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Beautiful Water Moon  作者: 悠鬼由宇
5/8

恋慕

診察室に入ると、椅子にキョトンと腰掛けた里奈がいる。一昨年初めて見たときよりもだいぶ幼い感じだ。亜麻色の髪の毛に白く小さい顔。目はぱっちりしており、今日は目の縁取りもなく自然な感じがとても良い。

山寺先生がさっき褒めちぎっていたが、確かにこうして見てみるとまるで何とか坂のアイドルのようだ。

先生曰く、レントゲンやCT、脳波の検査の結果、骨折や内出血は全く見られず、若干ムチ打ちの症状があるだけで脳に異常は無い、との事だった。


「えーと、近藤さん、だよね?」

里奈は恐る恐る先生を見て

「は、はい…」

「お家の人に連絡とったら、コイツの付き添いで帰宅して欲しいって。それでいいかな?」

里奈が俺を見る。目と目が合う。ほんの数ヶ月前の里奈とは全く違う、ちょっと可愛い普通の女子高生だ。確か元の世界では都内の違う女子校に通っていたはずである。それがこの世界では江戸学の生徒とは……

もう元の世界とは完全に別ルートとなっている様だ。俺と水月がまさか好き合うこととなった様に、里奈とは全く違う関わりを今後この世界では持っていくのだろうか?


病院から駅までタクシーで向かい、そこから俺と里奈は先生と別れて都心へ向かう電車に乗る。前の世界では里奈は板橋区の大山に住んでいたのだが、

「り… 近藤さん、自宅はどこなの?」

「東上線の大山です。」

そこは変わらず、だ。

「ならここから一本だね。送っていくよ。」

「あ、ありがとうございます…」


なんか変だ。全然違う! 見かけは里奈なのだが、中身が全く違う!


電車は帰宅ラッシュと逆方向なのでゆったりと座りながら里奈と俺は色々な話をする。特にサッカーの話を…

「ウチ、ホントにサッカー大好きなんですよっ マネージャーやりたかったんですが、ウチのサッカー部は女子マネ募集してなかったんですー だから試合がある時は練習試合でもなるべく観に行ってるんですよ!」

口調が全然違う… 数ヶ月前までの里奈は例のアホっぽいギャル語で頭悪そうな言葉を連呼していたのに…

「それより…… ホント頭、大丈夫?」

里奈が大きく目を開き俺を呆然と見る。

「早乙女さん… そ、それはいくらなんでも酷い…」

「…は? え? ああ、違う違う! 俺のクリアボールが当たった頭の事!」

「それはもう全然平気ですよ。でも衝撃でもっとバカになっちゃったかもです。」

何だこれ… あの里奈がこんな軽快な返しをしてくるなんて…

「そんな事ないって… って、俺の名前、覚えてくれてたの?」

「それはもう。開始数秒で『この人ヤバい』ってわかりましたもん。足元のスキルはウチレベル、サッカーIQメチャ高! 今日はウチ一年のチームだから苦戦するだろーなって。案の定、引き分けですからー ジョーさん激おこぷんぷん丸だったのでは?」

ダメだ…正直、頭がついていかない。里奈とまさかこんなにちゃんとした会話が成立するなんて… しかもまさかのサッカーの話題で…


「……って、聞いてます? 早乙女さーん!」

「ご、ごめんごめん… えっと何の話だっけ…」

里奈に会話の主導権を奪われるなんて思いもよらなかった…

「ですから。早乙女さんはどうしてユースとか埼玉学院とか行かなかったんですかあ? なんかすごく勿体無い! って話の途中ですよおー」

拗ねた顔を軽く傾げる。こんな仕草、見たことねえー! メッチャ可愛い… あれ… なんか… どうして? あんなに鬱陶しかった女だったのに… それにどう見ても、処女っぽいし…

「でーもー、川越中央ってメチャクチャ偏差値高いんですよねー、文武両道っ 凄い! 早乙女さんはもう指定校推薦とか取っちゃってるんですよね?」

あの里奈は指定校推薦なんて単語、知っているはずない… 誰なんだ、君は?

「いやいやいや。フツーに来年、受験するよ。」

「え… ソレなのに今日ガチでサッカーして。ウケるー」

「ウケないし。それにホント今日だけだし。明日からまたフツーの受験生だよ。」

「国公立とか狙ってるんですか? 赤門とか!」

やはり絶対この子は里奈じゃない! 彼女と受験の話なんて全くしたことなぞ無いっ やたらカラダの相性だけが良かった、あの里奈とは断じて別人だ!

