鎌倉
夏休みはあっという間に過ぎていく。
俺にとっては二度目の高三の夏。勉強内容もかつてやった上に今は塾講としての知識が積み重なり、予備校の小テスト、実力テストの成績は凄い事になっている。
「早乙女くん、凄いね… 総合で三位じゃない。この夏で相当力つけたね…」
「日本史が特にねな。お前のオススメ勉強法が大当たりだったわ。やっぱ興味持つといいな。」
星野が照れつつも本当に嬉しそうに、
「あはっ そう言ってくれると鼻が高いよ。私も頑張らないとっ」
「でも英語のリスニングとかメキメキ成績上がってんじゃん。」
「それなっ! 早乙女くんのアドバイスのお陰だよ。」
もはや俺たち顔パス?な位、駅前のファミレスで毎晩予備校が終わった後、夕食をつつきながら語り合う。
勿論、『同志』として。決して俺の想いを顔に出す事なく。しかしその想いは日毎に増していく。そして輝いていく。未だ嘗て経験のない、恋。二十歳にして、いや十七にして俺は毎日が楽しくて仕方がない生活を送っている。
最近夢を見るようになった、目が覚めるとそこは病院のベッドの上で里奈がでかい腹を抱えて俺を詰りまくっている、という夢。車廃車になっちゃったじゃん、どうすんの? 保険ちゃんと出るの? この子あと半年で産まれんだよ、仕事ちゃんと出来んの?
「うわあーっ」
目が覚めると、ちゃんと俺の部屋だ。写真立ての仲間が微笑んでいる。大量にかいた汗をタオル地の掛け布団で拭い、時計を見る。今日は始業式、高校が始まる。
教室に入ると懐かしの仲間が集まって来る。女子も何人か…
「ういっす、ケイ。ところでオマエ、星野さんと付き合ってるってホント?」
茶髪ロン毛の小宮卓。一浪後慶應に入り、テニスサークルで遊びまくっている。
「予備校で仲良くしてるって! マジで?」
間旬。同じく一浪後に東北大に進学。最近会っていない。元気だろうか…
「うわーー俺狙ってたのにー くっそーー」
……あれ。名前出てこない… 確か現役で立教大に? あれ?
「でも美男美女、メチャお似合いじゃね!」
駿河駿太、サッカー部。こいつには今から煩くマスクを…
ここまでは二年前と同じ展開。
「付き合ってるっていうか、『同志』って感じ。色々な科目を教え合ったり。掛け替えのない仲間だわ。」
皆、キョトンとした顔になるー
「なんか… ケイ大人な発言…」
菊池穂乃果。若っ! 現役で聖心。うわー、若いわー
「てか、おっさん臭くね?」
出たーー、川越のオカン、吉村円佳! 変わってねーー
思わず俺はプッと吹き出す。
「実際そーだし。それよりオマエら宿題やってきたかー?」
「あー、日本史の自由研究なー、受験にも役立ちそうだから常楽寺行ってきたよ。」
この真面目発言! ああ、洋輔… お前だけは俺が絶対守る。絶対にバイクの事故から…
「俺もぜーんぶコピペったわー。この時期やってらんねーっつーの、こんな事マジで。」
黙れ駿太。くだらないこと言ってないで、今からマスクを…
え……日本史の自由研究の課題? 何それ……
「なんか口聞いた事ない子からやたら話しかけられて… あー、疲れた。」
心底しんどそうに、いつものガストで星野美月が深い溜息をつく。
「やっぱり迷惑なんじゃない。私が近くにいると?」
「それは無い。だって俺たち『同志』だろ?」
彼女はふっと微笑んで、
「そうね。まだまだ成績伸ばしていかなきゃ。うん。伸び代だけが私の取り柄かも。」
「自分で言うか! いや、逆にお前に迷惑かけてないか? 俺と付き合ってるとか噂されて?」
「まあ擦れ違う下級生に影踏まれたりする程度だから。別に。」
「…ならいーけどな。それより自由研究! すっかり忘却の彼方だったわー」
「私も… すっかり忘れてたよ…」
「星野って結構抜けてるとこ、あるよな。」
「何その彼氏ヅラ! ウケるー」
夏休みの終わり頃から彼女の口調が打ち解けた感じになってきて、とても話しやすい。
