刑事は探偵に告げる/2
平時に戻る――。
ラジュはメシア保有者――自分たちとは存在している法則の違うふたりの前に歩み出た。
「それでは、崇剛、ダルレシアン、肉体へ魂を戻しますよ〜?」
カミエがあとから近づいてくる。
「気をつけてくださいね〜。意識がある魂と正体不明の肉体には誤差が生じますよ」
やけに引っかかるような言い方を、ラジュはしてきて、崇剛の冷静な頭脳の中で、ある数値が急激に膨れ上がった。水色の瞳は一緒に戦った魔導師に一瞬向けられる。
ダルレシアンが倒れるという可能性が99.99%――
物質界のボロボロな参列席で、机の上にずっと突っ伏していた自分たちの肉体。そのそばに、ラジュとカミエが立ったのを見て取って、崇剛の茶色いロングブーツは身廊を歩きながら、
「カミエ天使、私が戻ってから、ダルレシアンの魂を戻していただけませんか?」
一緒に戻して、魔導師が倒れるのを誰が助けることができるのだ。誰も触れることができない。怪我をする可能性があることに対処しない崇剛ではなかった。
「構わん」
「ありがとうございます」
紺の長い髪はターコイズブルーのリボンと一緒に、崇剛の華奢な肩からさらっと下へ落ちた。
自身の背中を見ている状態――幽体離脱。
ラジュの手が肉体という容器に魂が入るように、線の細い崇剛の背中をすっと前へ押した。
一瞬の記憶の飛びがあり、気がつくと体の重力が鉛のように重くなり、頬に埃のザラザラとした感触が広がった。
上体をゆっくり起こし、カミエとダルレシアンが待つ参列席へ、ロングブーツのかかとを優雅に鳴らしながら、白く濁っている大理石の上を横切き、ダルレシアンの肉体が座っている脇の身廊へ、崇剛は片膝をついて座り込んだ。
準備はできた。白い袴姿のカミエへ、冷静な水色の瞳を向ける。
「お願いします」
カミエはうなずいて見せて、ダルレシアンの肩を前へ押し、崇剛と同じように魔導師も意識がこの世へ戻ってきた。机から起き上がり、すぐそばにいるもうひとりのメシア保有者に向かって、春風が吹いたように柔らかく微笑みながら、立ち上がろうとして、
「崇剛、よかっ――」
言葉途中で、そのまま横向きに白いローブは瑠璃色の貴族服へ、糸が切れた人形みたいにくたっと倒れ込んで、崇剛は細い両腕で抱き止めた。
「っ! やはり、倒れてしまいましたね」
「肉体が気を失っただけだ。幽体離脱したこともなく、その上、戦闘したらそうなって当然だ」
カミエのそばからダルレシアンを抱き上げて、崇剛は閉じられたまぶたをじっと見つめた。
「私と同じなのですね」
決して自身が弱いのではなく、邪神界と戦うためのメシアを手にした者の宿命なのだ。
人と違う力――メシア保有者として生きてきた日々は、時には吹き荒ぶ逆風に身を硬くして、真っ向から立ち向かうこと――
「――もうすぐ、乙葉 涼介が来ますよ〜。それとも、崇剛が運びますか〜?」
物思いにふける暇もなく、ラジュのおどけた声が邪魔をした。
「崇剛には腕力がありませんからね。屋敷への途中で、ふたりで共倒れになっていただきましょうか?」
戦闘させて、気絶させた挙句、無傷の人間までも巻き添いにしようとする、ラジュの身の毛もよだつ策略が待っていた。
「なぜ、私が運ぶことになるのですか?」
崇剛はあきれた顔で、ニコニコと微笑んでいる腹黒天使を見返す。
「先ほど、直感――天啓をどなたとどなたに送られたのですか?」
ダルレシアンを運ぶ人間は涼介――その可能性が非常に高い。それなのに、涼介を呼び出すだけ呼び出しておいて、崇剛に運べと命令する。無駄足もいいところだ。まったくもって無慈悲極まりないラジュだった。
「うふふふっ、もうひとりは内緒です〜」
人間よりもはるか遠くを見渡せる天使の瞳には、ベルダージュ荘を回り込んで、雑木林を少し足を取られながら向かってくる、ガタイのいい男が映っていた。
天使が六人と守護霊の少女がひとり。肉体に戻ってしまったダルレシアンの体に触れない人々。
崇剛が犠牲になるのか――。
その時だった、旧聖堂の壊れかけた木の扉が、ドンと破壊するような勢いで中へ押し入れられたのは。はつらつとしているが少し鼻にかかる声が切羽詰まったように響き渡った。
「崇剛っ!? さっき、いつものやつがした」
ドアが押された風圧で砂埃が舞い上がり、薄闇の中で気が狂ったように埃が踊る。
「えぇ」
