激闘
俺たちの受験勉強の日々は容赦無く続く。夏の酷暑の影響なのか、九月の終わりになっても暑い。未だにセミが鳴いている。この先この星はどうなってしまうのだろう。二年後までは知っているのだが。
来週には文化祭がある。のだが、勿論俺たち三年は殆ど関与しない。クラスの出し物も無し。二日間の間、学校に来ない者も多数居るだろう、俺もその一人になる、筈だった。
昼休み、サッカー部の二年のキャプテンの坂崎が教室にやって来る。
「ケイさん、ちょっとお願いがあるんですけどー」
「坂崎、どうした? 親善試合には出ねえぞ。」
「その親善試合なんすけど、今年あの江戸学園が来るんですよ!」
「はあ? 江戸学? マジで?」
「勿論、Cチーム以下だと思うんですがー」
江戸学園は東京の強豪校だ。一昨年選手権に、去年インターハイに都代表で出場した最近力をつけて来ている新興強豪校。俺らが相手になる筈もないのに、一体……
「ウチのOBで筑波の体育会でやってた、下条さんっていたじゃないですか?」
「ああ、あの伝説の『ジョー』さんな。」
名門進学校の我が校でただ一人、あのサッカーの名門筑波大のサッカー部で活躍した、伝説の『ジョー』さんこと下条さん。俺が現役の頃たまに練習に参加していた。まあ、プロになれるほどではないが、俺らレベルから見たら神レベルの人だった。
「あの人今、江戸学で教員してるんですよ。それでサッカー部も見てるらしくーー」
「それで、か。しっかし文化祭の親善試合の相手にしては、エグいな…」
「そーなんですよ。しかも、CBの山沖が一昨日ハムストリングを肉離れしちゃってー」
太腿の裏の肉離れ。一ヶ月はプレー出来まい。
「そこで。ケイさん、一日だけ、現役復帰の方向でオナシャス!」
一緒に話を聞いていた洋輔と駿太が騒ぎ出す。
「スゲーじゃん、江戸学! あ、俺も出たいかも。」
「いーなー、例えDチームでも一度やってみたかったな。」
「勿論出るんだろ、ケイ?」
「今でもちょいちょい身体動かしてんだろお前?」
「いやーー、最近はフットサル……」
「はあ?」
「へ?」
おっと。危ない危ない。
「フットサルならやりたいけど、フルコートはちょっとなあ……」
二年前、大学に入った後俺はフットサルのサークルに入った。そして塾講が忙しくなると試合だけ出るようになっていた。
「なんじゃそれ。いいじゃんケイ、江戸学とジョーさんにちょっと一泡吹かせるってーの、どうよ!」
「そうそう、ケイが入れば少しはいい試合になるわ。」
「そーなんですよ! 中学時代の埼玉トレセン選抜のケイさんが入ってくれたら、メッチャいい試合になりますよ! 頼んます!」
「埼玉学院や浦和総合の誘い蹴った男だもんなー」
ああそんな過去もあったわ。遠い昔の話だが。
「でもな、最近全然身体動かしてないんだわ、ちょっとキツいかも…」
「大丈夫っす! あと一週間あります! 何とかなるっす!」
この進学校には珍しい『脳筋』男の無駄に熱い勧誘にタジタジとなる。実際こちらの世界に来てから殆ど体を動かしていない。放課後は予備校もある。ただ文化祭前なので授業は午前中だけとなるので、軽く部活に出ることは可能だ。
この無駄に熱い後輩の姿とあの伝説のジョーさん、そしてあの江戸学との対戦を眼の前にし、知らず知らずのうちに眠っていたサッカーへの情熱が蘇ってくる。
「坂崎。ユニフォーム、用意しとけよ。」
坂崎が上級生の教室で大声で、
「っしゃーーー!」
と叫ぶものだから、どうした、何かあったの? とクラスメートが集まって来る。
「マジ? ケイ試合出るの? そんなら学祭顔出すかなー」
「えー、応援行くよー、いつ? 何時?」
「これ、みんなにお知らせしなきゃよねー、えーと…」
放課後までには全校生徒の知る処となった……
「あの後輩君、本当にケイくんのことを慕ってるんだね。いや、慕っているというよりは、懐いているって感じかも。」
「上級生の教室でアレは無いよな… まあ、でもマジでいい奴だから。」
「ケイくんはホントにいっぱい良い人に囲まれて、幸せだね。」
「それな。マジ感謝だよ。」
「ふふ。じゃあ明日から練習出るんだ?」
「そーだな。昼から夕方まで。あ、予備校、先に行っててよー」
