Before the battle/3
器用さが目立つ手で、ナールは山吹色のボブ髪を大きくかき上げた。
「脱獄者すごかったからね。毎日、いたちごっこ」
天使もさぞかし手を焼いただろう。全員があきれた顔をしていた。その中でもひとりだけ、にっこり微笑んでいるアドスが粋よく言う。
「逃げると罪は重なるっすから、神様が対策を取ることになったっす」
「百次元上から最新式の地獄を引き下ろして、ゴミクズどもを神の前にひれ伏せさせる」
シズキの俺様ボイスが響くと、崇剛はなぜか冷静な水色の瞳をついっと細め、ナールをそっとうかがった。
見られている天使はどこまでも無機質で、アンドロイドみたいに無表情だった。
そうして最後に、優しさの満ちあふれた蒼色の瞳で、にっこり微笑んだクリュダが、
「これで、みなさんがきちんと反省できて、幸せになりますね」
いい連携プレイで話が締めくくられたところで、ラジュに主導権は再び回ってきた。
「ですが、完全に終わらないうちに、邪神界側が軍をそろえてしまいました〜。ですから、戦わなくてはいけません」
きな臭い――下世話な言葉ではそう言うのだろう。崇剛は神経質な指をあごに当て、腰元のダガーの重みを感じた。
(おかしい……)
天使には人間の考えていることは丸聞こえだ。それを崇剛は逆に利用する。少し待ってみたが、誰も異議を唱える天使はいなかった。
まだ明らかにされていない不確定要素を含んだまま、天使たちは全員素通りした。
天界にいたラジュたちは崇剛とダルレシアンの前へすうっと降臨する。
ラジュは相変わらず何を考えているのかわからないニコニコの笑みで、神の御心を唱えた。
「神はマキャヴェリズムです。Aを取ると千人生き残る。Bを取ると千一人生き残る。邪神界――悪が存在している以上、どちらか一方を取らなくてはいけない場面に出くわします。神は迷わず、Bの千一人を取り、Aの千人を切り捨てます。私たちは囮です。全員が消滅する可能性があります。ですが、それさえも神の戦略です。崇剛とダルレシアンはどのように思いますか?」
自身の知らないところで改革に組み込まれ、それが本当の死――魂の消滅をもたらすもの。
崇剛はいつも通り優雅に微笑み、シルクの生地の上から銀のロザリオを握りしめた。
「神の手足になれることに感謝いたします」
切り捨てられるAの千人になれるのは、神父としてはこれ以上のない喜びだった。
神の存在など信じてもいなかったが、聞こえてくる話には当たり前に、天使や神が登場する。
そうなると、ダルレシアンの中で、天使や神がいるという数値は一気に跳ね上がった。そんな教祖は、どこまでもクールに言ってのけた。
「ボクは、そのBの千一人になれる方法を模索するよ」
この男はやはり面白い――。
水色の瞳はついっと細められ、過去に囚われがちな崇剛には盲点の可能性だった。
ラジュは満足げに微笑み、その隣にいる巫女服ドレスの少女の名をいつもと違って呼び捨てにした。
「瑠璃。あなたはいかがですか?」
「我も構わぬ」
百年の重みを感じさせる幼い聖女の声がずしりと尖った。
一蓮托生だ――。瑠璃はそう思う。
神ははるか未来を見ている。百年前のあの日から、この大きな歯車に、自身を組み入れていたのだろう。
だから、成仏するというルールから逸脱させ、崇剛の守護霊となるよう命令を下したのだろう。
これで、人間ふたりと霊ひとりの了承は得た。
ラジュは天界へと瞬間移動でさっと戻り、今ここにいる軍勢に向かって呼びかけた。
「それでは、よろしいですか? みなさん」
ニコニコの笑みは消え、真剣な眼差しになった。まぶたから解放されたサファイアブルーの瞳に、はるか彼方までいる霊と天使たちを映して、スパイしか知り得ない情報を、ラジュはもたらした。
「敵の大将は四天王の内――火の属性を持つリダルカ シュティッツです。従って、火属性の攻撃がやって来ます〜」
神の領域が戦いを難しくする。