床に跪いていた崇剛は神経質な顔を、入り口へやりながら悟る。涼介が先に来たのだ――と。
それと同時に、四月二十九日、金曜日から待ち続けた機会がめぐってきたと、優雅な策略家は冷静な水色の瞳をついっと細めた。
黒のアーミーブーツにホワイトジーンズ。洗いざらしのシャツ。扉を押さえている左手には結婚指輪。執事の涼介が息を切らして立っていた。
霊感のない彼には、他に人影は見当たらず、優雅に返事を返してきた主人を見つけ、木でできたボロボロの扉から拍子抜けしたみたいに手を離した。
「ん? あれ、お前が倒れてると思って来たんだが……。間違ったことなんてなかったのにな、今まで」
しゃがみ込んでいる瑠璃色の貴族服へ、執事の影が近づいてくる。
「私ではなく彼です、倒れたのは……」
素知らぬ振りをして、崇剛は密かに罠を発動する。
(ダルレシアンは涼介に運んでいただきましょう。私はまだ、こちらの場所を離れられませんからね)
漆黒の長い髪が床に雪崩れ込み、正体をなくしている凛々しい眉をした男の顔を見つけ、涼介は薄暗くて最初は気づかなかったが、
「誰――!!」
背筋に悪寒が衝撃的に走った。旧聖堂中に執事の少し鼻にかかった声が轟いた。
「ゆ、夢の中のやつ!?」
その場で、黒いアーミーブーツは小さく右へ左へ行ったりきたりする。
「昨日の今日で!? 心の準備がまだ出来てないんだが……」
人が倒れている。執事の気持ちなど後回しで、崇剛は半ば強引に話を進めた。
「彼はダルレシアン ラハイアット。ラハイアット家の末裔です」
魔導師が言えない代わりに、主人は執事へ手際よく伝え、心の中で可能性の数値を変化させた。
(涼介には予知夢を見るという傾向がある。事実として確定ですね)
いつも通りの平和な夕食だと思って、息子と一緒に楽しく準備をしていたが、青天の霹靂とはまさにこのことで、涼介は思考がついていけなくて、ぼんやりする瞳に、金糸で装飾されたローブと黒いロザリオが映っていた。
「苗字が一緒――末裔……?」
崇剛は腕力がないながらも、参列席からダルレシアンを引きずり出して、執事に引き渡そうとする。
「詳しいことはあとで話します。涼介、彼を屋敷へ運んでください」
と、冷静に言っているが、心の中は違っていた。
早くこちらから出て行っていただけませんか?
あなたとダルレシアンがいなくなる前に、どなたかがこちらへ来てしまいます。
そうなると、自室のドアを開けてきた意味がなくなってしまいます。
崇剛は策を成功させたいのだ。半年近くも待った好機を逃したくないのだ。神が与えてくださったのだから。待ち人はもうすぐそこに来ているかもしれない。その人の情報がどうしてもほしい。
主人の想いが通じたのか。執事はすぐ隣へ片膝をつく。
「あぁ、わかった」
夢の中で自分を押し倒した男――強烈な印象は消えないが、執事としては主人の命令に従うしかなかった。
ダルレシアンは崇剛の細い腕から、男らしい涼介のそれへ慎重に渡された。
「それから、医者を呼んでください」
半年近くも拘束されたままで、何の怪我も負っていないとは考えにくい。見えない部分で何か異常があるともしれない。
旧聖堂で人がひとり倒れている。勘の鋭い涼介はピンときた。主人はまた、幽霊と戦闘したのだと。それを注意しても、またはぐらかされるだけだ。
二百二センチもある長身のダルレシアンを、涼介は軽々とお姫様抱っこし、心配そうな顔を主人へ向けた。
「わかった。崇剛は?」
「私はもう少しこちらにいますよ」
もう日が沈んでしまった旧聖堂の闇の中で、優雅な声がうごめいた。
「そうか」
残るのは主人の勝手だが、執事は一言忠告した。
「お前まで倒れるなよ。俺の体はひとつしかないんだから運べないからな」
そう言い残すと、ダルレシアンが壊れた木の扉にぶつからないように、執事は慎重に通り抜け、雑木林の中を足早に歩き出した。
洗いざらしのシャツとホワイトジーンズが放置と忘却の彼方という名がふさわしい旧聖堂から離れていきながら、
「どうなってるんだ? ラハイアット家って、確か遠い外国――」
新聞を記事を賑わせている教祖が、自分の腕の中にいるとはつゆ知らず、涼介は何が起きているのか考えようとするが、どこかがズレているような気がした。
急いでいる純粋なベビーブルーの瞳は振動で揺れていたが、かちゃかちゃと金属が歪む音がこっちへ近づいてきた。
「ん?」