「えー、練習見てちゃダメかな?」
「全然いーけど。でも水月、サッカー興味あるか?」
「サッカーも好きだよー。だから見たい!」
「おっけ。じゃ、練習終わったら一緒に予備校行くか。」
「うん!」
最高の笑顔。思わず抱きしめたくなる程の。二、三年前以来の闘争本能が静かに蘇ってくるのを感じる。そして、あの頃とは違い、今は水月が隣にいる。想像できない何かが起きそうな予感がする…
* * * * * *
帰宅後、久し振りに部屋の押入れを探る。記憶通り、高校のサッカー部時代の用具がしまってある。スパイクを見ると高校時代の懐かしい思い出に浸ってしまう。
これを最後に履いたのは確か高二の三学期、俺たちの引退試合。それ以来触れるのは三年半ぶりくらいだろうか。
玄関に持って行き、クリーニングキットでスパイクを磨き始める。懐かしいクリームの匂いに胸が熱くなってくる。
無心で磨いていると親父が帰宅する。今夜も頬を赤らめ酒臭い。それほど強く無いのだが、直属の上司が無類の酒好きだとかで無理して合わせているらしい。
「啓、なーにやってんだあ?」
「見りゃわかんだろ。スパイク磨き。」
「お前、とっくに引退したんだろおー、なーに今更?」
「来週の学祭の親善試合、出ることになっちゃって。父さん、あの江戸学とやるんだぜ。」
「はっ。江戸学? 万に一つも勝ち目ねーだろうが。」
埼玉は静岡と共に昭和の頃からサッカーが盛んな地であり、この親父も無類のサッカー好きなのである。
「それにお前全然身体動かしてねーだろ。いくらお前でも来週いきなり江戸学ってーのは無理なんじゃねーか?」
急にシラフになって真顔で言いはじめる。
親父は俺を日本代表にするのがかつての夢であったらしい。物心ついた時から俺は親父にJリーグや高校サッカー、更にはプリンスリーグなどに毎週のように連れて行かれていた。試合を観に行かない日は近所の公園でひたすらサッカー。
止める、蹴るの基本的な事は全て親父に教わった。小学校に上がる頃にはリフティングは百回を超えていた。
小4の時にJクラブの下部組織のセレクションを受けたが最終テストで落とされた時には帰宅後号泣していたわ……当の本人は案外どーでも良かったのに。
中学では県大会ベスト四に入り、トレセンに選ばれ埼玉県U15に選抜されるとこれまた家で号泣してたな…
「お前、怪我だけは気をつけろよ。特に筋肉系。半年近く使ってねえんだから、よくストレッチして。練習前は動的ストレッチな。練習後はより入念に。」
「わかってるって。」
「あと、お前一人でなんとかしようとするなよ。周りをよく使って。どうせCBやるんだろ? 攻め込まれっぱなしだろうからキレるなよ。耐えて耐えt……」
「父さん。」
「…ウンター狙いでー、は? な、何だよ…」
「ありがとう。マジ、今までホントありがと。」
「気持ち悪いだろうが… 何だよ急に…」
「試合、観にこない?」
「…お、おう、い、いつだよ?」
「来週の土曜日。」
「あーーーー、んーーー。行きてえな。あーー何でその日なんだよおーー」
「上司とゴルフなの?」
「まあな。でもお前と江戸学の試合、これは見逃せねーなー でもなあ…」
「だよな。」
「お前の骨拾いに行きてえとこだが。怪我だけはすんなよ、怪我だけは。」
ずっと俺のサッカーを見てきてくれた親父。俺が頼まなくても俺の出た試合の殆どを見にきてくれた親父。中学くらいから身体の故障を何よりも心配してくれてきた親父。
不意に視界が滲み、磨いたばかりのスパイクの上に水滴がポトリと落ちて弾けた。
親父の後に風呂に入りながら、突然思い出す。
親父は元いた世界で、俺が大学二年の夏、突如左遷されてしまう。その理由が直属の上司の大失態を押し付けられた為だった。
取引先との酒の場でその上司が何かやらかし、それを親父に責任転嫁したらしい。そんな人間について行っていた親父が全て悪いのだが、親父は思い込みが激しく、これならば、この人ならば、と一度信じると妄信し他人の意見に耳を貸さない。
どうなのだろう、もし親父が早くにこの上司と距離を置くことが出来たら、親父は二年後左遷させられる事はなくなるー?