「いや、私立文系だよ。」

「それって、ワセダとかケーオーとかですよね?」

「んん、まあ。」

「すっごーい。サッカーアレだけ上手くてしかも頭も良いっ! ウチの学校にはいませんよー」

「いやいや。里奈ちゃんだってホントは勉強得意なんでしょ?」

「…り、りなって… か、かなり速攻ですね… あの落ち着いたプレーからは想像もつかないゴリゴリの点取屋さんなんですね… あ、私そーゆーのはちょっと…」

いやいやいやいやいや、ちょっとまてちょっとまてちょっとまて!!!


「あ、あの俺彼女いるしー そーゆーのじゃないから絶対! ゴメン、ホントごめんなさい! いきなり下の名前呼ばないよね、ドン引くよね、すんませんでした!」

俺の人生で初めて里奈に全力で謝罪する。その逆は死ぬ程あったのだが。里奈の方をキチンと向き、深々と頭を下げる。正面に座っているカップルが何事かと知りたげにこちらをチラ見している。

「うわ… 秒殺、ですか…」

「は?」

「彼女さん、いるんですね… うわ… 秒殺どころか、瞬殺ですね… アハ…」

「はあ?」

「あ、気にしないでー アハ。早乙女さんみたいな人がウチみたいの相手するはずないですもんねー。えー、彼女さんってオナ高ですかー?」

「そう。同じクラス。予備校も一緒。」

「そーなんですかー。今日も試合観てました?」

「ウチのゴール裏でね。」

「そっかー。今度紹介してくださいねー」

「お、おう。……は? なんで?」

「えーー、だって友達じゃないんですか、ウチら?」

「と…も…だ…ち…?」

「うん。どーせ彼女さんとは勉強とか志望校とかの話ばっかりなんでしょ?」

「ま、まあな」

「彼女さんとの難しいお話に疲れたり、飽きたりしたらー ウチとサッカーとかゆる〜いお話しましょうよっ ね?」

何だろう… ここは絶対断るべきなのだろうが…… だがそんな気は全く起きない。寧ろ軽く胸がときめく、もある。


     *     *     *     *     *     *


そうこうしているうちに、大山駅に到着する。もうすっかりと真っ暗だ。時計を見ると七時半だ。俺たちは駅を出て最近有名な商店街を抜けながら里奈の家に向かう。一応頭部を打ったのでゆっくりと歩く。

里奈とこうして二人で歩くのは半年ぶり、になるのか。もちろんこの世界では初めて… かつての里奈には持ち得なかった胸のときめきを抑えながら、時々里奈を見下ろしながら歩を進めていく。

商店街を抜けてしばらくいくと昔ながらの古いアパートに辿り着く。

「ははは… 友達連れてくるなんて、中学生の頃以来だよ… ウチの学校、結構金持ち多くてさ、ウチみたいな母子家庭って少ないんだよねー」

「お母さん家にいるよね?」

「いや、もー仕事行っちゃったよ。ウチも高校出たらすぐに働かなきゃー。高校まで出させてくれたんだし。あとは自分で何とかやってかないとね」

部屋の前に立ち尽くしてしまう。元の世界の里奈ではない。断じて違う。高卒後、親の金でふらふら遊び暮らしていた、俺の知ってる里奈じゃない。それに確か里奈の実家は相当な資産家だったはずだ。

