Nightmare/1
ゆったりとしたワルツが、秋風の中で揺れている。
エリック サティ、ジムノペディ 第一番。
静かで幻想的なピアノの音色が、心地よいもたつかせ感で左右へ滑らかにスイングする。
紺の髪の奥に隠れている、俊豪な全てを記憶する冷静な頭脳の持ち主――崇剛の心の内で、微かな変化をもたらす戸惑いのような美しき旋律に身を委ねていた。
水色の瞳の端では、レースのカーテンの向こう側で、庭にある木の葉が赤や黄色に紅葉して、針葉樹の緑が様々なグレデーションを見せる、山肌が遠くの空に横立っている。
乾いた秋の香りと哀愁を秘めた風が窓から入り込む。深碧色のソファーには瑠璃色の貴族服が優雅に腰掛けていた。
右手の怪我はとうの昔に治り、幸いなことに傷跡もまったく残らなかった。
パサパサと紙のすれる音がし、カチャッと食器同士がぶつかると、神経質な手がティーカップを少し柔らかい中性的な唇へ運ぶ。
ベルガモットの香りを漂わせながら、温かみという優しさが体の内側へ浸水していった。
恩田 元がベルダージュ荘を訪れた、五月二日、月曜日。
あちらの時から、ラジュ天使は一度も戻ってきていません。
その後、私は何度も旧聖堂へ行きました。
悪霊の浄化は、カミエ天使が全てしてくださいました。
気を失う機会は減りましたが、それでも倒れることがあり――
旧聖堂へ幼い自身が走ってゆくという夢を何度か見ました。
ですが、瑠璃が出てくることは一度もありませんでした。
カップをソーサーへ戻すと、崇剛は軽く嘆息した。
「厄落としは終わったのかもしれませんね」
季節は確実に過ぎ、あれから半年以上が経っていた。しかし、物事は何ひとつ決着がつかず、中途半端なままだった。
患者は六名見えました。
ですが、どの方もスピリチュアルとは関係なかった。
国立氏に会うこともありませんでした。
いつ、情報を収集する機会がめぐってくるのでしょう?
仕事以外に顔を合わせる理由のない、聖霊師と刑事。四月の終わりに、突如割って入ってきた恋愛感情という投石。
可能性の数値も何もかもが変わらないままで、時だけが悪戯に過ぎてゆく、明鏡止水という日々の往復。
ジレンマの海は凪でも、動きが出てきている出来事はあった。
ローテーブルの上に、いつ通り使用人が用意したインクのコートをまとった新聞紙。神経質な手で取り上げ、誌面の右上を見た。
「十月十八日、火曜日」
細身の白いズボンのポケットから取り出しておいた、鈴色をした幾何学模様の懐中時計を肉眼で捉える。
「九時十七分十四秒」
情報を的確に冷静な頭脳へ整理する、インデックスをつけた。一面で大きく取り上げられている記事が飛び込んできて、水色の瞳はついっと細められた。
シュトライツ王国――ミズリー教徒による立てこもり事件が発生。王宮敷地内にある王立研究所が、研究員の中に紛れていた隠れミズリー教徒により占領された。
それを皮切りに、ミズリー教徒たちが王宮敷地内へ潜入し、他の研究員を人質に取り、教祖の解放を交換条件として、現在、交渉中――
崇剛の神経質な顔は紙面からはずれ、机の上の羽ペンへ向けられた。不意に吹いてきた強い風に、風見鶏のようにくるくると回るペンは、狂ったようにスピードを上げて、まるでシュトライツ王族のいく末を暗示するように倒れそうになった。
「シュトライツ王国が崩壊するのは、時間の問題かもしれません。ミズリー教徒は王宮の敷地内に既に入り込んでいるみたいですからね。本陣をいつ落とされても、おかしくはありません」
崇剛は新聞をカップにぶつけないように気をつけながら、テーブルへ折り畳んで置いた。
ソファーから優雅に立ち上がり、茶色のロングブーツのかかとを鳴らしながら、窓辺へと歩いていった。
レースのカーテンを開け、鰯雲のかかる秋空を見上げて、遠い国――シュトライツへ疑問という想いを馳せる。
「ですが、未だに導き出せません。シュトライツ王国の崩壊と私たちが関係する理由が……。情報が少なすぎる。困りましたね」
その時――
トントン!