左遷が決まったと家族に告げた時の親父の姿は今でもよく覚えている。世渡り上手でお調子者の親父が抜け殻となった様を。晩秋の木枯らしに揺られている大木の陰に取り残された蝉の抜け殻のような親父を。
俺の言う事なぞ聞くはずも無いのはわかっている。しかしこのまま何も言わずにあの様になってしまうのは俺が許せない。
耳を塞がれてもいい。子供に何がわかると詰られてもいい。それでも、俺を愛してくれる父に言うだけは言おう、そう決心しバスタブから立ち上がる。
親父はリビングで冷やしたミネラルウォーターを飲んでいる。お袋はとっくに寝室だ。
「ところで、勉強の方はどうよ?」
「あ、ボチボチ。えーと、これ、先週の予備校の模試の結果。」
「どれどれー…… スゲーじゃん、80%… ホントにこれなら政経に現役合格かよ…」
因みに親父は一浪で法学部。
「サッカーも、勉強も。うん。子は親をこうして超えていかねばな。」
高校時代は県大会ベスト16、大学時代は体育会で三軍。
「お前、大学じゃサッカーやらねえのか?」
「んーー、他のことしたいかも。」
「そっか。でもな、大学の体育会は社会人になってからの人脈が凄えぞ、縦と横の繋がりがな。上行くには有利だぞ。」
「わかった。考えておくよ。」
「おお、そっか、じゃあ横山に伝えておくぞ、ウチのが行くからよって。」
親父の後輩で今は大学のサッカー部の監督をやっている横山さんは今や大学サッカー界では『知将』として遍く知れ渡っている。
「ところでさ、父さん…」
「何だよ珍しい。そんなマジな顔して。何だよ。言ってみろ。」
親父も珍しく真剣な顔でこちらを向き、俺の話を聞こうとしている。
「今からさ、スゲー生意気な事言っていい?」
親父はキョトンとした顔をした後、笑い出す。
「おいおい、どうしちゃったの啓ちゃん。まあいいや、何でもこのお父さんに話してごらん。」
「うん。あのさ、今の上司って、どんな人なの?」
「はあ? 何だ突然― 」
俺は親父の目をしっかりと見つめ、
「父さんにとって、今の上司は本当に信頼できる人なの?」
親父も俺から目を離さず、太く強い視線を俺にぶつける。俺もそれを受け止め、より太い視線を返すー
「あのな啓。俺らサラリーマンの出世ってよ、ぶっちゃけ実力じゃねえんだ。『運』なんだよ。だからよ、その運を持った上司について行く奴がその人と一緒に上に上がっていくんだよ。わかるか?」
「うん。なんとなく。」
「今の俺の上司、神崎さんって人なんだけどな、東大のサッカー部でよ、もう入社当時から幹部候補生だったんだってよ。その人に俺は認められてここまで引っ張ってもらって来たんだよ。俺の同期では一番出世な。部長な。だからよ、」
コップに入ったミネラルウォーターを一気に喉に流し込んで、
「信頼もクソもねえ。一連托生なんだよ。あの人が上がれば俺も上がる。あの人がコケれば俺も落っこちる。それがサラリーマンって奴なんだよ。」
親父流のサラリーマン哲学か。時代は令和なんだけど、あまりの昭和臭に居た堪れない。やはり何を言ってもダメなのかもしれない。このままでは元の世界通り、いつかその酒癖の悪い神崎に利用されるだけだ。
だから。その前に神崎なる上司と距離をあけさせたい。それにはどうすれば良いか。親父が神崎の忠犬であることを辞めさせる、出来れば神崎から親父を見放す方向で…
その為に俺が出来ること、会社の出世よりも大事なものを親父に思い出させる事…
「そっか。来週、じゃあ無理して来なくてもいいよ。神崎さんとのゴルフの方が大事だろ?」
「いや…まあそうなんだけど… うん、まあ何とか来週、お前の試合見に行けるよう、するよ」
俺は席を立ち寝室に向かう。そして、心に届け! と願いながら、
「おやすみ父さん。頑張るから、俺の方、見に来てよ。」
親父は柔らかく微笑む。
「それとー、もし来れたら、彼女紹介しよっかな?」
親父は目を大きく開けー
「おおお、やっと親に紹介できるオンナ出来たかっ 可愛いのか? もうやったか?」
「見てからの、お楽しみー まだやってねえよ!」
* * * * * *
翌日から俺のサッカー部での練習が始まる。とにかく後一週間で走れる体にしなければならない。焦らずにじっくりと体を仕上げていこう。足元のボールコントロールなんかは問題ない。二歳からボールを蹴っていた俺の足が簡単にテクニックを忘れる筈もない。
自分のトレーニングをしながらチームの状態を確認する。県内一、二を争う進学校なのでサッカーをする為にこの学校に来るものは皆無だ。故にほぼ全員が『勉強のよく出来る、ちょっとサッカーの上手い男子』だ。