「で、どーする? しっかし何故今頃鎌倉時代の仏像について、を…」
「それねー。山地先生、その道の権威なんだっけ? よく美術展の解説も書いたりしてるんだってね。」
「そう。ホントは凄い方なんだよ。これは鎌倉行って来るっきゃねーかなあ…」
本気で行く気はなく、軽口を叩いたつもりだったのだが…
「マジで? 行っちゃう? 鎌倉!」
目を望月如く丸くしながら、身を乗り出す星野。俺は顔が充血するのを感じる。
「え、星野乗り気? ……行っちゃう?」
深く頷く星野。俺の鼓動がファミレス中に響いている。
山地先生の凄さは塾講を始めてしばらくして思い知った。鎌倉時代の仏像の権威で今でも地方の廃屋で見つかる仏像の鑑定などを依頼される程だそうだ。授業は一言で『眠くなる』。だがよく聴くと現役高校生には勿体無い程の内容をボソボソと語られる。
そんな先生へレポートを書く機会。日本史の塾講としては逃す手はあるまい。それに…それ以上に星野美月との鎌倉。まるで初デート前の高校生の様に俺は浮かれまくる。あ。俺、今、現役高校生…
川越から鎌倉までは東武東上線で池袋まで、池袋から湘南新宿ラインで大船へ、あとは横須賀線で鎌倉駅。約一時間四十五分程の行程である。初めは何を勘違いしたか、川越ICから圏央道を通って、などと考えていた。俺今、高校生ですから、免許は来年取得予定ですから。
スマホの乗継アプリのそのページをスクショしてラインで星野美月に送る。今日の午後、彼女とIDを交換して初めて送るメッセージである。
元いた世界では一緒に鎌倉どころか予備校の往復以外に二人で出かけることなんてなかった。従ってラインのやりとりも業務連絡的な事ばかりであった。
既読がつくのをこれ程待ち焦がれることなぞ無かった。
鎌倉に行くのは子供の頃の家族旅行以来である。正直どこに行ったか全く記憶にない。スマホで色々と検索し、大まかな行程を考えてみる。
自由研究の課題が『鎌倉時代の仏像』なので、東慶寺は外せまい。ここには釈迦如来坐像、水月観音菩薩半跏像などの有名な鎌倉時代の仏像がある。あとは鎌倉国宝館か。ここにもこの時代の仏像があった筈だ。すぐ近くに鶴岡八幡宮があるな。要チェックだ。長谷寺の鎌倉大仏も仏像と言えば仏像なので、一応ここもチェック入れておこう。
グーグルマップでそれぞれお気に入りにチェックすると、見事に三角形を描いていた。車なら簡単に廻れるのだが、これを電車や徒歩となるとよく考えねば。九月に入ったとはいえ酷暑は未だ続いている。気をつけねば熱中症もありえるな……
気がつくと夜は更け、十時を回っている。ラインを見るといつの間にか既読が付き、返信が入っている!
『調べてくれてありがとう。明日何時に何処で待ち合わせようか?』
慌てて返信をする。
『今、明日の行程を考え中―― 取り敢えず九時に川越駅のスタバ周辺でヨロ』
瞬時に既読がつく。自然にニヤけてしまう。
『ありがとう。楽しみだね。おやすみーー』
おやすみ、のスタンプを押す。
未だ嘗てない胸の暖かさに冷房で冷えきった部屋の温度が上がった気がする。
それからグーグルマップと鎌倉の街の情報に首っ引きとなり、一応コースのイメージが出来上がって時計を見ると既に三時を過ぎていた…
部屋の電気を切りベッドに入り込む。そう言えば女子とのデートで前日これ程頭を悩ませるのは初めてだ。大体その前日は如何に相手をラブホに連れ込むか、どうすればヤレるか、ばかり考えていた。
これはデートではない、自由研究の共同作業だ、そう言い聞かせて目を瞑るのだが、全く睡魔が近寄ってこない。瞼の裏に浮かぶのは星野美月のしなやかで細身の裸体である。
いい加減にしろ、アイツは今までの女とは違う! ヤルだけの相手なんかじゃない! そう自分にどれほど言い聞かせただろう。然し乍ら俺の下半身はそれを硬くなに否定する。彼女に謝りつつそれを鎮める作業を三回ほど行う。
ようやく頭と下半身が彼女に対する認識を改めた頃、窓の外はすっかり明るくなっていた。
