Nightmare/2
小さなピアニストはこれ以上ないくらい嬉しく微笑んだ。
「こんどは、ちょうちょにするの」
「瞬はピアノがとても好きなのですね。ほとんど毎日、弾いていますからね」
「うん!」
ご機嫌になって、歩くスピードが少し速くなった瞬の手を引きながら、体は小さくても、大きな可能性を無限大に持っている存在に、大人の自分が何をできるのか、崇剛は窓の外に広がる中心街を眺めながら考える。
あなたには音楽の才能があるのかもしれませんね。
私もたまに弾きますが、上手とは言えません。
ですから、教えて差し上げることはできません。
涼介と相談して、ピアノの講師に来ていただいてもいいのかもしれませんね。
崇剛と瞬というなかなかない組み合わせで、屋敷の中をUターンするように歩き回り、教会のドアの前までふたりはやって来た。
ロイヤルブルーサファイアのカフスボタンのひとつが、古い屋敷にしては新しい取手へと近づき押し開けた。
すると、青いステンドグラスを窓という窓に惜しげもなく使い、まるで海の中にいるような錯覚をもたらす聖堂が現れた。
青い絨毯が神へと導くように、身廊に真っ直ぐ敷かれている。執事を探そうとするが、視力が低下している崇剛にはすぐ見つけられるものではなかった。
千里眼を使おうとすると、瞬が急に手を離して、幼い声が聖堂中にこだまし、
「パパ!」
身廊の奥へと向かって走り出した。
そのあとを大人の長い足で、崇剛は足早に追っていくと、祭壇から二列目の参列席に、いつも見慣れている執事の大きな背中があった。
走り寄って来た息子に気づき、父は真正面から振り返った。
「……あ、あぁ。崇剛? 瞬が呼びにいったのか?」
「うん」
茶色のロングブーツは瞬のすぐ後ろで止まった。
「どうかしたのですか?」
そう聞く主人の胸の内は、
(あなたが教会へ来るのは、私に用がある時だけでした、今まで。おかしいです)
執事は主人と違って、神父でも信心深い性格でもなかった。いつもはつらつとしている涼介のベビーブルーの瞳は陰りがあった。
「あぁ……それなんだが……」
白いホワイトジーンズをギュッとつかんでいる息子に視線を向け、父は戸惑う。
(誰にも相談できなくてな。内容が内容だけに……)
執事はそれっきり黙ってしまった。主人はあごに手を当て、涼介の態度を元に模索する。
(瞬がいると話ができない内容みたいです。そうですね、こうしましょうか)
神父が小さな子供の前でかがむと、紺の髪が肩からターコイズブルーの細いリボンと一緒に子供の頭の上に降ってきた。
「瞬? 私があなたのパパのことを治します。ですが、約束をひとつしてくれますか?」
主人は解決するために、子供に嘘をつくことを心の中で懺悔した。瞬はそれに気づくことなく、不思議そうな顔をする。
「やくそく?」
「えぇ、そちらが守れないと、みんなが困ってしまうかもしれません」
純真無垢という宇宙が広がる小さなベビーブルーの瞳と、冷静な水色のそれは縦の線を描いてぶつかった。
(瞬も私も困ります。涼介自身もです。さらに、他の使用人や召使いもです。なぜなら、涼介は執事なのですから)
瞬は元気よく右手を上げた。
「まもる!」
策略的な主人は小さな住人の前へしゃがみ込み、同じ目線になって、みんなが幸せになる罠を仕掛けた。
「それでは、これから私が言うことを、きちんと聞いてください」
「わかった」
「教会から外へ出て、最初に会った人にこちらのように言ってください」
屋敷の者への伝言――
流暢に話す崇剛の言葉に、小さな子供は少しついていけなくなりそうになった。
「ん……?」
瞬はまぶたをパチパチと瞬かせた。
「あなたと遊ぶように、私が言っていたと。わかりましたか?」
「んー?」
頭をフル回転させている瞬を今も見ている、崇剛は優雅に微笑んでいた。
(私からの命令です、あなたと遊ぶように。涼介との話が終わるまで、他のどなたかに見ていてもらってください。子供ひとり放っておくわけにはいきませんからね)
瞬は自分の腕に反対の肘を乗せて、頬を手の甲に当て少し考えた。
「えっと……ぼくとあそんでって、せんせいがいってた?」
「そうです」崇剛はいつもと違い、本当に優しく微笑んで、小さな天使の頭をなでた。
「よくわかりましたね。ひとりで言えますか?」
「はーい!」
遊びという楽しみに惹かれ、瞬は右手を大きく上げ、元気よく返事をした。
「それでは、遊んで来てください」
「わかったー!」瞬は無邪気に微笑み、手を大きく振る。「パパ、はやく、げんきになってね」
聖堂からパタパタと走り出て行った瞬。ドアを開けっ放しで出ていってしまった。茶色のロングブーツは足早に身廊を戻りながら、
「あなたが遊びに飽きてしまう前に、何とか解決しなくてはいけませんね」
ドアをきちんと閉めて、祭壇近くの席へ再び戻ってきた。
茶色のロングブーツを身廊に残すように横向きで座り、主人は神経質な横顔を執事へ見せる形を取った。
静かになった聖堂の高い天井まで届くように、遊線が螺旋を描く優雅な声が響き渡る。
「昨夜から今朝にかけて、何かがあったのですね?」
知らないはずの主人に言い当てられたと思って、執事は少しだけ目を大きくした。
「どうして、わかったんだ?」
今のは軽い罠で、涼介自身が認めた形になっていた。崇剛は理論的に流暢に言葉を紡ぐ。