やはりこの世界は元の世界と微妙に異なっている。ズレている。従ってこの先のことはどうなるのかわからない。

「早乙女さんー 送ってくれてありがとねー あ、汚い部屋だけどー お茶でも飲んでいきません?」

一瞬、心が揺れる…

「いや… すぐ帰らなきゃ… 親が飯作って待ってるし…」

「ですよねー 彼女さんに悪いしねー あーでもライン交換しよー」

こうして俺たちはこの世界でも、出会ってしまった。半年も早く。それも元の世界よりも相当良い感じで。


試合で疲れた足を引きずりながら大山の駅へ向かう。途中スマホが鳴動する。早速の里奈からのお礼ラインだ。

俺は何をしているのだろう? 折角この世界で水月とうまく行き始めたのに… この先一体どうなるのだろう? 俺の心は一体何処へ向かうのだろう…


     *     *     *     *     *     *


『大変だったね… お疲れ様!』

『いや参ったわ。試合の後に東京往復するとは思わなかった… ドロ疲れだよ』

『ドロ疲れってww その子はもう大丈夫なのかな?』

『うん。親に引き渡して帰ってきたから、もう大丈夫でしょ』

小さなウソ一つ。

『そっか。後遺症とかないといいね。何か連絡、あった?』

『いや何も。連絡先知らないし』

二つ目の、ウソ。

『そっか。もう疲れたでしょ、今夜はゆっくり寝てねー おやすみなさい』

『うん、即死だね(笑)お休みー』

三つ目の、ウソ。里奈からのラインが数通未読状態だ。これから応対するのできっと寝るのは……


     *     *     *     *     *     *


泥のように眠って起きると昨日の疲れが嘘のように取れていた。リビングに降りていくと新聞を読んでいる親父が一人食卓に座っている。

「おう、昨日はお疲れさん。」

「おはよう、早いじゃん?」

「お前こそ。今日も予備校か?」

「そ。模試。」

俺は沸かしてあったコーヒーポットから少し煮詰まったコーヒーをカップに入れ親父の前に座る。

「……オマエ、コーヒー飲んだっけ?」

あ……そう言えばコーヒーを飲み始めたのは大学に入って一人暮らしを始めてからだった…

「今日、模試だし。目覚まさないと。」

なんてベタな言い訳をしてから

「昨日の試合、どうだった?」

親父が新聞をテーブルに置き、

「おう。勿体無い。」

「は? ああ、勝てた試合だったってこと?」

「チゲーよ。オマエが。」

「は?」

「大学でも絶対やれって事。一年でトップチーム入れるわ。」

「うーーん… ま、考えとく。」

「ダメだ。約束しろ。でないと学費出さねえ。」

思わず軽く吹き出してしまう。親父なりの最高の褒め言葉なのだろう。


「それより昨日ゴルフ行かないで大丈夫だった?」

親父は遠くを眺めるように、ポツリと。

「それな… 昨日『スコア如何でした?』って連絡しても未だに既読スルーされてるわ…」

よし! 心の中のガッツポーズを隠しながら、

「そんな… たった一回のゴルフで?」

「まあそんな人なんだよ。ちょっとでも、ほんの少しでも自分の意に沿わない事をするとー ま、俺はこの人の元では、これ以上は無理になったわ。」

本当に、本当に悲しそうな表情で親父は吐き出す。

「なんか… ゴメンね」

「ははっ まあでも、オマエのあんなすげえ姿観れたから、もういいわ…」

「出世が?」

「ああ。よく考えたらよ、息子の試合を観に行ったら見放すって、そんな人間についてく事ねえよなーって。」

「でも、どっか飛ばされたりされないの?」

「そこまで腐ってない、と思う。ま、そん時はそん時だー」

「そっか。わかった。俺さ、大学でも、やるわ。」


パッと咲いた親父の嬉しそうな笑顔を見たのは何年振りだろう。中学で県選抜に選ばれた時以来だろうか。そして今わかった。俺、親父のこの笑顔が見たくてサッカー頑張ってたんだ!

「父さんの後輩になるのかー 試合見に来てくれよー」

「バーカ。全試合行くに決まってんだろ。あ、それよりオマエの彼女! 昨日もいたのか?」

「いたよ。サッカー観るの好きみたい。」

「よし。じゃあ毎試合、オマエの彼女と二人で観に行くぞ!」

「母さんが許すかなー って、息子の彼女に手出すなよ!」

「バーカ。そんなガキに手出すかよ。で、写真見せろ! 写メ! 早く!」

「えーとー、ほい。」

スマホを親父に渡すとニヤついた顔が凍りつき。

「……タレント、なのか?」

「どうよ。可愛いだろ?」

「……これはシャレにならん… 俺一人で観に行くわ… てか何でこんな可愛い子が… こんなヤツに…」

「オイっ。あ、それよりさ?」

「なんだよ。」

「車の車検、ちゃんとディーラーで出しとけよ。ケチって安いとこでやんなよ!」

「んだよ、エラソーに。ハイハイ、オマエがちゃんとその子俺に紹介したらな?」

「いいよ。母さんがいる時にな。」

「だよなー」


ここまで上手く行くとは……


     *     *     *     *     *     *


朝食後予備校へ行き、模試を受ける。親父の人生はこれで改善されるのだろうか? それともやはり左遷され地方に飛ばされてしまうのだろうか? そんな事を考えていたせいか、かなりケアレスミスが多く、自己採点では過去最低点となりそうだった。

夕方前には試験は終わり、いつものように水月とファミレスで答え合わせや試験の出来についての討論―する筈だったのだが…

駅に向かいながらやや緊張した声で、

「両親がね、今夜N響のコンサートで遅くなるから、夕ご飯を作っておいてあるんだ…家に。」

「ふーん。」

「だから… よかったらー その… ウチで夕飯、一緒に…」

受験生らしからぬ展開―に思わず赤面してしまう。なにこれ、この甘酸っぱい展開!

