探偵は刑事を誘う/1
秋の朝のさわやかさを際立たせているのは柑橘系のベルガモットの香り。崇剛の自室。レースのカーテン越しに、ゆらゆらと揺らめいている柔らかな日差し。
朝食を終えた崇剛は深碧色のソファーに身を任せ、スマートに足を組み替え、冷静な水色の瞳には新聞の一面が映っていた。
シュトライツ王国――
国民の混乱は少しずつ落ち着いてきているが、未だ教祖の行方はわからず。
誌面から視線を上げて、新聞を折りたたみ、ローテーブルへとそっと乗せた。カチャッと食器が鳴る音がして、神経質な手で中性的な唇に近づけ、温かみを体の中へ落とした。
元教祖は魔導師だ。国には戻らないと言っている。追っ手がかかったとしても、どこまでも瞬間移動で逃げてゆくのだろう。
そのうち、新しい時代の流れ――様々な事件に埋もれ、人々の心から消え去って、こんな風に新聞を賑わすこともなくなるのだ。
書斎机に乗っている羽ペンが、窓から入り込む風でくるくると風見鶏のように回る。ソファーからふと立ち上がり、誘われるように窓辺へと崇剛は歩いてゆく。
カツカツとロングブーツのかかとを鳴らしながら、机に置いてある時計を見つめた。
十月二十日、木曜日、九時十七分十九秒。
朝食後に涼介に頼んで、十時に約束を取りつけています。
カーテンを開けて、高台から景色を眺める。三沢岳は今日も美しい曲線を見せ、堂々たる態度で横たわっている。その向こうにある、花冠国の首都を見透かすように、崇剛は窓枠に両手を乗せた。
脳裏に鮮明に蘇らせる。ブルーグレーの鋭い眼光と藤色の短髪。ミニシガリロの芳醇な香りと青白い煙。
あの男と崇剛は今日、おそらく節目を迎える。いつも冷静な崇剛にしては、そわそわと焦燥感に煽られそうになっては、デジタルな頭脳で切り捨てるを続けていた。
レースのカーテンを閉め、ローテーブルへ近寄って、神経質な指先でティーカップを取り上げる。大切な戦い前の杯を上げるように、アールグレーを飲み干した。
「そろそろ出かけま――」
身嗜みを整えようとする、ドアが不意にノックされた。
「はい?」視線を扉に集中させ待っていると、落ち着きのない声が返ってきた。
「す、崇剛、ちょっといいか?」
「涼介?」出かけると言っているのだから、玄関の付近にいるはずだが、
「どうかしたのですか?」
「俺も……その、幽霊が見えるようになったのか?」
何をどうしたら、その言葉が今出てくるのか――。
感覚的な執事の珍回答に、様々な可能性を導き出しながら、崇剛は話を聞こうと、
「中へ入ってください」
「あ、あぁ……」戸惑い気味に言って、開いたドアから涼介が顔をのぞかせた。
洗いざらしのシャツにホワイトジーンズ。アーミーブーツが二、三歩部屋の中を歩き、ドアの前で立ち止まったままになった。
「なぜ、そのように思うのですか?」
主人の冷静な水色の瞳は、執事の様子をそっとうかがう。もともと落ち着きのある執事ではないが、さらに焦りが色濃くにじんでいた。
「ダルレシアンが変なことを言うんだ」
執事と魔導師の間で何が起きたのだ――。
「どのようなことを言ったのですか?」
「一階に教会があるだろう?」
「えぇ」崇剛は神経質な指先で、後れ毛を耳にかけた。幽霊が取り憑いているのではないかと心配そうに、涼介は後ろへ落ち着きなく何度も振り返りながら、
「あのドアの前に、大きな鏡があったはずだって言うんだ。おかしいだろう? 昨日来たばかりなのに、そんなこと言うなんて……」
「そうですか」崇剛は千里眼を使って、涼介が気にしている背後を見たが、誰もそこにはいない。思い込みというものは、時に人を恐怖で縛りつけるものだ。
「二年前に来た俺だって、そんなこと知らないのに……。嘘をついてる気はしないんだ。だから、幽霊――」
幽霊ではない。なぜなら、屋敷には結界が張られている。悪霊や浮遊霊などが入り込む心配はゼロに近い。
いつも通りの感覚的な執事へ、主人は理論的に説明した。
「六年前に教会を作るまでは、あちらの場所は壁で、その前に大きな鏡は置いてありましたよ」
小さい頃、一階の廊下を歩いてゆくと、鏡があるせいで、子供心に妙な不安感に襲われた時が、崇剛には何度もあった。見えないものが見えてしまう千里眼だ。他の誰よりも、鏡に対しては警戒心を持っていた。
「ほら、やっぱり、知らないはずなのに知ってるって、まるで瑠璃様みたいだろう?」