スマホの目覚ましにビクッと反応する。結局熟睡することはなくまんじりと朝を迎えてしまう。外は呆れるほどの快晴だ。気温はどれ程上がるのだろうか。
冷たいシャワーを浴びるもスッキリしない。こんな事は初めてだ。一体俺に何が起きたというのだろう……
食欲も無いまま母親が作ってくれた朝食をつまむ。
「夕ご飯はどうするのケイちゃん?」
「あーー、どうすっかなーー 食べてくる、かも……」
「夕方連絡ちょうだい。って、あなたすごい顔してるわよーーちゃんと寝たの?」
「なんだかなーー 全然寝れんかった。」
「今日も暑くなるんだからーー倒れないように水分はちゃんと取るのよ。」
「わかってる……」
「ふふ。で、今日は誰とお出かけ?」
「学校の友達。」
「女の子?」
「そう。」
「へーー。トモダチ、ねーー 何さんって言うの?」
「星野。星野美月。」
「あら…珍しい。」
「は、何が?」
「ケイちゃんが名前教えてくれるなんて えーー、なになに、そーゆー相手なの?」
「さーねー」
「なになにーー、みづきちゃん、へーー、今度連れていらっしゃいよーー、母さん会いたいわーー、どんな子なの、写真は?」
何俺より先に下の名前呼んじゃってんだか… 食いつくお袋を軽くいなしつつ朝食を終え、半分ボーッとした頭のまま家を出る。
* * * * * *
暑い。クソ暑い。朝から積乱雲が湧いている。風も吹いておらず、バス停で立っているだけでクラクラしてきている。
天気予報では鎌倉地方はにわか雨の可能性はあるものの晴天。予想最高気温三十八度! この全くの寝不足の俺が一日耐えられるだろうか。もっと早くベッドに入れば良かった、そう反省するもきっと同じことであったろう。
土曜日のバスはそれ程混んでおらず、後部の座席に身を沈める。バスが発車し窓の景色が動き出す。見慣れた風景なのだがいつもより輝いて見え目と脳に眩しい。そして胸が苦しい。
ジーンとした頭を解すべくこめかみを揉んでみる。星野美月とのデート。期待と不安でさっき食べた朝食が喉にせり上がってくる。
俺、実際は二十歳の俺。付き合った彼女は七、八人。遊びも入れれば十人以上の経験を持つ俺。そんな俺がデート前日ほぼ一睡も出来ず、不安に慄いている。冷房が効いているバスの中なのに手汗が止まらない。
こんな事は人生で初めてだ。こんな姿の俺を星野美月はどう思うだろうか。そう考えると不安が増幅されバスを降りたくなる。
そんな思いと裏腹にバスは川越駅に到着する。
気持ちと身体が正反対の動きをしている。集合時間にはまだ余裕があるのに、脚が止まらない。汗が吹き出る。それでも脚が止まらない。まだ彼女がいるはずないのに……
星野美月が、当然のようにスタバの前に立っている。
白のワンピースが眩しい。細い脚と歩き易そうなスニーカーがよく似合っている。唇にルージュは初めて見た。軽く施された化粧が俺の心を揺り動かす。やがて俺の脳が急に動き始める、さっきまではバッグっていたのに……
「あれ。早乙女くん、早いね!」
「星野もーー さては子供の遠足前みたく、夜寝れなかったんだろ?」
「えっ…… ま、まさか… よく寝ましたけど何か?」
ギョッとした顔が可愛い。星野美月よ、お前もか……
* * * * * *
東武東上線の池袋まではお互い照れと緊張でロクな会話が成立しなかった。何しろ彼女がいつにも増して無口なのに閉口してしまう。話題を振ってもありきたりな返答。話が全く続かない。
池袋に着いて湘南新宿ラインに乗り換える。北鎌倉駅まで約一時間。このままでは……
「なあ、星野美月。」
「な、なに?」
「俺たち今日、なんか変じゃね?」
下ばかり見ていた彼女が初めて顔を上げ、
「だってーー 早乙女くんは慣れているからこういうのーー でも私――」
顔を赤く染めながら彼女は俺の目を見る
「私、男子と二人で出かけるの、初めてなの。」
星野美月の一言に胸を撃ち抜かれた!