「で、でもご飯一人分なんじゃ?」

「多めに作ってあるからー平気だよ…」

「そっかー、じゃあ折角だからお邪魔しようかな…」

水月がホッとした表情の後、嬉しそうに頷く。


昨夜といい今日といい… 何なんだろう… 正直水月の家には行ってみたい。部屋を見てみたい。そして…もし彼女が望むなら…

あまりに急な展開に心の準備が追いつかず、それよりも十八歳の男の正常な欲望が表面に出やしないか、心配になったり。

しかし一体なぜ急に…? 彼女の横顔に問いかけてみるが、やや緊張気味ながらも笑みを絶やさない表情を見ると、まあ何でもいいや。深く考えるのはよそう。二人きりの時間を満喫しよう。そう自分を納得させる。

二人で同じバスに乗るのは初めてかもしれない。夕方前なのだが本数が少ないためそこそこに混雑している。二人がけの席に座ると体が密着される。これ程彼女と接近したのは鎌倉以来だ。カーブに差し掛かるたびに彼女との密着度が増す。やや汗ばんだ彼女の匂いが鼻に入る。健康な十八歳の男子の身体反応が生じる。

このままずっと何処までも乗っていたい、その願いは叶うことなく俺たちが降車する停留所にバスは停まった。


この辺りは閑静な高級住宅地で敷地も広くゆったりとした間取りの家が多くみられる。そんな中でも水月の家は壁面が南欧風の明るいレンガ仕立ての洒落た一軒だ。庭はあまり広くないがその分各部屋の間取りが十分な広さとなっている。

通されたリビングは三十畳はあるだろうか。高価そうなスピーカーとオーディオセットがこの家の主人の趣味を物語っている。さりげなく飾られたリトグラフがやはりこの家の住人の教養の高さを示している。

テレビボードの上に四人家族の写真が数枚飾ってある。前に話してくれたちょっと歳の離れたお兄さん。水月そっくりのお母さん。お兄さんそっくりのお父さん。皆笑顔でこちらを見ている。

革張りの高価そうなソファーに身を沈めリビングを見渡していると水月が紅茶を淹れて持ってきてくれる。テーブルにソーサーを置く手がかなり震えている。


「ケイくんは女の子の家に来るの慣れてそう…」

一人暮らしの女子の部屋は何度もあるが。親と同居の自宅に入った記憶は、無い。

「私は初めてだから、緊張しちゃってるかも…」

「てか、親御さん俺が来るの知ってるの?」

「え、えっと、知らないよ、うん。」

「そっか。俺と付き合ってーいること、話してないんだ?」

「だ、だって私達、同志でしょ… どうして親に話さなきゃ…」

「…キター! 水月の親父ギャグ!」

「えーー、ケイくんは親に私のこと話しているの?」

少し硬さが取れてきた。

「話しているよ。特にオヤジは水月に会いたがっているし。」

「え…… ホント? なんか恥ずかしい…」


話を進めているうちに水月は完全にリラックスしたみたいだ。子供の頃の話になって、その頃の写真が見たいと言ったら、

「私の部屋にあるんだけれど…」

「えー、見せてよー」

「部屋? 写真?」

「どっちも。」

「……いーよ」

二十歳の俺からすれば微笑ましいやりとりの後、水月の部屋に行く。幅の広い階段を登り右に曲がると水月の部屋であった。扉を開けると十畳はあるだろうか、ベッド、二人がけのソファー、勉強机などが楚々と置かれている。

「広っ! 綺麗! 流石女子の部屋!」

それにいい匂いがする。それは言わんとこ。

「あの、そこに、座って…」

指定されたソファーに座ると水月はクローゼットの中を探り出す。その後ろ姿が目に入る。白いシャツ越しにブラジャーが透けて見える。ゴクリと喉が鳴る。相当奥にアルバムは仕舞われていたのか、上半身をクローゼットの奥まで入れているため、水月は今犬の様な格好となっており、必然的に臀部をこちらに突き出す姿勢をとっており、タイトなスカートに下着のラインがクッキリ浮かび上がっており…