歴史ある建物。話したこともない聖女の言葉を通訳された話を聞いて、涼介は寒気を覚えたことがたくさんあった。
「そうかもしれませんね」
百年前から、この屋敷に住んでいる聖女。彼女が言っているのならば、原因は明確だ。崇剛はあごに曲げた指を当て、思考のポーズを取る。土砂降りの雨のように、魔導師に関係するであろうデータを脳裏に降らせる。
「お前、本当に何があっても驚かないんだな」執事は冷静に考えている主人に皮肉っぽく言った。
「驚きませんよ」主人は優雅に微笑む。
幽霊だと言われても、驚く理由が見つからない。千里眼で見れば、正体はつかめるのだから。得体の知れないものだから、恐怖心が出るのだ。
「どうしてだ?」涼介は不思議そうな顔をした。
わからないことは何もない。それはただ、事実を見逃しているだけ。主人は今までの人生でよくわかっていた。しかし、事実として確定――明確にはなっていない。そういうわけで、執事にも理解しやすいように、崇剛が真実を解く鍵となる可能性が高いものを問いかけてみた。
「昨日、ナール天使に言われて、私の元へ来たとダルレシアンは言いました。昨日の今日で、なぜ彼は花冠語を話せるのでしょう?」
幽霊騒ぎからすっかり解放され、涼介ははっとした。
「言われてみれば、そうだな。たまたま学んだのか?」
「彼はあなたと違い、気まぐれで言動を起こすような人間ではありません。従って、花冠語を学ぶ必要性があった、と判断するのがよいかもしれませんね」
惑星の反対側の国で、生きてきたダルレシアン。教祖が花冠国を過去に訪れていたとしたら、学んでいてもおかしくはないが、崇剛の脳裏に記憶されている、新聞記事にはどこにもそんな話はなかった。
「じゃあ、理由はなんだ?」
涼介に言われて、崇剛の脳裏に可能性がいくつも浮かぶ。
ダルレシアンが個人的に花冠国を訪れた。
花冠語を話せる誰かから教えてもらった。
そうして――他の何かが起きているという可能性が0.01%――
冷静な水色の瞳は執事を真っ直ぐ見返した。
「今のところは何とも言えませんが、この世界にはたくさんの言語があります。その中で、花冠語を彼が選んだ理由と鏡があったことを知っていることが関係している可能性は非常に高いかもしれませんね」
「可能性が高い?」感覚人間である執事は、普段自分が使わない表現をされて、本当に不思議そうな顔をした。
「涼介、ダルレシアンに屋敷の中で他の場所を聞かれましたか?」
「いや、聞かれてない」
「そうですか」
気を失って運ばれた屋敷。目が覚めた時は知らない部屋の天井を見つけただろう。未知の場所であるのが通常。だが、トイレや食堂の場所を聞かない。それなのに、ダルレシアンは今まで住んでいたみたいに屋敷を歩いている――ズレが生じる。
目の前で起きていることは、どんなにありえない光景でも、それが起きる原因がある――それが、理論で現実を見据えることだ。
そんな主人とは対照的に、『不思議』という言葉で大雑把にくくってしまう涼介は、謎を解かずに同じ結論へ戻ってきてしまった。
「知ってるなんて、やっぱり幽霊――」
「そうなると――」主人は執事の言葉をさえぎって、「彼は何かで、この屋敷の中を知った――という可能性が非常に高く出てきます」
「どうやって……?」
はつらつとしたベビーブルーの瞳は、逃さないというように主人を見た。屋敷に入ったとは考えにくい。世界中に家はたくさんある。なぜ、ベルダージュ荘を選ぶ必要があるのだ。そこで、執事の頭の中でピンとひらめいた。
「俺と同じように予知夢を見たとか?」
その可能性がゼロとは言えない。いつまでも、ダルレシアンの奇怪な行動に囚われて、主人の行く手を阻むようにドアの前に立っている涼介。崇剛はポケットから懐中時計を取り出して、今頃気づいたように、
「おや? こんな時間ですか。涼介、出かけますから、こちらの話はあとにしてください」
「わかった」仕事だ。涼介は組んでいた両腕をといて、部屋から出て行こうと振り返ろうとした。その背中に、主人は一言注意する。
「ダルレシアンは幽霊ではありません。私たちと同じように肉体を持った魂です」
「そうか。ほっとした」後ろに誰かいるようなソワソワとした恐怖心は、聖霊師によって取り除かれた。
そんなことよりも、主人は、「約束は約束です。守らなくてはいけません」ルールはルールという規律を乱したくはなかった。