「ま、マジか? って、嘘だろそんなの、」
「本当。マジ。」
「ってお前、本当に今まで付き合った彼いないの?」
「何度も言うけど、一人もいませんっ」
「マジで? みんな結構お前のこと狙ってるけどーー」
「んーー、私どうやら好かれるより好きになるタイプかも。」
「何それって告られても心動かないってこと?」
「好きでもない人に告られてもーー全く動かないなあー」
「さては、惚れてる奴いるとか?」
「……早乙女くんは? 今彼女いないの? 好きな子は?」
「何食いついてきてんだよ! 今お前の事聞いてんだけど!」
「あー、誤魔化した! さてはいるんだなーー」
「いねえし。そんな暇ねえし!」
「鈴木さんとは続いてないの?」
「それいつの話だよとっくに終わってるよ去年だよ知らねえよ。」
「田中さんとは?」
「田中とは付き合ってねえよちょっと一緒に遊んだだけだし別に今は連絡もとってねえし。」
「何その必死の弁明。一番最近の彼女は誰だったの?」
「ハア? それお前に言うと思う?」
「二年生のブラバンの子でしょ?」
「怖えよお前何で知ってんだよ!」
「だって、早乙女くんの話っていつも女子の中で話題になっているからーー」
「は? お前いっつも一人じゃん、そんなこと話す友達いんのかよ?」
「噂っていうのはね、友達じゃなくても共通の話題となる事なの。」
「それ言うなら、お前だって去年うちのサッカー部の吉田に告られただろ、そん時付き合っている人がいるから、って断ったんだってな?」
「んーー、覚えてない。」
「は? お前、吉田いい奴なのに… 覚えてない、だと…」
「だって。それって文化祭前でしょ、なんか急に五、六人から告られてーー誰が誰なんて覚えてないわ。」
「……やるじゃねえか…… 恐るべし伝説の星野美月……」
「何よ伝説ってーー どうせロクでもない噂話でしょ?」
「聞きたい? お前の都市伝説、聞きたい?」
「都市伝説って…… ホント馬鹿らしい。で?」
「聞くのか? マジで聞いちゃうのか?」
星野が呆れ顔で、
「ねえ、北鎌倉って次じゃない?」
* * * * * *
緑に囲まれた北鎌倉駅に降りる。思ったよりも暑くない。目を閉じて濃い緑を胸いっぱいに吸ってみる。朝の不安と緊張が嘘みたいだ、鎌倉の霊気に触れたせいなのだろうか。
彼女は鎌倉に来るのは中学の遠足以来と言う。俺と違い彼女は克明にその遠足を憶えており、建長寺、長谷の大仏、鶴岡八幡宮などを回ったらしい。
駅を出て最初の目的地の東慶寺に向かう。
「このお寺って、江戸時代『縁切り寺』で有名だったんだよね?」
「その通り。群馬の満徳寺と共に幕府公認の縁切り寺だったんだ。今で言う女性側からの離婚を取り持つ家庭裁判所みたいな。」
「へーー。早乙女くんよく知っているね。ひょっとして調べてきてくれたの?」
日本史塾講としては常識なんだけど……
「これ受験に出るぞ!」
「マジ? 憶えておこー」
電車でのカップルムードは一変して修学モードに。そして知らぬ間に俺は塾講モードとなっており……
「これから拝観する仏像、特に『水月観音坐像』はしっかり見て欲しい。その名の通り、水面に映った月を見る姿なんだけど、何故か日本では鎌倉周辺でしか見られないんだ。その辺りをレポートに織り込めば、先生も納得のレポートになると思うぞ。」
「うん、わかった。楽しみだよ。なんかいつの間にか日本史の成績も早乙女くんに抜かれちゃったねーー」
「お、お前のお陰だって! さ、行こうぜ!」
この仏像は事前に拝観予約が必要だった。そのことを彼女に話すと
「早乙女くんの人気の秘密がわかったよーー マメ! うん、それはモテるわーー」
「そんな事ねえよ。ただ俺も観たかっただけだしーー あ、こっちだ星野。」
正直仏像に興味は無い。むしろこの若さで興味がある方がどうかしているのでは。だが、この水月観音坐像を一目見て、唸り声をあげてしまうーー
一言で言うと、『可愛い』。これまで何となく見てきた仏像の中でも、ダントツに可愛いのだ! しかも名前が『水月』って、星野美月の美月と被ってないか……
「なんか、すごくキュートだよね! こんな仏像初めてだよ。」
「だよな。これは京都では見られないわ。鎌倉新仏教らしさが垣間見れるわーー」
「ねえ先生、これも受験に出ますかね?」
「出ることを祈ろう。なーむー」
二人で肩を揺らしながら笑いを堪える。そんな俺らを見つめる仏像が笑顔で見守ってくれている気がする。