いかん! フツーに健康な十八歳の性欲が高まってきてしまう。早く幼い頃のアルバムを見せてもらい心を癒さねば…… ゴクリ。


ソファーに座りながら水月の子供の頃の写真を見ているのだが、正直全く集中できない。隣の水月との距離がアルバムをめくる毎に縮まり、二冊目を終える頃には完全に密着しているのだ。床に置いてある三冊目に手を伸ばした時、すぐ真横に水月の顔があった。目と目が合う。その穢れない瞳に心が吸い寄せられる。

アルバムに伸ばしかけた手を水月の顔に添える。その瞳が一瞬大きく開かれ、やがてゆっくりと閉じられていく。ゆっくり、ゆっくりと顔を寄せていく。鼻と鼻が触れ合う。甘い吐息に頭がクラクラになる。軽く閉じられた唇に俺の唇をそっと合わせ……


ブルッ ブルッ ブルッ


静謐な部屋に響く俺のスマホ。顔と顔が離れる。再び目と目が合う。その目が一瞬の哀しみの色を見せた後、早く出てあげてと言う。

スマン、と目で言ってから横に置いてあるスマホを手に取る。


『襲われた 助けて』


里奈からのラインだ。気がついたら勢いよく立ち上がっていた。

「どうしたの? 何かあった?」

咄嗟に口にする。

「ゴメン、親が、母親が倒れたみたいなんだー」

水月も立ち上がる

「大変! 何処?」

「家…の中みたい…」

「すぐに帰ってあげてっ! 早くっ!」

「う、うん… スマン、ゴメン…」

「いいからっ 後で連絡頂戴!」

「わ、わかったー」


     *     *     *     *     *     *


水月の家を出てバス停まで走る。着いてから確認すると後五分ほどでバスが来る。里奈に電話をかけるー出ない。メッセージで今何処だと送ると学校を出たところだと返信が来る。大山の駅で待ち合わせることにし、時刻通りに来たバスに飛び乗る。

何があったのか尋ねても会ってから話す、との返信だ。イマイチ要領を得ない。イライラしながらも電車は今日も大山駅に到着する。

改札を出ると柱に寄りかかった里奈が目に入る。駆け寄って、

「どうした、大丈夫か?」

泣き腫らした目の他は特に衣服の汚れや肌に傷なども見えず、

「家まで送ってやる。歩けるな?」

無言で頷き、俺の腕にしがみついてくる。


家までの道中、何を聞いても首を振るばかりだ。相当ショックを受けているようだ。どうして学校にいたかを聞くとサッカー部の試合を観に行っていたとだけか細い声で答える。

家に着くと部屋は暗いままで母親は不在らしい。階段を昇り角の部屋に来ると里奈は部屋の鍵を取り出し震える手でノブに差し込もうとするが…

「貸せ、俺が開ける。」

ドアを開けるとムッとした空気が立ち込めている。狭い玄関には靴が散らばっており、空き缶―ビール缶やペットボトルが詰め込まれた袋が二、三転がっている。

水月の家とのギャップに苦笑しつつ、里奈を部屋に抱え入れる。2DKの狭い部屋はとても女性二人が住んでいるとは思えない乱雑さで落ち着ける環境ではない。

ソファーはなく畳に直接腰を下ろすと里奈も俺の横にチョコンと座る。


「で。何があった?」

「試合終わって、帰ろうとしたら、Aチームの人に、昨日頭にボール当たって大変だったんだろ、って声かけられて、ちょっと診てあげるからこっち来なって言われて、付いて行ったら誰もいないトレーニングルームで、いきなり抱きしめられて… 無理やりキスされて…」

声が震え、涙がポロポロ流れ出す。思わず肩を抱き寄せると里奈が俺にしがみついてくる。あまりの勢いに畳の上に倒れてしまう。


里奈が俺の上に押し倒す体勢―そして顔と顔が近い。そう思った瞬間、里奈に唇を奪われていた……


その口付けは懐かしさ半分、新鮮さ半分だった。元の世界での里奈はこんなキスをしなかった。もっと性的に貪欲なキスだった。舌を存分に動かし俺の官能をガシガシ引き出すような肉食女子ならではのものだった。

しかし今、里奈は唇をきつく押し当ててはいるものの、それ以上の動作はなく、如何にも高校生のそれ、であった。

元の世界での里奈との目眩く官能の生活が懐かしく思い出されるものの、それが再現される予感は全く無く、俺は優しく後頭部を撫でてやるだけだった。


ドアの鍵が開けられる音がした、母親が帰ってきた!