ベルダージュ荘のほうから背の高い男がやって来る。その人のトレードマークであるカウボーイハットを走っている風圧で飛ばされないように、太いシルバリングをしている手で押さえていた。
ジーパンの長い足が整えられていない、木々の合間の獣道みたいなところを次々に踏みしめていたが、黒いアーミーブーツを見つけると、意思の強い鋭いブルーグレーの眼光は上げられ、ガサツな声がにわかに珍客として響き渡った。
「涼介っ!」
兄貴肌の男らしい顔を涼介は見つけ、少し驚いた。
「え……? 国立さん、どうして――」
心霊刑事は洗いざらしのシャツの肩を強くつかんで、先を言わせなかった。いつも笑いを取るくらい余裕のある国立だったが、珍しく真剣な顔をしていた。
「崇剛っ、崇剛、どこ行きやがった?」
らしくない国立。行き先を止められた涼介は両肩を強く揺すぶられる。国立のほうが二センチ背は高かったが、旧聖堂へと続く林の道は上り坂。降りてきた涼介のほうが今は頭の位置が幾分高かった。
「崇剛なら、旧聖堂にいますけど……」
国立は涼介の肩を強く握ったまま、背後に広がるうっそうとした雑木林に、鋭い眼光をやったが、来たこともない場所で何も見えない。
「どこだ?」
涼介は首だけを後ろへやって、
「ここを真っ直ぐ奥に行ったところです」
「そうか」
居場所が知れてほっとするのも束の間。
国立の男らしい大きな手は涼介の肩から滑るように落ちて、ウェスタンブーツのスパーのかちゃかちゃという音と、チェーンの長さの違うペンダントヘッドがすれ合う金属音をさせながら、あっという間に遠ざかっていった。
長い髪のせいで、お姫様抱っこしているようなラフな格好をした王子みたいになっている涼介は、今来た道を振り返り首を傾げる。
「ん? 変だな? だって、倒れたのは……ダ、ダル……長くて覚えられない」感覚的な執事の思考回路で、話の流れが脱線しそうになったが、何とか持ち直して、「こいつだけだろう? どうして、国立さんも来たんだ? 何があるんだ? これから……?」
木々の向こうに隠れている旧聖堂の蔓に拘束された壁を思い浮かべていたが、涼介はさっぱりだった。
「わからないな。まぁ、とにかく、こいつを運んで医者を呼ばないと……」
主人の命令は絶対だ。執事は正面を向いて、坂道をベルダージュ荘を目指してくだり出した。
*
国立は息せきかけ走っている。視界が激しく上下に揺れる。
話には聞いていたが、実際に来るのはこれが初めて。旧聖堂のはずれかかっている木の扉を見つけ、あの優雅な男まであと少し。
「バッドなフィーリングがしやがったんだよ、さっき」
仕事中だったが、どうしても妙な気がした。だから、公用車を使って、ベルダージュ荘のある丘を登り、屋敷へやって来た。
墓場の聖霊寮では車の使用許可は絶対に下りない。自分を慕ってくれている二十代に若い男に頼んでおごりもした。
出遅れたが、急いで隣町の庭崎市へ来たが、涼介が屋敷にいないことに、焦燥感は火に油を注いだ如く激しく燃え上がり、胸騒ぎを覚えた国立は、崇剛の話によく出てきた旧聖堂を目指してきたというわけだ。
居場所はビンゴ――。
国立の脳裏に崇剛と最後に会った、半年近く前の四月二十九日、金曜日が鮮やかに蘇る。だからこそ、嫌な予感は現実味を持って、刑事の胸を大きく揺さぶるのだ。
あの日、気温の高さのせいで左腕に瑠璃色の貴族服をかけ、線の細いシルクのブラウスの背中がやけに、ゆっくりと去って行った――そういう時は、決まって別れがやって来るのだ。
あの優雅で貴族的。中性的だが男性寄り。神経質で時には大胆。もたつかせ感のある紺の長い髪。ミニシガリロを持つロイヤルブルーサファイアのカフスボタンをともなった包帯の巻かれた細い手。魔除けのローズマリーの香り。エレガントに組まれる茶色のロングブーツ。腰元に挿してある聖なるダガーの鋭いシルバー色の柄。振った笑いには、冷静な頭脳を使ってさらっと振り返してくる男。
写真と名前を初めて見た時から、そそられっぱなしの男がこの世からいなくなる。もう二度と見ることができないかもしれない。常世へ行く前にできることなら現世に引き戻したい。
その想いに駆られ走り続けた国立のウェスタンブーツは、とうとう旧聖堂の前にやって来た。太いシルバーリング六つをつけた手で、
バターン!
破壊的な音を出して、両手で乱暴に扉を押し開けた。