Jユースどころか、街クラブ出身者も殆どいない。全員が中学の部活出身者である。対する江戸学はほぼ全員がユースまたは街クラブ出身者だ。部活上がりはほぼ居ないであろう。江戸学に限らず高校サッカーの強豪校は大体こんな感じらしい。
部活出身者とクラブ出身者の大きな違いは、基本技術である『止めて蹴る』の精度である。これはプロの世界でも重要な事である。トラップの精度が高ければ高いほど敵にボールを取られる事は少なくなるしヘッドアップして周囲をじっくり見ることが出来る。パスの精度が高ければ高いほど得点のチャンスは増え味方のボール保持率は飛躍的に上がる。
今、後輩達を見てみるとーこの『止めて蹴る』技術が決定的に低い。これは後輩達に限ることではなく、この学校のサッカー部員共通の弱点である。
これでは江戸学との試合ではボールはほぼ支配され、俺がどれだけ孤軍奮闘しようとも結果は目に見えている。
となると、少しでも失点を防ぐ試合をするには、戦術で勝負しなければならない。それもアジア予選でよく見る、日本代表の相手チームの様な…
練習後、俺は部員を集めその戦術を説明する。全員が江戸学相手に戦う前から名前負けしており、俺が
「こうすれば勝てるから」
と説明するとキョトンとした顔になる。
「ケイさん、いや、マジ勝つつもりなんですか?」
「いやいやいや、絶対ムリですってー」
「相手が一年チームでも、ムリムリー」
「って、みんな思って見に来るよな。ボコされるに決まってるけど、まあ看取ってやるか的に。」
全員が下を向く。
「将来の日本代表になる奴いるかも、なんてな。下手したらうちの応援やめて、向こうの応援しだしたりしてー」
何人かの溜息が聞こえてくる。
「江戸学の奴ら、相手が俺らだからー利き足使うな、ドリブル禁止―とかやってくるかもな。」
何人かの舌打ちが聞こえてくる。
「あれな、一〇点以下だったら走って学校帰れ、とかな。」
何人かの拳が固まるのを見て、
「で。それでいーの、お前ら?」
「ケイさん、なんかあったんすか?」
練習後、坂崎が真っ先に俺のところにやってきて言う。
「へ? 何が?」
「いやー、ケイさん、変わったなーって思って。」
思わぬ一言に首を傾げる。
「前までのケイさんって、なんか我が道を行く感じで、畏れ多くて近付けないっていうかー サッカーマジ上手いし、イケメンだし、頭良いし、人当たりよくて感じいいしー」
「誉め殺しても何も出ねえぞ。」
「いや正直ケイさん居てくれりゃ、どうせナメてかかってくる江戸学の奴らに一泡吹かせられるかなーって感じ? ちょっとでもアイツらをビビらせりゃいいかなって感じで誘ったんですよー」
「おい。」
「そしたらさっきのアレ。ケイさんって、あんな風に人の心動かすタイプじゃなかったっしょ、淡々とマイペースって感じでさ。」
「へーー。さすがキャプテン。良く人の事見てんじゃん!」
「だからね。なんかあったのかなーって。」
「ま、人間二十年生きてりゃ、色々あるって。」
「二十年? は?」
「に、二十年、近く、生きてりゃ、って事。」
「ふーーん。まいっか。明日からもよろしく頼んますよ! 俺はガチで勝ちに行きたいんで!」
「いいなオマエ。ああ、一緒にやってやろうや!」
「ウイーッス。」
* * * * * *
「やっぱ、ちょっと体、重たそうだったねー」
思わず水月を振り返る。
「一応わかるってそれぐらい。バスケやってたし。」
「あ、ああ、そっか。なるなる。いやー、疲れたー、明日から筋肉痛との戦いだわー」
「よーくアイシングしなくちゃだよ。」
「はは。さすが。てか、水月―、もちっとゆっくり歩いてー」
「遅刻しちゃうよっ 早く!」
差し伸ばされた右手の白磁の様な美しさに思わず見惚れてしまう。
「あ… これは、その、そういう訳では……」
一瞬にして顔を赤らめる水月を見て、俺も耳まで赤くなってしまう。流石にその手を握るわけには……
すれ違う小学生達がニヤニヤ笑っている。急に手汗が吹き出した気がする。予備校に着いた頃には掌がぐっしょりしっとり、濡れていた。
それから一週間は瞬く間に過ぎていく。俺の筋肉痛は水月のアドバイス通り毎晩のアイシングを欠かさなかったお陰で今日も全く問題ない。
この一週間で俺がチームに徹底的に意識させたのが『堅守速攻』。所謂ガチに守ってカウンター狙い、である。
こんな進学校のサッカー部でも足だけは速い奴が学年に二、三人はいるもんだ。今のチームにも五〇メートル六秒前半で走る奴が二人居たので、それぞれに前後半を任せることにする。
システムは5−4−1。とにかく引いて引いて相手に攻撃のスペースを作らせない。これならどれだけ彼らと力量の差があろうと、簡単に失点を重ねることは無い。あとは個々の役割をしっかりと認識させ、それを徹底させればいい。