俺はレポートには鎌倉国宝館の運慶作の初江王坐像を書く予定だと言うと、彼女はこの水月観音坐像を書きたいと言うのでどうぞどうぞ、と勧める。
北鎌倉の山寺であるこの東慶寺を二人で散策してみる。話題は主に鎌倉時代の話。まさか女子とこんなに真剣に鎌倉仏教について語る日がくるとは思いもよらなかった。
流石、読書が趣味の彼女のこの時代の透察は深く鋭く、現役日本史塾講の俺も知らない事も多々あったりする。
これは最早『デート』では無い。『同志』による切磋琢磨の旅だ。相手の知らない事を語り、己の知らない事に耳を澄ます。どんどん己が研かれていくのが分かる。それは彼女も感じてくれているのだろうか。
夢中で話し続ける彼女を見つめる。これまで付き合ってきた女子達との時間が途轍もなく無駄な時間であった事に気付く。何故もっと早く星野美月と……
思いの外東慶寺で過ごす時間が長かった。いや俺ら的にはそんなに時間が経過しているとは思いもよらなかった。時計を見ると、既に一時を回っていた…
「本当はこの後建長寺、鶴岡八幡宮、それから鎌倉国宝館と思ってたんだけど……これは全部回るのはキツいかも。腹も減ったしーー」
「そうだねーー お蕎麦、食べたいな。」
「蕎麦…… やっぱ地味だなお前…」
と笑いつつ、俺たちは鎌倉街道を若宮大路に向けて歩き始める。この辺りは緑が多く木陰が心地よい。空を見上げると変わらぬ晴天に聳り立つ入道雲が眼に眩しい。
鎌倉街道沿いの蕎麦屋に入る。高校生の身分では不相応な店構えとお値段の店だ。土曜日の昼下がり、観光客でそれなりに混んでいるが十分ほど待つと席に通される。
俺は天麩羅蕎麦を、彼女はとろろ蕎麦を注文する。
「早乙女くん、お蕎麦なんかじゃ足りないでしょ? 運動していたし。」
「あーー、でも最近運動不足だしーー、こんなもんでしょ。」
「やっぱり、優しいね、モテヲ君は。」
「今日はやけにそこに食いつくな?」
「だって… 私の… 初めての男子とのお出かけの相手だし…」
「そっか、俺が星野の初めての男――」
「なにそれ! いやらしい! 言い方!」
「いや、俺もお前が初めてだよ。」
「へ……な、なにが?」
顔を赤くして星野美月が上目遣いで俺を見る。
「一緒にいて、自分が成長するって言うか、高まるって言うか… 影響を受ける、って言うか刺激を受けるって言うか…」
「あ、それそれ! 私もすごく感じている。お寺を男子と一緒に行ってどうなるかと思ってたんだけど。」
「どーなると予想してたんだよ?」
「んーー、それは『知らぬが仏』よ」
出てきた蕎麦を啜り、キッチリと割り勘にする。正直味は憶えていない。それぐらい俺は話に熱中し、星野に夢中になっていたのだ。
外の暑さに反比例しかなり懐が寒くなる。俺も彼女もバイトをしている訳も無く、小遣い内でのやり繰りな訳で、タクシーの様な贅沢は出来ない。徒歩で鎌倉国宝館に向かう。途中切り通しの跡などを見てはそこで語り合ったりしているうちに、目的地に到着する。
木造初江王坐像は元々は円応寺が所蔵していたのを鎌倉国宝館に寄託したという、国重文の彫刻らしい。
運慶の作、ではなく慶派の流れを汲む仏師の幸有という人の作だということが判明しているようだ。
実際に見てみるとその迫力に思わず息を飲んでしまう。疚しい事があれば即座にそれを見抜かれてしまいそうだ。そんなオーラをこの仏像から感じてしまう。
「初江王かあ、初めて知ったよ。地獄の十王の一人なんだね。ところで早乙女くん…」
「なに?」
「初江王って、十王の一人だから、『仏』ではないのでは? この像は『仏像』ではなく『地獄王像』なのでは? 従って、課題の対象とはならないのでは?」
「そ、そんなここまで来て……正に『知らぬが仏』だな…」
地獄の王の前で肩を寄せ合い忍び笑いをしてしまう。俺たち地獄に落ちるのだろうか……
国宝館を出て、これで二人の課題は終了だ。あとは帰宅後それぞれレポートを書き月曜日に提出すれば良い。
日は暮れようとせず時計を見ると三時をちょっと過ぎたくらいだ。今から帰るのはちょっと早い、と考えていると。
「『腰越状』の腰越の海が見たい。」
とタイミング良く彼女が言い出したのでマップで調べると、鎌倉から江ノ電に乗れば『腰越』に行けることが分かり、駅に向かう。
座席に座り車窓の景色を眺めているうちに意識が遠くなっていく。いかんいかん、ちゃんと起きていなければ、とシャンと背筋を伸ばすと、不意に肩に重みを感じる…