崇剛は涼介とともに廊下へ出て、執事の大きな背中を追ってゆくように、秋風が窓から入り込む廊下を歩いてゆく。噂の人物――ダルレシアンを、千里眼で屋敷の隅々まで探そうとするが、
「おかしい……。どちらにいるのでしょう?」
ダルレシアンは見つからなかった。瞬間移動を使える以上、一階の教会付近に今でもいるとは限らないが、不思議なことにどこにもいなかった。
*
金木犀の香りが秋風に合わせ輪舞曲を踊る。透き通るような青空が遠くの山々まで冴え渡らせていた。
主人はたくさんの召使と使用人に見送られながら。茶色いロングブーツのかかとを石畳の上でカツカツと鳴らして、リムジンへ乗り込もうとすると、三沢岳の山脈を背景にして白いローブが急に入り込んできた。
「崇剛?」
「えぇ」驚きもせず、崇剛は優雅に返事を返した。瞬間移動をする魔導師だ。いつどこに現れてもおかしくはないのだった。
それとは対照的に、召使や使用人がざわつく。真ん中で見送っていた涼介が妙に感心する。
「本当にできるんだな、瞬間移動。世界は広いんだな」
話には聞いていたが、百聞は一見にしかずで、
「パパ! えほんでみた、まほうつかいさん」瞬はとびきりの笑顔で、はしゃぎ出した。
父は息子の小さな頭を優しくなでる。
「そうだ、本物だ。よかったな、会えて」
「すご〜い!」
秋の澄んだ空気に、瞬がする拍手の音が響き渡った。
彼らを尻目に、崇剛の水色の瞳は氷の刃の如く、冷たく鋭く魔導師に向けられた。漆黒の長い髪は頭高くに綺麗に結い上げられ、黒いロザリオを首から下げ、ラピスラズリをはめ込んだ金色をした腕輪をする背の高い男が、リムジンと崇剛の間に立っていた。
「今までどちらにいたのですか?」
「自分の部屋にいたけど……」ダルレシアンは振り返って、二階の一室を指差した。
「そうですか」崇剛はただの相づちを打って、冷静な思考回路を展開する。
なぜ、千里眼で見つけられなかったのでしょう――?
屋敷には結界が張られています。
従って、邪神界の者に邪魔をされるという可能性がゼロに限りなく近い。
おかしいみたいです。
あごに神経質な指を当てたまま、人が見えない遠くまで神経を研ぎ澄ましている崇剛の隣で、ダルレシアンは黒塗りのリムジンと、そばに控えている運転手を見ていた。
「どこかへ出かけるの?」
「えぇ」考えるのやめて、崇剛は昨日住人になったばかりの魔導師に、この国のことを少しだけ教える。
「治安省と言って、国の犯罪や治安などを取り締まる機関へですよ」
神に身を捧げた男の、上質なシルクの生地の中に潜む銀のロザリオ。千里眼を持ち、悪霊と戦闘する非現実的な崇剛。そんな彼がなぜ――。
「神父のキミが何の用?」
「私は聖霊師という仕事もしています」
「千里眼と関係する?」ダルレシアンが可愛く小首を傾げると、昨日よりは香の匂いが弱くなっていたが、あたりにエキゾチックに漂った。
「えぇ。心霊関係の事件を解決する、私立探偵とも言えます」
「ということは、刑事に会いに行くの?」
「えぇ。昨日の出来事を報告に行くのです」
「男の人?」
ダルレシアンの投げかけた質問に違和感を持ちながら、崇剛は「えぇ」と優雅にうなずいた。
「ボクもついていっていい?」
聡明な瑠璃紺色の瞳がクールさを引き出させているのに、春風みたいに柔らかに微笑んだ。
魔導師の罠は何だ――。可能性の数値を正確に導き出したいところだが、出会ってまだ一日も経っていないダルレシアンのデータは完全に不足していた。
「なぜ、一緒についてくるのですか?」
白いローブを風に揺らめかせながら、ダルレシアンは右へ左へ行ったり来たりする。
「ボクはもう教祖じゃない。だから、新しく誰かの役に立てることを探したいんだ。その可能性のひとつとして、キミの手伝いをするのもあると思ってね」
「そうですか」崇剛は相づちを打ったが、冷静な水色の瞳は心の中でついっと細められた。今から四つ前の質問――男の人? と、つじつまが合わない。魔道師の狙いは何だ――。
会話がチェスの盤上ならば、質問をしたほうが優勢だ。策士なら、その点はよく心得ている可能性が高い。昨日のダルレシアンの会話は、会ったばかりの時は質問を返してきた。それが、今はきちんと答えている箇所が多い。それは、罠である可能性が高い――失業してしまった元教祖は何をしているのか。