初日の俺の檄が効いたのか、頼もしい後輩達は目の色を変えこの一週間の戦術トレーニングに挑んでくれた。もう誰の目に怯えや諦めの色は無い。
そしてその日が来た。
天気は曇天。やや蒸し暑い。我が川越中央高校のグランドは三年前から人工芝が敷かれており、然しながらピッチ上は太陽の照り返しもなく、この季節にしては中々のコンディションだ。
試合開始は十四時。その一時間前に江戸学園高校のサッカー部員が我が校に到着する。引率の大柄なコーチがこちらにゆっくりと歩いてくる。伝説のジョーさんだ。
「おいおい、いつからこんな立派なグランドになっちゃってんの!」
顧問の山寺先生がジョーさんに近寄り、固く握手をする。
「おい下条、まさかAチームじゃないだろうな?」
先生としては冗談で言ったつもりだったのだろう。
「まさか。そんな訳ないでしょ、コイツら相手に。」
ジョーさんがムッとした顔で言い放つ。その場が凍りつく。
「ウチ、Dまであるんですよ、当然今日はそのDですから。それとも、Cとか連れて来ればよかったですかね?」
「い、いや、オマエのところならDで十分だよ……」
「は? 十分って? え、まさか勝つ気でいたりしちゃってんすか?」
「ははは… まあでも、今日ウチは早乙女出すからー」
「ああ、埼玉選抜の… おお、久しぶり。」
「こんにちは、今日はよろしくお願いします。」
「へーー。背伸びたな。オマエ、ウチの大学受けねえの?」
「あー、私立文系狙いなんで… 国立はちょっと…」
「ふーん。ま、今日のプレーしっかり見せてもらうわ。でも、な、こんなチームでオマエ一人いても、な。ハハ、オマエも俺の気持ち、わかんだろ?」
「全然わかりませんけど。」
「は?」
「ウチ今日、勝ちに行きますんで。」
「ウケるわオマエ!」
「一年坊主に、負ける訳いかないんで。じゃ後で。」
山寺先生が思わず吹き出す。ジョーさんの目が勝負師の目に変わっていく。望むところだ。まあ見てろよ、オッさん。
* * * * * *
「しっかしスゲーサポーターの数じゃね? 何人見に来てんのかねー」
「サポーターって… 向こうの学校の子も来てるみたいだな。」
「え、どこどこ? 江戸学って女子メチャレベル高いってー」
「おおおー やっぱ東京の子は違うよなあ……」
皆、いい感じにリラックスしている。
「よし、ちょっと聞いてくれて。向こうはDチーム。全員一年な。ただ、知ってると思うけど数年後プロになる奴いるかも、レベルな。個人技、は。」
全員固唾を呑む。
「でもサッカーは個人技の種目じゃねえよな。団体種目だ。という事は、個人技よりも集団の意思疎通が勝負に直結する。これはこの一週間でわかってくれたと思う。確かに頑張っても勝てる相手じゃないかも知れない。」
皆の目の奥に小さな炎が灯る
「アイツらは勝って当然。そんな奴らに、一泡吹かせる。どうだ。最高だろ?」
「よっしゃー」
「やりましょう!」
「ウラー!」
戦いの準備は整った。
試合開始のホイッスルが鳴るまでのこの雰囲気は久しぶりだ。ピッチの外にはびっくりする程の観客が来てくれている。親父はいつもの場所、そう、俺の試合を見るときはいつもピッチ中央付近。目が合ったので軽く手を上げる。
か細い声で俺の名を呼ぶ声がする。振り向くと、水月がゴール裏で皆と一緒にいる。軽く頷くと水月も頷き返す。アドレナリンが湧いてくるのを感じる。
試合開始のホイッスルと共に江戸学は激しいプレスをかけてきて俺たちがボールを保持することさえ、パスを前方に送ることさえ許さない。経験したことのない圧力にあっという間に守勢に立ち、焦りからくるミスも増えてくる。
開始五分で三本のシュートを受ける。観客から悲鳴が上がる。四本目のシュートは左隅を狙いすました一年生とは思えないいいシュートだ。なんとかGKが弾くがボールは相手MFの前にこぼれ、なす術もなく先制点を決められる。
決めた本人も周りも全く喜ぶこともなく自陣に戻っていく。
「よし、ちょっとみんな集まれ!」
味方が俺の元に集まってくる。
「このままだとズルズルやられる。一旦落ち着こう。ボールは俺に出せ。相手のDFラインが高いからその裏に長いパスを入れる。連動してこちらのDFラインもあげる。いいな。まだ始まったばかり。楽しもうぜ!」
引き攣った顔をしていた後輩達は落ち着きを取り戻す。こちらのキックオフでプレー再開だ。
それにしても…… なんて上手いヤツらだろう。足元の『止める蹴る』はほぼ完璧。ボールを受ける前にルックアップしてよく周りを見ている。そして、よく動く。まるでクラブチームを相手にしている感じだ。
こちらはボールを相手陣内に持ち込む事すら出来ない。俺のロングパスでなんとか相手陣内にボールを送りこむ程度だ。ボールキープ率で言えばこちらは15%程度だろうか。