そっと隣を伺うと、星野美月が俺の肩に頭を乗せ船を漕いでいる。顔を少し近付けるとシャンプーの匂いが堪らなくいい匂いである。
俺は彼女の頭に左の頬を寄せ、そのまま目を閉じる。
数ヶ月前の憂鬱な日々が嘘のようだ。好きでもない相手との将来、自由なき日々の生活、経済的な不自由の危惧。そんなことに頭を悩ませ苦しんでいた日々に比べ、今この瞬間の幸せはなんなのだろう。
目を閉じたまま彼女の感触を、彼女の匂いを脳裏に刻み込む。いつまでこの幸せが続くかわからない。いつ元いた世界に引き戻されるかわからない。ならばせめて今この瞬間を…
スマホが鳴った。俺のではなく、彼女の。目を開けると次が腰越駅である。
俺にもたれていた彼女がハッと顔を起こし俺を見上げる。トロンとした眠そうな目が潤んでいる。
「ゴメン、落ちてたーー」
「てか、お前よくアラームセットしたな……危なく藤沢まで行ってたわ。」
「やっぱ早乙女くんも落ちてたんだーー良かったー」
電車が止まり、俺たちは腰越の駅を降りた。
神戸橋の交差点を左折し、川沿いに歩いて行くと目前に相模湾が見えてくる。どちらともなく駆け出して、腰越海岸のビーチに入る。受験生には縁がなかった場所だ。自然と心が踊る。
「海なんて超久しぶりだよーー 気持ちいい!」
さっきまでの眠さは互いに吹き飛んだようだ。今はただ海からの風を胸いっぱいに吸い込み、傾きゆく太陽を江ノ島越しに眺めている。
真っ青な空と海。吹き抜ける海風。
そして隣の星野美月。
嬉しそうに海を眺める彼女は今何を考えているのだろうか。
俺たちは水際をブラブラ歩いている。彼女が先頭で俺はその少し後ろを歩いている。互いに何も言わず、ゆっくりとした足取りで初秋の夕暮れの海を感じていたその時。
突如、一羽のトンビが彼女の目の前を、本当に彼女スレスレに、通り過ぎていった。
「きゃっ!」
彼女は急に後ろに飛び下がる。もし俺がもう少し距離を開けていたら見事なバックステップとなっていただろう。だが残念なことに、俺との距離はそこまでのスペースを許さず、彼女は後ろ向きのまま俺と衝突してしまう。
そう言えばバスケで県大会出場、と言っていたな。道理でこの素早さ! よし、軽く受け止めてやろ……
ガッツーン
「いってーーー」
顎に衝撃を受け、俺も仰け反ってしまった。彼女の動きが余りにすばしこかった為、避けることはできずそのバックステップのエネルギーがもろに彼女の後頭部経由で俺の顎に到達した。
目の前が一瞬白くなり、次の瞬間俺、と彼女は砂浜に仰向けに倒れ込んだ。
運悪く、水際を歩いていた。なので仰向けの俺たちに波が覆いかぶさるのも必然と言えば必然だ。それも砂混じりの、めんどくさい波が……
「ちょっと…… ゴメン… 大丈夫? 早乙女くん?」
「イテテテ… お前、頭平気か?」
「頭、平気かって、この状況で喧嘩売る気?」
「よせ、頼む、顎痛えんだ、笑わすなーー」
「頭固いんだ私。それより…… 砂だらけだね、あたし達…」
「それなっ お前も……」
彼女の白のワンピースが砂混じりの水で… 下着が…透けていて……
彼女は俺の視線でそれに気付き、サッと顔を赤らめる。
「ど、どうしよう… このままじゃ帰れない…」
この状況は全くの想定外。車で来ていたなら対処は簡単だが、これから電車でこのまま帰るわけにはいかない。とすると、一体どうすれば…
ふと元いた世界での事を思い出す、名前も忘れた女子とこの辺をドライブして、その後入ったとこに……
俺は落ち着いて彼女に問いかける
「星野。冷静に話を聞いてくれ。」
星野美月はペタリと女の子座りで、波の届かない砂浜の上で、俺をじっと見つめる。
「この近くに、洗濯機、乾燥機付きの部屋があるホテルがあるはずなんだ。」
「…は?」
「落ち着け。別にそこでお前をどうこうしようなんて思っていない。ただ現実的にこのまま電車に乗れるか俺たち?」
俯きながら首を振る。
「なら、シャワーも浴びれるし、服も洗濯して乾かせる。どうだろう、他にいい案があるかお前に?」
「違う……よね?」
「何が?」
「これも、早乙女くんの『プラン』じゃないよね?」
「断じて違う。それに海が見たいって言ったのお前だし。」
「あっ… そっか。」
少し不安げな笑みを見せる星野美月に
「だからこれは緊急事態なんだ。こんな時に…お前の信頼を打ち消すような事……ぜってーしねーよ…」
「そうだね… うん、ゴメンね… ちょっと疑っちゃった」