俺は慌てて起き上がり、暗かった部屋の電気を点け…

「ただいm― 誰アンタ? 何してんの!」

そこには元の世界の里奈そのものの派手な女性が買い物袋を下げ仁王立ちしているー


これは、一種の『修羅場』なのか? だが俺には疚しいものは無い。何もしていない。のでへりくだること無く事情を説明しようとすると、買い物袋が飛んできた!

「テメー、人ん家でー、人の娘にー、何してんだコラ!」

食卓に置いてあった醤油瓶を振りかぶった時、里奈が母親にしがみ付き、

「違う違う! この人がアタシを助けてくれたの! 違うの!」

と叫び、母娘でしばらく言い争う。

うわーーー、あるんだこんな事… 小説やドラマの中だけだと思ってた… なんて他人事のように思っているとようやく母親は事態を把握してくれたらしい。

「それならそうと、なんで早く言わないのよ!」

そんな暇ねえだろが! 思わず吹き出してしまう。

「え? 昨日の人? ああ、アンタにボール当てた… って、やっぱりアンタ人の娘を傷モノにしてんじゃねーかコラ!」

とキレ始めたかと思うと、

「ま、こうしてちゃんと挨拶に来るなんて、今時の小僧にしては上出来じゃんか。」

なんて言い始めて。なんだこの上下動の激しさは?


「この子さ、バカじゃん。アホじゃん。アタシに似て。だからアタシみたいにならないで欲しいんだよ、この先。」

上下動が収束し、俺と里奈の母親は食卓に座り、里奈がお茶を淹れ始める。

「アタシみたいにさ、男に縋って頼って、生きて欲しくないんだ。自分の足でさ、ちゃんと生活して欲しいんだ。来年からは塾にも通わせんのよ。」

そこで出会うはずだった…

「そんで、短大か専門通わせて、資格取らせて、一人暮らしさせて。だからー」

里奈の母が俺に向き直る

「アンタと里奈、全然合わないから。生活も、価値観も。」

俺はゴクリと喉を鳴らす。

「だからー 一緒になっても絶対うまくいかないからー この子に近付かないでくれないかな?」

お茶を淹れる里奈に聞かれないよう、そっと俺に呟く。

「こんな母親だけどさ、この子の遊ばれて泣く姿や腹デカくして戸惑う姿、見たくねーんだよ…」


     *     *     *     *     *     *


元の世界では言い寄ってくる里奈をハッキリと断らず、やれるならラッキーとばかりに思い付き合っていた。その結果里奈は身籠もる。

まるでこの母親はその姿を未来から見てきたかのような感じで俺にこれ以上娘と付き合うな、と戒めたのだ。

ハッキリと、アンタに合わない、うまくいかない。アンタがしっかりと里奈に距離を取って欲しい。そう言われたのだ。

駅までの道すがら、隣をピョコピョコ歩く里奈に何て言おうか考える。すぐ後ろから母親がサンダルをパカパカ鳴らしながら歩いてくる。

元いた世界では会うことはなかったが、そしてちょっとガサツで品がないが、俺は里奈の母親の人間性に好感を持っていた。娘を守ろうとするその姿になんとか応えたくなっていた。そしてこの母親と共に、今後の里奈の幸福を願い祈りたくなっていた。


「里奈ちゃん。俺さ、ゴメン、彼女の事、結構本気なんだ。ずっと一緒にいたいと思っているんだ。一緒にいると幸せなんだ。一緒に高め合っていきたいんだ。例えばね、一緒にいろんな本を読んでさ、そこに書いてあった史跡を一緒に巡ったりー」

「…歯石?」

「うん違う。それからさ、一緒の大学受けてーそして一緒に通いたいんだ。」

「大学…」

「そう。それでー大学の近くに部屋借りて、そこに二人で住んで、一緒に授業受けて。俺は体育会、彼女はサークル? そんな学生生活送りたいんだ。」

里奈が立ち止まり、呆然と俺を見上げる。

「そっか。アハ、そーなんだ。じゃあ、ウチ全然ダメじゃん。そっか。そーだよね。」

ニッコリと微笑むが、そこに諦めの色が漂っている。目に薄っすら涙が溜まってくる。

「そっかーー、うん。わかった。じゃ、諦める! うん。ありがと。ちゃんと言ってくれて。うん。マジありがと。」


俺は里奈の後ろで歩きタバコの母親を見る。まるで漫画のように俺に向かって煙で輪っかを作り吹きかける。彼女の目を見ながら頭を下げる。どうかもう暫く里奈を守ってやってください。彼女が自立できるまで、あとちょっと……

