刑事は探偵に告げる/1
夕闇が西の空に沈んでゆく。
花冠国――国の役所街。
夕食前の忙しい時間帯で、馬車と自転車が忙しなく行き交う大通り。歩道には着物やドレスが和洋折衷を見せる街角。
赤煉瓦造りの立派な正門に、黒字に金の文字で綴られた治安省。ロータリーから一台の自動車が半円を描くように動き出した。
建物の入り口に二十代の若い男が立っており、走り出してゆく公用車に大声で粋に叫ぶ。
「兄貴、気をつけてっす!」
途切れることなく歩道を横切る人混みを、門番が両側で止める。自動車は石畳の道を右へ折れ、車窓の奥で、藤色の少し長めの短髪が風でサラッと揺れた。ひび割れた唇は少しも動かず、鋭いブルーグレーの眼光は真っ直ぐ前へやられている。
先進国――シュトライツ王国の崩壊。ミズリー教祖が行方不明という大ニュースで街は騒がしく、いつもよりも渋滞がひどい。
歩道を通りすぎる人たちの好奇の視線をもろともせず、ミニシガリロをジェットライターで炙り、男は少しイラついた様子で口にくわえた。
青白い煙が上がる向こう側に、優雅で線の細い男を最後に見た日を思い返す。
「――死ぬんじゃねぇぜ、今回のヤマでよ」
やけに浮き彫りになる言葉。黄ばみだらけの不浄な聖霊寮の空気と、軋む回転椅子の音が幾重にも心に波紋を残す。
胸騒ぎ――バッドなフィーリングがする。
この言葉をお見舞いすれば、手の甲を唇に当てて上品にくすくす笑う男。野郎どもに慕われる男を魅了してやまない、あの男に何かあったのでは――
動いてはすぐに止まってしまう自動車。窓から灰をいつもと違って、慣れない指遣いでトントンと落とし、ミニシガリロを口にまたくわえるを、男はイライラしながら繰り返していた――――
*
――――大地震に襲われたような大地の揺れが収まってくると、
「うふふふっ……というのは冗談です〜。戦いはもう終わりましたよ〜」
ラジュのおどけた声が響き、薄れていた意識が戻ってきた。
「忘れてはいけませんよ〜。私たちは囮の振りをしていたんですから、負けるということは嘘です。さて、どちらまでが嘘だったでしょうか? 崇剛、答えをお願いします〜」
話を振られたが、崇剛は神経質な手の甲を中性的な唇に当てて、くすくす笑い始め、何も答えられないほどになり、
「…………」
彼なりの大爆笑をし出した。仕方なしに心の中で回答する。
みなさんとのお芝居は楽しかったです。
神は全てを成功させるという可能性が高いと最初から思っていましたよ。
なぜなら、私の守護神――光命が今回の計画に入っていらっしゃいます。
そちらの神は私と同じ思考回路です。
ですから、成功する可能性の高いものを選び取られるという可能性が99.99%。
従って、負ける可能性をどのような手を使っても低くするという可能性が非常に高いです。
最初から、私たちが消滅するという可能性は0.78%……非常に低かったのです。
それから――
肩を上下に小刻みに揺らしながら、崇剛はまだ笑い続ける。戦闘開始前に、天使たちが話していた、あることを記憶の浅い部分へ引き上げた。
地獄のシステムの入れ替え――との説明を受けました。
正神界内で起きていることです。
結界が張られています。
従って、邪神界側からは一切見えません。
すなわち、相手に知られるということは起きません――。
それでは何のための戦いだったかという謎が残ります。
みなさんが敵を倒すと起きたこと……魂の浄化。
こちらを行うためだけの計画だったのです。
ですから、私たちが簡単に勝ってしまってはいけないのです。
なぜなら、神が必要一定の魂の浄化を目標として持っている以上、そちらをクリアする必要があります。
敵を欺くためにはまずは味方から――です。
従って、ラジュ天使は嘘をついていたのです、最初から。
裏の裏の裏の裏……数え切れないほどの意表をつく作戦。一体どうなっていたのかが、ラジュから明らかになった。
「うふふふっ、この戦いが終わる前に、地獄のシステムの入れ替えは終わっています〜。敵の軍を動かして、浄化するだけの戦いでした〜。ですが、嘘をつけない方のために、偽の情報をわざと伝えましたよ」