「よし。遅くならないうちに、行くぞっ!」
「うん、行こ…… プッ」
「へ? 何?」
「早乙女くん…… お尻…… 下着丸見え!」
まあそうだろうな。でもな星野、お前もな……
* * * * * *
国道から少し入ったところに記憶通りのホテルはあった。セルフランドリー完備と謳っている。ここに違いない。だが、問題は…
「正直に言おう。星野、現金いくらある?」
「え、私、えーと、五千円、くらい…」
良かった。旅の恥はかき捨てだ。男の面目なぞ糞食らえだ。俺の財布の中のちょっと湿った三千円と星野美月に借りた五千円で俺たちはこのホテルに九時まで滞在する権利を買い取った。 しかしまさか星野美月とラブホに入ることになるとは……昨夜、若さを三回ほど放出しておいて本当に良かった。
本当に彼女はこのような場所は初めてな様だ。その挙動が凄まじく怪しい。俺の後ろに隠れつつも部屋を選ぶパネルを凝視し何か独り言をブツブツ垂れ流している。
エレベーターに乗ると身をギュッと縮め、苦虫を噛んだ様な顔になる。目的階に着き、ランプが点滅する部屋に入る。タバコ臭さが鼻につく。
部屋の片隅に乾燥機と洗濯機が設置してある。
「よし、まず俺がシャワー浴びてくる。そして洗濯機に服を入れる。次にお前がシャワー浴びて、洗濯機を回す。そんで乾燥。ま、一時間半位じゃね?」
「う、うん… わかった…」
俺は風呂場に行き服を脱ぎ、シャワーを浴びる。身体から潮臭さが落ちていく。同時に左肩に残った彼女の匂いも落ちていく……
薄っぺらなガウンを着、洗濯物を抱えて部屋に戻ると彼女はソファーに座りスマホを見ていた。ガウン姿の俺を見ると表情が一気に硬くなる。
洗濯機に服を放り込み、
「星野、お待たせ。服についた砂、よく落とせよ。」
「うん……」
そう言って風呂場に消えて行く彼女の後ろ姿を目で追う。
いつもと異なる不思議な気持ちに頭を傾げる。
いつもの様な高揚感、具体的に言ってしまえば『性欲』が全く湧いてこないのだ。それは多少のドキドキ感は否めない。だが、星野の裸を見たいとか星野と一つになりたい、具体的に言えば『ヤリたい』気持ちが心にも身体にも具象化してこない。
気になる女子――俺は本当に彼女が好きなのか? 逆にこれまでの経験を考える。今まで他の女子とこの状況になれば、思いはただ一つ、『ヤる』こと、だった。本当に好きでもない女子と『ヤる』ことしか考えられなかった。
では星野美月の場合――今彼女は全裸でシャワーを浴びている。もうすぐ俺が今来ている薄っぺらのガウンを裸体の身に纏いここに来る。性欲的には最高のシチュエーションである。
なのに俺は今、彼女の白いワンピースの汚れはちゃんと落ちるのか、そればかり考える。あとは……彼女がこの状況に辛い思いをしてないだろうか、心から心配している。
やがて彼女は想像通りの姿で現れる。部屋の灯りを暗くして有線のBGMをかけておく。彼女は自分の洗濯物を洗濯機に入れ、回し始める。
「星野、なんか飲むか?」
「あ、ありがと… つ、冷たいもの、ある…かな…」
俺は冷蔵庫を開け、冷えた日本茶のペットボトルを彼女に渡す。あり、がと、と俯きながらそれを受け取る。分かりやすく緊張している。
「洗濯終わったら乾燥機入れてーーあと一時間くらいだな。あの、星野――ゴメンな。」
星野美月がお茶を口にしながらこちらを振り返る。ガウンのボタンを一番上までキッチリかけている。
「え、何が?」
「いや、こんなシチュエーションに巻き込んじゃってさ。ホントゴメン。絶対、下心とかねーから、安心して。」
お茶をゆっくり飲み干しこちらを見つめる。さっきまでの哀しいほどの緊張は少しほぐれた様だ。
「早乙女くんが謝ることじゃないよ。逆にちょっと感謝してるかも。」
「は? なんで…」
「すごく、気を遣ってくれてるーー 大丈夫、信用してるよ。ありがとう。」
ホテルに入ってから初めての笑顔を見せてくれる。
「それよりさ。早乙女くん、慣れてますねーー」
「ちょ… 今それ言うかお前……」
「流石人気モノ! よくこーゆーところ、来るんだ? ねーねー?」
リラックスしたのだろう。そして急に変なテンションが上がってきた様だ……
「今まで何人くらいとしたの? えーいいじゃん教えなさいよー 誰にも言わないって。て言うか、言う相手いないし。」
「そう言うお前は? これまで何人だよ?」
胸を張って偉そうに
「いません。それが何か?」