そして単に『上手い』だけではない。こんな県大会にも出場できないようなチーム相手に、凄まじい気迫で挑んでくる。これはチーム内の自分の立ち位置をよく意識しているからだろう。彼らはDチーム。Aチームまでの道は遠い。少しでも立ち位置をあげるには試合での活躍が必須だ。誰一人手を抜かずにプレーしている。
ただ、そこに唯一俺たちがつけ込む隙がある。そう、彼らは連携プレーよりも個人技に走り気味なのだ。互いのポジショニングをコーチングすることもない。守備の意識が薄く、俺が俺がと攻撃に邁進しているのだ。
確かに試合展開的には非常にキツい。だが、なんとか失点を防いでいけば小さな綻びを絶対に見つけ出し、同点に持ち込む事は不可能ではない。そう考えながら、後輩たちを叱咤激励し、相手のドリブルを止め、スルーパスを読み、シュートコースに体を入れ、なんとか前半を一失点で終えた。
ハーフタイムに入るとベンチに洋輔や駿太達もやって来る。外から見てのいいアドバイスを後輩たちに話す。雰囲気的に、俺ら中々やるじゃん、と士気も上々だ。ただ相当な疲労感も否めない。それだけに後半開始早々の心構えを後輩たちに告げる。
「あっちのベンチ見てみろ。」
江戸学ベンチはジョーさんが怒り狂って怒鳴り散らしている。俺ら相手に前半一得点のみ。ジョーさんにとっても彼らにとっても全くの想定外だったろう。
「俺らがここまでやるとは一ミリも思ってなかったろうなー」
既に一試合終えたかの様な疲労感漂う顔付きで皆は俺を見つめる。
「後半は最初からガンガン来るぞ。ヤツらのプライドにかけてな。」
ゴクリと喉が鳴る。
「前半以上に集中してかからないと、あっという間に大量失点するぞ!」
皆が軽く頷く。
「マークの受け渡し。コーチング。しっかりやる事。いいな!」
「「「ハイッ」」」
俺は表情を和らげ周りを見渡しながら、
「ところで。周り見てみろよー こんなに応援来てくれてるぞー 後半もっと増えるかもなー」
おおお、こんなにー 皆がどよめく。
「折角これだけの人が観にきてくれてんだ。ところで、彼女いないヤツ?」
ほとんどのメンバーが挙手するー
「これチャンスじゃね? 活躍したら! それに江戸学女子、メチャ可愛いぞみんなー」
おおおおおおー 今日一番盛り上がる。
* * * * * *
案の定、江戸学は開始早々から猛ラッシュを仕掛けてくる。わかっていてもこれだけプレッシャーがキツいとボール保持どころではない。俺がボールを持つと相手FWとMFが三人がかりで囲み、前線に蹴り出すことも困難になる。
ハーフタイムでジョーさんが指示を出したのだろう、俺に対して容赦の無い圧力だ。こちらは全員が自陣に戻り、必死の防戦状態だ。これでは一点が遠い。だがこれ以上の失点は防がねばならない。
ゴール前をこれだけ守備を固めると以外に点を取るのは困難だ。日本代表がアジアの中堅国以下の試合をするとこの様な事態となりがちなのと同じである。
ミドル、ロングシュートとペナルティエリア内でのファールに十分気をつける様、何度も後輩たちに声をかける。
点の入らないまま後半戦は半分を過ぎる。ジョーさんは惜しげも無く疲れの見えた選手をフレッシュな控えに替えていく。それでも攻め焦りが目立つ様になってくる。
俺はベンチに合図を出し、ワントップで走り回っていた二年の田村に代え、一年の谷津をピッチに入れる。二人共学校を代表する程の俊足だ。特に一年の谷津は入学時からベンチに入っていた、将来の我が校サッカー部を担う逸材である。
八津がピッチに入った時、側に寄り
「どんなに攻められていても、お前は前線で張っていろ。必ずお前に縦パスを出すから、その一本を狙え。」
「ナイスパス、待ってますよケイさん。」
と言ってニヤリと笑う。頼もしい一年生だ。
試合時間が少なくなるにつれ、グランドの外がざわつき始める。想定外の我が校の頑張りに生徒、教師、保護者の学校関係者の応援の声が大きくなってくる。対して江戸学の関係者は前半とは打って変わって水を打ったように静かになっている。
ジョーさんの凄まじい罵声が相手ベンチから響く。全員一年生の江戸学イレブンは焦りと疲れでプレーにキレがなくなってきている。そして、後半残り五分。ドリブル突破を図る途中出場のFWからボールを奪い取る。周りの相手のカバーが無い。これまでの様な執拗な俺へのプレスが無くなっている! 前方をルックアップする。八津と目が合う。奴が頷く。水月が喜びそうだわこれ。よし、今なら……
明確にクリアしろっ、なんて大声は俺の親父のモノだ。ふふ、親父。クリアだけじゃ点は取れねえんだよ。こういう風にさ、敵を引きつけて剥ぎ落としてさ、それから八津の走り出すタイミングに合わせてさ!