「昨夜、眠る前はあなたの様子はおかしくありませんでした。ですが、今朝から様子がおかしくなりました。そちらは、眠っている間に何かあったという可能性が非常に高くなります。違いますか?」
感覚人間――執事は何とか理論武装の主人の話についていき、納得の声を上げた。
「あ、あぁ……そういうことか。お前の考え方って難しいけど、簡単に当てられるんだな、俺が言わなくても……」
今初めて、冷静な水色の瞳は、執事の素直で正直なベビーブルーの瞳へ向けられた。
「私にも話せない内容なのですか? 今まで何かあった時は、私のところへあなたは相談しに来ていましたよ」
涼介は珍しく困った顔をした。視線をそらし、祭壇の向こうにある冷厳なブルーのステンドグラスを眺めた。
「あ〜っと、それは……。今回ばかりは、お前にも言いづらいことなんだよな……」
「厳しい言葉かもしれませんが、仕事はしていただかないと困りますよ。こちらの屋敷の人々の一番上――責任者なのですから、執事のあなたは」
主人からの叱り。それでも、涼介の瞳はまだステンドグラスの青で満たされたままで、唇をかみしめた。
「……わかってる。ただ……」
「えぇ」
「その……」
「時間がありませんよ。瞬も含めて、みなさん待っているのですから」
「あぁ、そうだな……」
何とも歯切れのよくない執事。主人はどんな小さな情報でも得たいがために、涼介からまったく視線をはずさなかった。
「内容はいいですから、何があったのかだけでも教えてください。そちらだけで判断できるのであれば、話す必要はないかもしれません」
天井の高さが、神世へと続く階段のように思えるドーム型を、涼介はしばらく見つめていたが、崇剛にやっと視線を戻した。
「んー……夢を見たんだ」
「そうですか。どのような夢だったのですか?」
特に問題がなさそうな執事の答え。主人は当然の質問を投げかけた。
涼介は崇剛が座っている参列席のテーブルを、苦悩の瞳で見つめ、
「どうすればいいんだ?」うなるように続ける。「話したくないが……伝える方法って、何があるんだ?」
感覚的な執事は主人の特徴をど忘れてしていた。迷える子羊――。
「千里眼を使って見ましょうか?」メシア保有者は何の感情も交えず、手を差し伸べた。
「話せないのであれば、そちらの方法で私が見ますよ。解決していただかないと、あなたを含めて、みなさんが困りますからね」
感情は時に決断力を鈍らせる――。今の涼介がまさしくそうだった。小さな声でボソボソと自問自答する。
「……そうだな、それが一番いいよな? 口に出して、説明するのはちょっとな……」
視線は自分の手元へと落ちたままで、うつむいている涼介のひまわり色の髪を、崇剛は冷静にうかがっていた。
「どうしますか? あなたの了承も得ずに、私は見るつもりはありません。心霊関連の事件ではないみたいですからね。見てほしくないのであれば、あなた自身で解決をしてください」
優柔不断な感情という荒波から、砂浜へ何とか戻ってきた執事は、主人に真剣な顔をやった。
「少し怖い気もするが、このままじゃ、仕事に身が入らないしな……。じゃあ、見てくれ」
次の情報を的確に、策略的な主人は収集してゆく。
「あなたのプライベートを必要以上に見るつもりはありません。何時頃でしたか?」
とにかくひどいショックで、涼介は記憶を思い出すにも時間がかかった。
主人の長い髪の紺。
それを束ねているリボンのターコイズブルー。
貴族的な上着の瑠璃色。
シルクの袖口の住人――カフスボタンのロイヤルブルーサファイア。
聖堂へ入り込む神がかりな光るシャワーの青。
それらを見渡した涼介は、冷静さを取り戻すカラーに手伝われて、やっと口を開いた。
「……四時少し前だった。飛び起きて、時計を見たから間違ってない」
「そうですか」
崇剛は顔色ひとつ変えず、どうとでも取れる相づちを打ち、
今朝、十月十八日、火曜日、四時前――
千里眼の時刻を巻き戻し、照準を合わせた。
そうして、人に記憶を見られるという恐怖心を持つことになってしまった執事へ、主人は最後の確認を取った。
「それでは夢だけを見ます。よろしいですか?」
「あぁ、お願いする。かなり変な夢だから、お前も珍しく驚くかもしれないな」
涼介の感情である先入観をデジタルに切り捨て、崇剛は優雅に一言断りを入れた。
「それでは、失礼――」
それきり会話はなくなり、静かな聖堂で男ふたり黙ったまま向かい合い、同じ夢という記憶を共有し始めた――
*
――清々しい青空が突如広がった。
頬をかすめてゆく風は、実りの香りを全身へ惜しげもなく与えてゆく。それに乗るように、横へ流れる川のようにサラサラと、細い糸のようなものが波打っていた。
「ん?」
正体を確かめようとすると、最初に目へ飛び込んできたのは色だった。
「黒……?」
まじりっ気のない黒。陽の光を反射して、キラキラと輝く。感触は今までの人生で、よく味わったことがあるもの。
「……髪? 誰のだ?」
いきなり始まった夢の世界――。
隣に人の気配がすることに今気づかされた。焦点を鼻先から右へ向け、少し遅れて顔をそっちへやると、そこには、長い髪を高く結い上げた男が立っていた。
窓の外を見つめている瞳は瑠璃紺色。聡明という言葉に尽きる。眉は凛々しいのに、穏やかな春の日差しみたいな柔らかさを持っていた。