「私たちは囮です。ですから、心にそちらのことを思い浮かべてはいけません。必死に戦ってください。神はリダルカ シュティッツを抑えることに集中する振りをしています。ですから、私たちには手を貸せません。死ぬ気で戦ってください」
味方の神は参戦しない。どうやっても不利な戦況だった。
邪神界側の軍勢が横並びに整列しているのを、崇剛は冷静な瞳に映しながら、もう会うことが叶わないかもしれない男を思い出す。
鋭く意志の強いブルーグレーの眼光。
かちゃかちゃと鳴るウェスタンブーツのスパーの音。
トレードマークのカウボーイハット。
芳醇で辛いミニシガリロの香り。
自身が大爆笑するように、わざと横文字を使ってくる心霊刑事。
そうして、自分を愛しているかもしれない男――
国立のデータの全てが、崇剛の冷静な頭脳の中で浅い部分に引き上げられた。可能性の数値が大きく変わる。
四月二十九日、金曜日。十三時十四分十七秒以降――。
彼が受けた直感――天啓――
邪神界の大魔王と四天王の話は合っていたみたいです。
彼の直観ははずれないという可能性が32.89%――
ラジュの注意がまだ続いているのが、思案している崇剛の耳に入り込んでいた。
「瑠璃、あなたは嘘をつくことが出来ません。ですから、己自身に結界を張って、情報漏洩を避けてください。それから、お札は用意しましたか?」
守護霊には守護霊なりの戦い方があった。
漆黒の髪を慣れた感じで、小さな手でさらっと払いのける。
「一万枚ほどの。半年ほど前にカミエに聞いとったからの、今日のことは。抜かりはあらぬ」
「そうですか」ラジュはニコニコしながら、ここにいる男どもとは唯一違うことを、聖女に注意し始めた。
「ですが、あなたは武器を持っていません。危険だと思った時は崇剛とダルレシアンの後方へ下がってください」
八歳の少女に武器を持たせるような、神ではなかった。
「ベルダージュ荘へは決して行ってはいけません。なぜなら、乙葉親子をはじめとする屋敷の人間の守護霊と守護天使は今、こちらへ全員集まっています。彼らを守るものは結界しかありません。逃げ込むことによって、彼らが危険に晒されます。犠牲になるのは私たちだけです。彼らは今回の計画には入っていません」
逃げ場はどこにもなく、生き抜くか、消滅のふたつしか選択肢がない。
それでも、瑠璃の若草色の瞳には焦りなどというものは浮かばず、慎重にうなずいた。
「相わかった」
聖女の声が旧聖堂に厳粛に響き渡った。
今回の戦いの主役ふたりへ、ラジュはどんな戦いであるのか簡潔に伝えようとするが、おどけた感じがどうにも否めなかった。
「崇剛とダルレシアンが真っ先に狙われます〜。メシア保有者同士のあなた方が地上で出会うという作戦が囮ですからね。私たち天使が助けに入り、何らかの対処はしますが、今回で消滅しまっても構いませんよ〜、うふふふっ」
さっそうと殺そうとしている無慈悲天使。
崇剛がくすりと笑うと、紺の後れ毛がしなやかに揺れ動いた。
「おかしな天使ですね、ラジュ天使は。助けるのではないのですか?」
「ふふっ」ダルレシアンは春風のようにふんわりと笑って、この短い間で、凛とした澄んだ女性的な声色の持ち主がどんな人物なのか十分に理解した。
「ラジュは負けることが好きで、嘘が上手なのかも?」
さっきからずっとポーズを決めていたシズキは、今にも刺し殺しそうな鋭利なスミレ色の瞳を敵の真正面へ向けたまま、
「敵の数は?」
自身も消滅して死ぬかもしれないというのに、ラジュの辞書にはシリアスという言葉は存在していなかった。ニコニコしながら、
「『約』五十万飛んで三千四百五十七人です〜」ゆるゆる〜っと語尾を伸ばすと、「カミエ、出番が来ましたよ〜」
「しかと受け取った!」
修業バカ天使は彼なりの笑み――目を細めて、地鳴りのような低い声で突っ込んだ。
「意・味・不・明、だ。一桁まではっきり言っている」