今日一番気持ちを込めてハーフラインと相手GKとの間にポトリと落ちる様なバックスピンをかけたロングパスを蹴る。
完全に前がかりになっていた江戸学はとっさに対応できない。オフサイドぎりぎりで抜け出した谷津は完全に独走態勢となる。今日一番の歓声が地鳴りの様にグランドに響く。
前に出ていたGKを簡単に振り切り、谷津は大声援を全身に受けながらドリブルで相手ゴールへ走る。そしてボールを江戸学ゴールに流し込む。我が校のサポーターがグランドになだれ込みそうになる。体育祭よりも凄い歓声に疲れが取れる気がする。
まだ同点なのに、俺以外の選手が八津に飛びかかって歓喜する。ベンチも全員抱き合って喜んでいる。俺は親父に親指を立てる。親父は首を振りながら小さく拍手している。ゴール後ろの水月は一緒に観ている吉村円佳や菊池穂乃果らと抱き合って飛び跳ねている。
相手ベンチのジョーさんが俺を睨み付けている。そして近くのSBを呼び、何やら指示を出している。最後まで油断は出来ない。逆になんとかもう一点取る糸口を見つけ出さねば……
しかし残りの時間は同点にされ目を覚ましたが如く、江戸学の連続攻撃に対応するのでいっぱいいっぱいだ。脇目も振らずミドルシュートを放ち、こぼれ球を押し込まんとボランチまでがゴール前に殺到する。その勢いに完全に受け身に回ってしまい、攻撃どころではなくなる。
ベンチから残り二分、と伝えられる。親父じゃないが、明確なクリアが必要な時間帯だ。相手のクロスが入る。ヘディングでクリアする。それを拾われミドルシュートを打たれる。俺は逆を突かれるがGKの三輪が好反応でシュートを止める。こぼれ球を俺は躊躇なくピッチ外にクリアする。
そのボールが江戸学応援グループの誰かに当たったのと同時に、試合終了のホイッスルがピッチに鳴り響いた。
Dチームとはいえ、ほぼ全員がクラブ育ちの江戸学に、引き分けた。
我が校関係者とベンチの熱狂ぶりとは対照に、ピッチの後輩たちは静かに整列する。挨拶を交わした後、全員で江戸学ベンチに向かう。
「ケイさん…… 人生で一番… 疲れました…」
「サッカーって… こんな事、あるんっすね… 江戸学相手に…」
「あの個人技… 当分夢に出そうですよ…」
各々が異なる感想を持ちながら、江戸学ベンチに、ジョーさんに挨拶する。
「ハッキリ言って。お前一人にやられたわ、クソが…」
ジョーさんがムッとした口調で俺に呟く。
「お前、大学でもやれよ。いいトコまでいくよ。俺が保証する。」
俺は苦笑いしながら、
「いや、ジョーさんに保証されても…」
ジョーさんが俺の頭を小突きながら、
「ったくすっとぼけた野郎だ。それより、ウチの女子に怪我させたんだから、ちゃんと詫び入れてこいよ!」
ハッとなり、最後のクリアした方向を見ると軽い人だかりができていた。
人だかりを分けて入ると、制服姿の女子が横向きに倒れている。周りの子に聞くとスマホを弄っていたらしく、ボールを避けることもなく頭部に直撃したとの事。意識は朦朧としており、立ち上がることが出来ないという。
救急車は既に呼んだという。俺はしゃがみ込んで横顔の彼女を覗き込み……
うそ…… だろ…
里奈が、そこに、いた……
* * * * * *
間も無く救急車がやって来る。グラウンドの脇の普段は解放されない門から直接グランドに救急車は入って来る。顧問の山寺先生とも相談し、俺と先生が救急車に一緒に乗り病院へ行くこととなる。
救急車に揺られながら横たわる里奈を眺める。元の世界では来年の夏頃に池袋の予備校で邂逅する筈であった。それが何故今…… しかもこのタイミングで…
初めてこいつとあった時のことを思い出す。俺の授業を微塵も聞いていない様子が思い浮かぶ。俺の授業が徐々に評判になり、生徒たちの信頼が重なるにつれ俺の方を向く様になり、高校卒業時には彼女を気取っていた。
そして今年の夏。俺の子を孕んだと告げられる。