トラップ天使なりにきちんと神の意思をまっとうしていた、策という名の罠を用いて。
白い修験者の姿をしている、アドスは数珠をした手で、紫色の短髪をくしゃくしゃにかき上げた。
「敵が弱すぎったっす」
「勝っちゃうと、次出てきちゃうからね。手加減すんの大変」
ナールのマダラ模様の声を聞いて、崇剛はすうっと真顔に戻った。最後に戦況をひっくり返したのは、立派な両翼と光る輪っかを頭に乗せている天使みたいな男だ。
どんなルートで神の戦略を、ナールは聞いていたのだろうか。いや、いつから知っていたのだろうか。
崇剛の中で疑問が渦巻いているのに構わず、天使たちの話は続いてゆく。
白いロングコートを風になびかせながら、シズキの鋭利なスミレ色の瞳は、今は神の結界によって見えなくなってしまった敵陣へ向けられていた。
「あの程度とは邪神界は所詮、脳みそが砂粒大の集まりだな。劣勢に見せかけていたに決まっているだろう。正神界は慌てて準備をしたという想定内で戦っていたんだからな」
慌てて陣を整えたような振りをして、相手に好機だと思わせる――。見事なまでに完璧な神の策だった。
カミエは嬉しそうに目を細め、袴の袖に包まれた両腕を腰のあたりで組み、地鳴りのような低い声で言う。
「いい修業になった」
「いい演技の練習になりました」
クリュダがにっこりと微笑むと、天使と霊の陣営全員が目が点になった。
「違ってない?」
*
――――庭崎市の中心街を抜けて、実りの秋の匂いが広がる田園風景を、一台の自動車が猛スピードで走り抜けていた。
小高い丘の上に見える赤煉瓦の二階建ての洋館。そこへ続く坂道を自動車は登り始める。
胸の前で組まれた両腕には、太いシルバーリング六つがつけられており、人差し指がトントンと落ち着きなく、迷彩柄のシャツを着た腕に打ちつけられていた。
*
――――残り火のような夕日があと一筋で、旧聖堂から消えてしまう時間帯。見えているのはこの世だけで、霊界での出来事は音ばかりが聞こえていたダルレシアン 。
彼は声がしたほうへ、聡明な瑠璃紺色の瞳を向けて、ふんわりと微笑んだ。
「どうやって勝ったの?」
ラジュは人差し指をこめかみに突き立て、今までにないほど困った顔をする。
「それが、神からそちらは教えていただけないんです〜」
ニコニコのまぶたは片目だけ開いて、彫りの深い無機質な表情をしているナールをじっと見ていた。
「何、お前?」
赤い目がみんなのほうへ向いた。
崇剛は思う。言い逃れはできない。さっき、指をパチンと鳴らしているのを、この目でしかと見たのだから。
ダルレシアンは漆黒の長い髪を、つうっとすくように斜め上に伸ばし、弄びながら、じっとりとまとわりつくように聞いた。
「ナールが敵とボクたちの場所を入れ替えた……のかな?」
気を失う前に感じた遠心力のあと、敵陣に火の玉が落ちていったのは、そう考えるのが妥当だろう。どんな原理かは理論的に説明はできないが。
「先ほど、武器と他のものを交換していましたからね。どのような力なのですか?」
あごに指を当てたまま、崇剛はナールを逃さないと言うように凝視したが、当の本人から出てきた言葉は摩訶不思議だった。
「魔法?」
「えぇっ?」
後ろに控えていた全員が驚きの声を上げるが、ナールは真顔で言う。
「いつの間にかそうなってた?」
「はぁ?」
物言いたげな顔をして、全員の視線が集中していたが、ナールはどこ吹く風で、街でナンパでもするように軽薄的に微笑む。
「俺さ、理論派なのよ。直感は使わないことにしてんの。はずれる時あるじゃん? でもさ、気づくと使ってるんだよね。だから、それも神様のお導きってことで、全然いいじゃん? 結果オーライなんだし」
人差し指を斜めに持ち上げ、彼女お茶しないみたいなポーズで止まったナールの姿を見ることは叶わないが、ダルレシアンの凛々しい眉は少しイラついてピクピクしていた。
「どうして、自分のことが疑問形なの?」
どんな話のはぐらし方かと、教祖は文句を言いたくなった。しかし、ナールは嘘をついているようでもない。本人がわからないことを、他の誰かが答えを見つけ出すことはできなかった。その状況を打開したのは、合気の達人――カミエだった。