元いた世界では俺が里奈の人生をグチャグチャにしちゃいました。ごめんなさい。

この世界では俺は里奈の里奈らしい生き方をそっと応援したいです。

どうかこの世界では里奈も貴女も、笑みの絶えない未来でありますように。


日曜の東武東上線は、複雑な思いの俺を優しく小刻みに揺らす。徐々に瞼が重くなってきた。そしてハッと気付くともう川越に着いていた。


     *     *     *     *     *     *


時計を見ると九時。駅前のベンチに座り、何十件もの未読メッセージを眺める。どれも一行ずつ簡潔に俺と母を心配してくれている。水月に経緯を誤魔化さずに全て話そう、そう決めてLINEを書き始めた途端、スマホが震える。水月からの着信だ。

「ゴメンね… 今病院? お母様大丈夫? ケイは…」

「ありがと。それとゴメン連絡しなくて。水月、話があるんだけど。駅まで出てこれるか?」

「それはいいけど… あなたご飯食べた? お腹空いてない?」

グーーー

「でしょ。うちにいらっしゃいよ。今から温めるから。」

「あ、でも、ご両親…」

「気を利かせt… え、えっと、なんだかお、遅くなるってーだから全然平気!」

「…水月ちゃん。何か俺に隠してませんか? そっか。なら今からそっち向かうわ。二十分後くらい、かな?」

「…はい。待ってるね。」


キッチリ二十分後、星野家のインターフォンを鳴らす。少しして水月が顔を出す。嬉しそうにドアの隙間から俺に手招きをする。途轍もない幸福感に目眩がしてくる。

ダイニングに通され、湯気の立つ皿を見てまた腹が鳴る。

「はい、座って座って。食べて食べて!」

「おー美味そう! これお母さんが作ったんだよな?」

「そうなのー食べて食べてー」

シーザースサラダ。オニオンスープ。スパゲティーカルボナーラと和風明太子パスタ。どれもファミレスで食べるより全然上手い… 行ったこと無いけれどきっと東京のイタリアンレストランの味はこんな感じなんだろう。

水月のお母さんは料理上手なんだね、と言いかけてふと気付く、あれ、パスタって茹で上がってすぐ調理するのでは…


かちゃかちゃ。ガッチャン。


「ただいまーー」


おい。水月。おい。


     *     *     *     *     *     *


「うわー、これが学園一のモテ男、早乙女くんだー、うわーー」

「母さん、涎! 早乙女くん、初めまして。うわ、背高いね、カッコいいね、美月の言う通りだねー、サッカー上手いんだってね?」

「ゴメンねーお食事中にー って、何で今頃食べてるの? あーーー美月ちゃん、今までナニしてたのーーいやらしいー」

「だから母さん、落ち着きなさいってー って、ああいい匂い。美月、父さんたちの分もあるかい? 小腹が減っちゃったよー」

「どお? 美月ちゃんのお料理美味しいでしょ? 私より全然上手なのー って、最近じゃ美月ちゃんに任せっきり! どお、いい奥さんになるよおー」

「ねえ母さん、さ、着替えてこよう、それからゆっくり話そうよ。ね、早乙女くん。じゃあ美月、父さんたちの分もヨロシクー」


「……なんか… ゴメンなさい…嘘ついちゃって…」

「…めっちゃ、話してんじゃん… ご両親に、俺のことー それに、この料理―全部お前が作ったー 何でお母さんが作ったなんて…?」

「ゴメンなさいっ だって、ケイくんに迷惑かなって…」

「迷惑って…? 」

「これから受験もあるし… ケイくんにとって重いかな、って…」

「いや… ちょっと、かなり驚いた、けど。心の準備が出来てなかったけど… でも、」

「…でも?」

「嬉しいよ。素直に。両親紹介してくれてー それに薙切えりなばりの美味そうな料理作ってくれて。」

「?」

元の世界でも付き合った彼女の両親を紹介されたことはなかった。そして、俺も彼女を親に紹介した事はなかった。

それぐらい、将来を見据えて女子と付き合ったことが無かったのだ。

夕方、里奈の母親に言われて初めて気付いた。自分の子供が異性と付き合う時の親の葛藤。これまでの俺は自分の本能のまま、即ちヤリたいから付き合ってきた。その先の事なんて、将来の事なんて一切考えてこなかった。