次々に笑いという罠を仕掛けてくるラジュの前で、崇剛はとうとう手の甲を唇に当てて、くすくす笑い出した。
「なぜ、『約』なのでしょう? そちらの言葉を使うのであれば、約五十万三千人でよいのではありませんか」
本当の意味での聖戦争へと、千里眼の持ち主と魔導士は巻き込まれていたが、ラジュの慈悲でまったく深刻にはならなかった。
囮役のメシア保有者のふたりと同じ次元へと、天使たちは降臨してきた。
ラジュはニコニコしていたが、声色はいつもよりトーンが低く真剣味を増していた。
「崇剛、ダルレシアン?」
呼ばれたふたりからも微笑みは消え、真摯な眼差しでラジュを見つめ返した。
「えぇ」
「何?」
祭壇を背にして身廊に並んで立っている、一番狙われるであろうふたりを前にして、ラジュの凛とした澄んだ声が、静まり返っている空間に響き渡った。
「肉体を持ったままでは不利ですので、私とカミエでふたりを幽体離脱させます。参列席へ座ってください」
いよいよシリアスに話が進みそうだったが、
「立ったまま幽体離脱させると、肉体が倒れてしまいますからね。そちらでも、私個人としては構わないのですが〜、うふふふっ」
ラジュの含み笑いは、地獄へ突き落とすような不気味さを含んでいた。
「えぇ、構いませんよ」
瑠璃色の貴族服は左側へそれ、ダルレシアンの白いローブは右へと分かれた。
「どんな感じになるの?」
「してみればわかりますよ〜」
参列席にそれぞれ座ると、崇剛の背後へラジュが立ち、ダルレシアンの背後にはカミエが構えた。
「それではいきますよ。シャアッ!!」
猫がケンカしているみたいなラジュの声が響くと、待機していた天使はみんな首を傾げた。
「その叫び声は何だ?」
「押せばいいだけだ。声は余計だ」
カミエはあきれた顔をしながら、ダルレシアンの霊体の右肩をずらすように前へ押した。
茶色いロングブーツは戸惑うことなく、身廊の白く濁っている大理石の上へ、優雅に歩み出てきた。
「ふ〜ん、こんな感じなんだ」
ダルレシアンも慣れないながらも、同じように中央へ出てきて、
「うわ〜、体が軽いね」
初めての体験をしっかりと脳に記憶した。慣れている崇剛の補足がつく。
「重力は十五分の一で、自身の想像した通りにある程度は動けます」
「そう」
自分が自分を見ている状態――幽体離脱。
「あ、ボクだ」
正体不明になった崇剛とダルレシアンの肉体が、机の上にそれぞれ突っ伏していた。
「ダルレシアン? みなさんを見えるようになりましたか?」
視界が効かないというのは、戦うにはかなりの不利だ。しかし、同じ魂となれば、見えるという可能性が上がると、崇剛は読んでいた。
聡明な瑠璃紺色の瞳に、霊界の荒野を映そうとする。
「ん〜?」
ダルレシアンが可愛く小首をかしげると、高く結い上げた漆黒の髪がローブの肩からサラサラと落ちた。
「ダルレシア〜ン、見えますか〜? ラジュです〜」
ラジュは魔導師の顔をのぞき込もうと、少し屈んでみた。金髪がダルレシアンの瞳に映るが、どこか焦点が合わないようだった。
振っていた手のひらの前に、アドスのガタイのいい体が割って入ってくる。
「ダルレさん、どうすか?」
「ん〜ん?」
ダルレシアンは眉間にシワを寄せて、反対側に首を傾げると、髪がサラサラと背中で大きく揺れた。
「見えますか? クリュダです」
三人の天使が目の前に立っていたが、ダルレシアンの聡明な瞳はまったく反応しなかった。
「う〜ん、声は聞こえるけど、見えないね」
崇剛は残りの天使ふたりをそっとうかがった。俺様のシズキが人間如きに何かするのは可能性が低い。
だが、ナールの彫刻像のように彫りの深い顔は、何の笑みもなく、ただ無機質でどこまでも無感情だった。
頭脳は精巧。感情が表に出ない。情報漏洩しないために、同じ言葉を何度も使ってくる。そうなると、なぜ彼が全面的に関係しているのかの謎は、そうそう解けるはずもなかった。
会話が不自然にならないように、崇剛は神経質な指をあごに当てて、彼なりの分析結果を告げた。