正直言って、好きな気持ちは全くなく、まあよく懐いている妹みたいな感じだった。いや、妹を孕ませないわな……
そんな里奈が、高二の里奈が今俺の目の前に横たわっているのだ。
水月の事といい里奈の事といい、元の世界とは大きく様相が変わってしまっている。でも不思議なのは、このままでは絶対会うことはないと思っていた里奈とこうして出会った事だ。これは俺という存在に里奈が不可欠なのであろうか。そう疑ってしまうほどの衝撃の邂逅であった。
十五分ほどで病院に到着し、里奈はERに搬送される。山寺先生が事務手続きを取っている間、俺は里奈の友人に教えられた里奈の母親の携帯に連絡を入れる。何度電話しても留守電になってしまうので、里奈が怪我で入院している事、これを聞いたら俺に連絡して欲しい事、を吹き込み電話を切る。
この後レントゲン、頭部CT検査などの為二時間程かかると言われ、俺と山寺先生は病院のカフェで時間を潰すことにする。その間に里奈の母親から連絡も来るであろう。
「しかし災難だったなぁ。お前も…」
「いえ。あんな強くクリアする事もなかった訳ですし。なんの言い訳も出来ませんよ。」
「それにしても。良い試合だったな。俺サッカーよくわかんねえけどさ、」
「はあ。」
「下条があんな悔しそうな顔してたんだから、間違いない。」
「ですかね… 先生は下条さんのことよく知ってるんですよね?」
「ああ。俺が顧問になって三年目だったかな。まあ一年から生意気な奴だったわ。サッカーは俺みたいな素人が見ても滅茶苦茶上手かったけどな。お前とは違う上手さだったな。お前は守備で頭使って上手にやってたけど、アイツはー」
「ゴリゴリのFWですよね。去年とか良く遊びに来てはイジメられましたよ…」
「そんなアイツ、お前のことスッゲー褒めてたんだぞー」
「はあ…」
「なんでこいつこんな所でやらせてんですか、クラブチームとかでやるべき奴ですよって。」
「ははは…」
「試合の後で、アイツになんて言われた?」
「大学でもやれよって。」
「そっか。で? どうするんだ? 大学の体育会でやるのか?」
「うーーーん… まだわかりません…」
「まあな。まずは大学受かってからだよな。そうだよな。でもまあお前なら志望校受かるだろうよ。なんてプレッシャーかけ過ぎか? ははは。」
「ま、ボチボチやってきますよ。」
「ははは。日本史の山地先生がよ、お前とお前の彼女の事、無茶苦茶褒めてたぞ。すごいレポートだったってよー」
「だーかーらー、彼女じゃないって。付き合ってないって…」
「そうなのか?」
「あ…いや…その…」
「ったく、素直になれよー」
「まー、そうですね。ええ。好きですよ、星野のこと。はい。」
「おっ! いいねえいいねえ、青春じゃのう。ったくお前あんな可愛い子と…許さんー」
「ったく教師がナニ考えてんのさ…」
「それよかよ、この里奈ちゃん? この子もメッチャ可愛いなオイ! ちょっとビッチっぽいけど、ウチの学校にはいないタイプだよなー」
「今の発言をアレで呟いていいっすか?」
「はっはっはー いや、やっぱお前変わったわ。うん。」
サッカー部の顧問にまで言われてしまった。ま、そりゃ大学二年間分は精神的に大人な訳でして…なんて言い訳も出来ずにアイスカフェラテを啜っていると、俺のスマホが振動する。
電話口の里奈の母親は言葉遣いもぞんざいで投げやりな感じだ。命に別状ないならとっとと家に帰らせろ、ただキチンと俺が家まで送る様に、との事。わかりましたと言うと一方的に電話が切られた。そういえば元の世界で里奈の親と話したことはない。こんな家庭環境で育ったのか、と何となく里奈に少し同情する。
先生のスマホに着信が入り、緊急救命の先生から検査結果が大体でたので診察室まで来て欲しいと言われ、俺たちはカフェの席を立った。
外はもうすっかり暗くなっており、昼間の蒸し暑さもだいぶ和らぎ遅い秋の訪れを告げる虫の音が病院の中庭に鳴り響いていた。