だからそれは本当の『付き合い』ではなかった。単なる欲望のぶつけ合いなのだ。男女の付き合いの本来の姿ではない。里奈の母親がそう俺に教えてくれた。


そして、水月とは。俺が今まで知ろうともしなかった関係。


水月の両親が二階から降りてくる足音を聞きながら、俺はこの今日知った新しい関係をしっかりと胸に刻み込む。覚悟を決める。水月を見つめる。水月が俺を見つめる。二人、照れ笑いをする。

「お邪魔しちゃうよー、水月ちゃん、ご飯出来た? あれ…まだ?」


     *     *     *     *     *     *


十時頃水月の家をお暇する。あれから水月の料理をつつきながら四人で色々な話をした。あっという間の時間だった。両親の水月への深い愛情を垣間見れた。

最寄りのバス停まで水月と二人歩く。俺は里奈のことを全て…は問題があるので、ある程度話そうと決める。

「昨日の、江戸学の子。」

「え? ああ、うん。」

「ゴメン。実は昨日連絡先交換してたんだ。」

「…うん。」

「それで、夕方連絡が来てー サッカー部の上級生に襲われたから助けて欲しいってー」

「…そう、だった、んだ…」

「母親が倒れたーなんて嘘ついた。ゴメンなさい」

「お母様は、大丈夫なんだね?」

「うん。」

「よかった。」

「ゴメン。」

「それで?」

昼間の蒸し暑さはすっかりなくなり、秋らしい気持ちの良い夜だ。

「それで、彼女の家に行って様子見てたら、母親が帰ってきてーなんかスゲー勘違いされて」

「うん。」

「で。その母親に、この子にその気がないなら、二度と近付かないで欲しい、って言われて。俺は『わかりました』って答えて。」

「そっか。」

「だから。もう彼女と会うことは、無いから。」

「うん。」

バス停まですぐなのだが、二人の歩みは亀よりも遅い。日曜の夜なのですれ違う人もまばらだ。秋の夜のちょっと涼しい空気を大きく吸ってみる。

「今度さ、ウチで勉強しない? 親にも紹介したいし。」

♀亀が歩を止める。そして首を伸ばして♂亀を見上げる。

「それって… いいの? ホントに?」

「うん。ちゃんと紹介したい。親に。だから…」

「うん?」

「もう、お互い嘘つくの止め! 俺も水月にはなんでも話す。なんでも相談する。だから水月も俺にー」

「それは無理かも」


「へ?」

俺は間抜けヅラで立ち尽くす。

「前にさ、夏にさ、予備校で言ったよね。嘘つく人、ムリだって」

つい二ヶ月前の出来事を思い出す。額と脇にに流れた汗を思い出す。

「あれ、嘘。」

「は?」

「…ケイくんになら嘘つかれても…」

「つかれても…?」

「…他に、女の人がいても…」

「……」


「好き!」


この子は嘘つきだ。そして嘘をつかせているのは、俺だ。


思わず抱きしめようと両手を伸ばした瞬間、車のクラクションが鳴る。

「早乙女くん。今日は日曜日だからもうバスは無いんだって。家まで送って行くから乗りなさい。あ、美月は助手席ね。」


一部上場の食品会社の執行役員である水月の父親の運転で自宅に送ってもらう。

「早乙女くんは、高校生というより、大学生って感じだね。」

心底ドキリとする。

「落ち着いているし考えもしっかりとしているし。流石、美月の選んだ男だ。うん。」

「ちょっとパパ! やめてよー」

「ははは。さっき君が言っていた通り、受験まではしっかり勉強に没頭して、二人共めでたく合格して。陰ながら応援しているよ。頑張ってな。」

「ありがとう、ございます。」

家のすぐ近くで車を停めてもらう。送ってくれた礼を言うと、


「美月のこと、よろしくお願いします。」


俺は運転席の父親に向かい、深く頭を下げ、

「こちらこそ、今後ともよろしくお願いします!」


走り出した車が角を曲がるとき、テールランプが五回点滅したのは何の合図なのだろう。


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