、俺たちはこの半年間、様々な経験を共有してきた。彼女程度のコミュ障なら全く問題なく対応出来る。俺たちならば。
義肢にまだ慣れない洋輔を見る。先日看護学校に無事合格した吉村円佳を見る。先程特別試験を終えた駿太を見る。そして横を歩く水月を見る。
自然と笑みが溢れ、俺は彼女と話すべく歩速を緩める。
件のバッティングセンターは幸か不幸かスタッフが替わっていた様で、俺たちはすんなりと打席を確保できた。周りには人数もほとんどなく、俺たちのはしゃぎっぷりが場内に木霊している。
彼女は道浦華。都内在住で、女子校で最も偏差値の高い高校。同居する祖父母があの豪華客船に乗っていた為今日を迎えたそうだ。
「へーー。流石ケイ! よく聞き出したじゃん!」
「なぜ笑う…」
「そっかー、ハナちゃんね。ハナちゃーん、これやったことあるー? えー、じゃあやってみー 超スッキリするしー」
オカンが強引に光浦さんにバットを握らせ打席に送り出す。洋輔が下を向いて笑いを堪えているー
「オマエ、なんか期待してんだろ…」
「うん、ちょっと。ま、みづきちゃんを超えることはないだろうけー あ、危ない!」
バットにボールが当たる音の直後に鈍い打撃音が聞こえ、慌てて振り返る。
「ちょ、ちょっとアンタ! だ、大丈夫!?」
皆が呆然と打席の道浦さんを眺めている。たまたま振ったバットにボールが当たり、そのボールが道浦さんの顔面にヒットしたらしい。
だが… 痛がるそぶりは全く見せず、再び打席に入り奇妙なポーズで次の投球に構えた。鼻からポタポタと鼻血を垂らしながらー
洋輔はまたまたバランスを崩しながらしゃがみ込む。菊池穂乃果がすかさず支える。
「超えたわ… みづきちゃん超えだよ… は、腹痛えーー」
以後、道浦華こと『ハナチ』又は『ハナちやん』が四月からの俺たちの集まりに欠かせないメンバーとなる事は二年先を知る流石の俺でも知りようがなかった…
* * * * * *
その五日後。駿太の合格をグループラインで知る。いつの間にかハナちやんも加わっており、彼女も無事合格したとのこと。
「これでみなの進路は決まったわね。小宮くんと間くんは残念だったわ…」
小宮卓と間旬は残念ながら浪人が決まった。元の世界でも確かそうだった気がする… 菊池穂乃果は御茶ノ水にある大学の法学部に合格している、彼女は元の世界では確か広尾の大学だったはずだ。
この様に元の世界のままの者もいれば進路が変わった者もいる。これから先のことは正直俺には想像が出来ない。
それに俺自身が、四月から体育会サッカー部の入部を決めている。元の塾講ルートとは決別となる。
そして何より最大の違い… 四月からの水月との生活。今俺たちはそれぞれの親の合意は何とか得たものの、肝心の物件探しに奔走中だ。今も元の世界で世話になった不動産屋を水月と訪ねる途中である。
だが… 俺たちにとっての最難関は…
プルっ プルっ プルっ
これなのだ…
「『俺はまだ認めていない』ですって… 我が兄ながら、往生際の悪い…」
水月が大きな溜息をつく。だがその目はどことなく嬉しそうだ。
公園の桜の木は既に満開だ。今年は例年になく開花が早かった。二年前と同じ様に。この花が散り、若葉が目に眩しい頃、俺たちの新しい生活は始まる。
何軒か物件を見せてもらいー二年前とは別の物件だったー、中々気に入る物件は無く、また明日別の物件をいくつか見せてもらうことにする。
ガラガラの帰りの電車の中で少し疲れたのだろう、水月は俺の肩に寄り掛かり寝息と立てている。唐突に二人で行った鎌倉を思い出す。俺たちのその後の運命を決定的に変えたあの小旅行。俺自身をすっかり変えた、あの……
隣で寝ている水月が起きたら言ってみよう、来週にでも、あの仏像を一緒に観に行こうと。