「おそらく、正中線で直感の気の流れを受けているのかもしれん」
ダルレシアンも特殊だと言われていたが、まだ他にもこの戦場にはいたらしい。ラジュと先日密かに話して、ナールは理論派だという結論が出ているのに、直感も使うとは、崇剛は興味がそそられた。
「そちらの時は、どのような感覚になるのですか?」
「ナールが言っている通り、いつの間にか考えが変わっている」
ダルレシアンも手強かったが、天使はさらに上手だった。ひらめいたと思えば、敵も何らかの対処ができるが、本人さえも知らないのだから、これ以上の凶器は神羅万象に存在しないだろう。
ナールは身振り手振りで、軽薄的に全軍に聞こえるように説明を始める。
「こうさ、道が右と左に分かれるとするじゃん? そこを歩いてるわけ」
「うんうん」
みんなは何度もうなずき、この不思議な天使の話に、ハリケーンにでも巻き込まれたように、知らぬ間に夢中になっていた。
「俺は右に行きたいの」
「うんうん」
「でも気づくと、左の道に行ってるんだよね」
「え……?」
全員、毒気が抜かれたような顔をした。起承転結も真っ青な急展開のナールの話に。そうして、話のオチがやってくる。
「で、そっちが近道なの」
「嘘だ!」
全員が声を大にして、猛抗議した。だがしかし、ナールは首を横に振って反論する。
「嘘じゃないよ! マジマジ! いっつもそうなんだよね」
ラジュマジックも相当強烈なものだったが、運というものまでナールという柱に向かって引き込まれているみたいな、人生だった。
みんなは盛大にため息をつく。
「ミラクル風雲児――」
すいていた漆黒の髪を全て落として、ダルレシアンは可愛く小首をかしげた。
「ナールが最終兵器だったのかも?」
「そうかもしれませんね」
崇剛はそう言って、優雅に微笑んだ。
頭のいい人間はたくさんいるのに、誰一人気づいていなかった。ナールの使った力が何だったのかを。ナール自身が知らないうちに、ミラクル旋風に巻き込んでしまったのだ。
話がひと段落したところで、ラジュはまた困った顔をして、こめかみに人差し指を突き立てた。
「さらに悲報です、敵が大打撃です〜」
カミエが低い声ですかさず真っ直ぐツッコミ。
「それは、朗報だ。同じネタを使うな」
「うふふふっ」
ラジュがいつも通り意味ありげに微笑むと、さっきから黙って話を聞いていた瑠璃は今回の聖戦争について、ボソッと一言。
「真剣味に欠ける戦いじゃったの。お主ら、笑いばかり取りおって」
*
――――車は何とか丘を登りきり、ズドドドと回転のよくないエンジン音に揺すぶられ続けた三十分。振動が染みついている体をシートからズラして、さっきとは違う石畳にウェスタンブーツがざざっと落とされた。
緑青――明るく鈍い青緑色を基調にし、四角く金色で装飾された立派なドア。赤煉瓦で作られた建物の扉へ近づこうとすると、それが不意に手前へ開き、タキシードを着た初老の男が出てきた。
「おや? お久しぶりでございます」
丁寧に頭を下げられたが、訪問客は慌てている様子で口早に言う。
「崇剛は?」
「お約束でございますか?」
突然の客に不思議そうな顔をしたが、それを見返す瞳は意志が強く鋭いブルーグレーの眼光だった。
背丈は百九十七センチという長身。ガタイはよく他人の言動をある程度、仕草や態度からの威圧感で自由にできるその人は、
「早く答えやがれ」
先を促した。ここで時間をロスしている暇はない――。
それでも、タキシードを着た初老の男は気にした様子もなく、右手に広がる綺麗な花が咲き乱れる庭を指し示した。
「先ほど、乙葉が探しに行きましたが……」
執事が主人を探しに行く理由はひとつだ。やはり、バッドなフィーリングがする――
「何……!?」
相手の襟元をつかみ上げるような勢いで、目を見張る。驚いている暇もない。とにかく、あとを追いかけなければ、その気持ちに強く駆られる。
ウェスタンブーツのスパーをかちゃかちゃさせながら、赤煉瓦の建物の前を盛ダッシュで男は走り抜けていった――――