「じゃあ、こんな感じで男と二人っきりになってーー危うくーーっていうのは?」
「ありません。ねえ、そんな軽そうに見えてた?」
「いや寧ろ鉄壁女子にしか見えねえんだけどーー実は逆に、っていうのを期待してたのだが、残念。」
「残念でした。」
「ところで星野って、好きな男とかいるの?」
話の流れでサラッと聞いてしまった。
「そうゆう早乙女くんは?」
「あれ今誤魔化してね? さてはいるんだろ? マジか! これ今学期の大ニュースじゃねマジで!」
「って今学期始まったばかりだし。それにもしいても言わないし。あ、テレビ見よう、丁度ニュースやってる時間だよっ」
確実に話を逸らす星野美月。二年前のクリスマスに手袋をプレゼントされ彼女の俺への気持ちを知ったのだが、実は既に?……
「ちょっと暗くてコントローラーよく見えないっ スイッチこれ、かな?」
「あん あん あん あん あん あーーン」
俺と星野美月は硬直する。おい。チャンネル変えろよ。おい。
「だめ だめ あん あん いく いく いくーーーー」
ゴクリ、と喉の鳴る音が隣から聞こえる。恐る恐る隣を見ると星野美月は目を大きく見開いて画面に釘付けである。おい……
「早乙女くん…… どうしてあの人、避妊具つけていないの?」
「それは… そーゆー表現の作品なんだろ。」
「これって公序良俗に反さない? この人たち捕まるんじゃない?」
「いやこれくらいなら問題ないだろう。『表現の自由』ってヤツだ。ほら江戸時代の浮世絵にも春画ってあるじゃないか、あれと一緒だ。」
「春画は取り締まられたわよ、公には。これは取り締まられないの?」
「一応、ボカしてあったし、大丈夫じゃないか?」
「あなたも、こういう事しているの? 避妊具もつけずに……」
「着けるし。って言うかよそんな事!」
「ふーん。早乙女くん…」
「何?」
「へ・ん・た・い」
「おいーー」
* * * * * *
帰りの電車の中で、ずっと俺たちは古今東西の表現の自由について語り合っていた。時にはスマホを駆使して。星野美月のスマホには何のフィルターもつけられていなかった、親の信頼度抜群だ。その恩恵を受け、相当豪快な表現の画像を見ながら批評しあったり。
横浜から混雑し始めると流石に声を潜め、二人で隠れる様にスマホを眺める。途中、若い女性が口技をしている表情が昔のアニメのモビルスーツみたいにあまりに変で、星野美月の笑いのツボに入ってしまい、俺にしがみつきながら笑いを堪えたりしていた。
考えてみれば高校生のカップルにあるまじき行為である。もし俺が親なら憤慨し二度と会うな、と怒鳴り散らすだろう。ましてや星野美月がこれ程この様な『エロ系』に食いついてくるとは思いもしなかった。
「それは興味はあるよ、フツーに。ただ、それを語り合う友達がいないからね。だからーー今日はメチャ楽しかったよ。」
「そっかーー。なんかそーゆーのに全く興味ありません、って顔して歩いてんじゃんお前。だからちょいビックリだわ」
「一応、心身共に健全に発達していますから。でも『へ・ん・た・い先生』には敵いませんけどね。」
「俺を性欲の権化と決めつけないでくれますか。いたってノーマルと自負しているのですが」
「ご両親の信頼は無いけれど?」
「お前が信用され過ぎだろ。」
「昔家のパソコンの履歴でお母さんに叱られなかった?」
「んっぐぐ お、お前何故それを…」
川越駅に到着する。時間は九時をまわったところだ。夕食に誘うももう遅いから帰るとの事。彼女の家はバスで十分ほどと言う。バス停まで送っていくと次のバスまであと五分ほどだ。バス待ちの人は他に五人ほどか。
「今日はありがとう、色んなことがあったね、特に後半。大変貴重な経験をさせてもらいました。」
「なんか、自由研究の課題調べに行ったのが遠い過去の様な…」
「それっ 私たち、何しに鎌倉行ったんだっけ?」
「な。『デート』だったんじゃね?」
星野美月の顔が真剣になる。
「早乙女くんは、そう思ったの?」
俺は目を逸らさず、軽く頷く。
「ねえ… 家まで歩いて… 送ってくれない?」
俺は微笑みながら深く頷く。
夜空を見上げると雲の合間から綺麗に月が見えている。蒸し暑さが今日初めて心地良く感じる。もし手を繋げたら… 蒸し暑さなんて一切感じなかった今日一日だったんだろうな。
ポケットに手を入れながら、昼間より確実に近い距離で寄り添い、俺たちは初秋の月夜に導かれ歩いて行くのであった、早く着きません様に、と祈りながら。