「私の千里眼の特権なのかもしれませんね」
メシアを持っていれば、見えるというわけではないようだった。
ダルレシアンは唯一同じ人間である、崇剛に右手を差し出した。
「頼むよ、崇剛。キミを信じるしかないみたいだ」
「えぇ、あなたの魂は私が預かりましたよ」
神経質な手で、魔導師の大きな手のひらを力強く握り、崇剛とダルレシアンはお互いの瞳をじっと見つめた。
「キミとはいい関係になれるかも?」
悪戯っぽく言って、ダルレシアンはさっと手を離した。
違和感――崇剛の中でそれが大きく膨らんだ。男色家という可能性が合っているのか。どうにも怪しくなった。
瑠璃のことをさっき話していた、ダルレシアンの言葉を鮮明に蘇らせる。彼女が八歳だと知った、教祖の反応。
「ボク、大人にしか興味ないんだよなぁ〜」
思考の泉にひとつの波紋が不意に広がった。この言葉の可能性――裏に、崇剛は予測がついた。
しかし、ここでタイムオーバー。
ラジュのおかしなやり取りがにわかに聞こえてくる。
「クリュダ〜? 先ほど話した作戦Bでお願いします」
「僕も一回やってみたかったんです。こう、鋭い眼光で渋い声を出す刑事役を」
国立の話をしているような素振りで、クリュダはなぜかやる気満々だった。
「それを言うなら、刑事じゃなくて、プロファイリングっすね!」
アドスの言葉からすると、クリュダはボケをかましたらしい。聖戦争にどう関係するのかと思っていると、カミエが真面目な顔をして、
「こういう時こそ、笑いは大切だ」
と言うものだから、崇剛は素早く思案を停止して、負けるの大好きな天使に問いかけた。
「ラジュ天使、作戦Bとはどのようなものですか?」
「おや〜? 聞こえてしましたか〜?」
聞こえるように言っておいて、そんなことを言うラジュのそばで、ナールは気だるそうに髪をかき上げた。
「お前、本当失敗すんの好きだよね?」
少し離れたところで、シズキは超不機嫌顔で、
「貴様たちで勝手にやれ。俺は加わらない」
「え〜? ボクは勝ちたいんだけど?」
ダルレシアンの策略は勝つものであって、負けたがり屋の天使の支配下に置かれるのは真っ平ごめんだった。
戯言天使のお遊びを前にして、瑠璃は地団駄踏んだ。
「お主、そのようなことを申している場合ではなかろう!」
また誰かの文句が飛んできそうだったが、
「だまらっしゃい!」
ぴしゃんと、ラジュから鶴の一声が入った。彼が怒るのは珍しいことだった。
どうやら今回は真面目にやっているようで、どんなに内容がおかしかろうと勝つためらしかった。
「シズキにもきちんと参加していただきます。約束は約束です〜」
「くそっ!」
俺様天使は悔しそうに吐き捨てた。
こほんと咳払いをして、ラジュのおどけた凛とした澄んだ女性的な声が、旧聖堂を抜けて荒野まで鳴り渡った。
「それでは、敵の攻撃を受けるために結界を解きます」
正神界の軍勢に緊張感が鋭く走った。
戦いをするにあたって、それぞれの想いを胸に、邪神界の整列した軍を静かに眺める。
霊的な敵との戦闘に備え、崇剛は思考回路を変更して、ダルレシアンにも一言忠告した。
「私たちの霊層以上の存在には、心の声は丸聞こえです」
「そう」
ダルレシアンの頭脳の中で、神業的に今までのデータの数値が変化を遂げた。
「ですから、全てを思い浮かべない方法を探してください。可能性の数値は低い高いなどの曖昧なものにする。物事は――」
「指示語を使う?」
漆黒の長い髪を指先でつうっとすくように引っ張りながら、ダルレシアンは春風のように微笑んでいた。
「えぇ」
今までにない心地よさを、崇剛は痛感していた。メシアを持っているからなのか、思考回路が同じだからなのか。
生き残れたとしたら、どんなに面白味のある生活になるのだろう。あの広い屋敷で送る、少し退屈な日常に終止符が打たれるかもしれない。
それを叶えるためにも、この戦いは何としても勝たなければと、崇剛は強く思うのだった。