ドアをノックする音がした。それは今までと違って、ずいぶん下のほうから聞こえてきた。
揺れ続けていたオアシスのようなピアノの響きはピタリと止んだ。紺の髪は振り返った衝動で、少し乱れ神経質な頬へかかった。
ロイヤルブルーサファイアのカフスボタンをともなった、神経質な手はあごに当てられ、崇剛は違和感を強く持った。
「下のほうから聞こえてきています。力の強さも弱いみたいです……。そうなると、ドアをノックしたのは――」
可能性から導き出した答えを、崇剛はドアの向こう側にいる人へ問いかけた。
「そちらにいるのは瞬ですか?」
「うん、そう」
その通り、幼い声がくぐもって返ってきた。
珍しい訪問客を迎え入れるため、茶色のロングブーツは床を横切ってゆく。
「今開けますから、待っていてくれますか?」
「わかった」
素直な返事を聞きながら、崇剛は水色の瞳をついっと細める。
今まで、瞬が私の部屋のドアをノックしたことは一度もありませんでした。
おかしいみたいです。
何かあったのでしょうか?
優雅な足音が部屋の中で足早に響き、神経質な手で金のドアノブを開けた。手前へ引き入れると、小さな住人しかおらず、目線を合わせるため、崇剛は片膝を立てたまましゃがみ込んだ。
「どうかしたのですか?」
瞬の表情は少し曇っていて、落ち着きなく胸の前で、人差し指同士をトントンと合わせながら、
「あのね?」
「えぇ」
魔除のローズマリーが主人と純真無垢な子供を守るようにふんわりと包み込んだ。いるはずの執事がいないとなると、涼介に何かがあったと、誰にでも想像がつく。
先を促された瞬は、しょんぼり下を向いた。
「パパ、げんきないの」
「そうですか」
崇剛はあごに手を当てて、執事の情報を冷静な頭脳の中にザーッと流し始めた。
朝、様子がおかしいように見えた。
何か考えているように見えた。
ですが、本人が私のところへ来ないのはおかしいです。
そうなると、涼介が私のところへ来られない何かがあるという可能性98.89%――
子供を心配させないように、崇剛は優雅に微笑んで、質問を投げかけた。
「涼介は何か言っていましたか?」
瞬のひまわり色のウェーブ髪は横へ揺れる。
「ううん」
「そうですか」
間を置く言葉を使い、ささっと情報をまとめる。
屋敷には結界が張られています。
従って、悪霊などによる体調不良ではないという可能性が99.99%――
秋風に紺の髪が揺れ、さらに考えをめぐらせようとすると、瞬の心配そうな声が割って入ってきた。
「どうしちゃったのかな?」
細く神経質な手をあごから離し、小さな頭を優しくなでた。
「あなたは優しいのですね、私に教えに来たのですから」
「ん……」
瞬は床を見つめたまま、自分のシャツの裾を落ち着きなく伸ばした。
小さな子供の心を救おうと、崇剛は的確に質問を続ける。
「涼介はどちらにいますか?」
「きょうかい」
子供からの返答。修飾語がなく、単語ひとつのみ。情報は少ないが、間を置く言葉をまた使い、
「そうですか」
素早く可能性を導き出した。
瞬が知っている教会はふたつあります。
ひとつは私がよく行く旧聖堂。
ふたつ目はこちらの屋敷に併設したもの。
瞬が旧聖堂へ行くという可能性は0.56%――
非常に低いです。
なぜなら――
私が倒れているところを、涼介が何度も助けに来ています。
そのような危険な場所へ、瞬を行かせるようなことを親である涼介はしません。
瞬は素直であるという傾向があります。
ですから、約束を破るようなことはしません。
従って、涼介がいる場所は――
ここまでの思考時間、約一秒――
崇剛はさっと立ち上がって、可能性から突き止めた執事の居場所を小さな子供へ告げた。
「一階へ一緒に行きましょうか?」
心強い味方ができて、瞬は目を輝かせながら元気にうなずいた。
「うん!」
崇剛は部屋の鍵を閉め、ズボンのポケットへそれを何気ない仕草で入れた。自身の小さい頃を思い出し、すぐそばにいる子供の気持ちを予測する。
「手はつなぎますか?」――寂しいのではありませんか?
「うん! つなぐ!」
まるで本当の親子のように、二階の廊下を子供の歩調に合わせ、崇剛はゆっくり歩き出した。
窓から入り込む光が、微笑ましいふたりを波打つように照らしては、壁の影に隠れてを繰り返す。
一階へと続く階段へ近づくと、崇剛は瞬のひまわり色をした可愛らしい頭を、冷静な水色の瞳に移した。
一段ずつ、足をそろえて降りるという可能性が99.99%――
策略家の導き出した数値は、小さな子供にいとも簡単にひっくり返されるのだった。茶色のロングブーツと一緒に歩いていた小さな靴は、普通に階段を一歩でどんどん降り出した。
小さな子供にチェックメイトされた主人は、いつもと違って優しく微笑んだ。小さな体で大人が使っている階段を一生懸命降りている瞬へ、
「階段を上手に降りられるようになったのですね」
「うん!」
大きく首を縦に振って、ひまわり色の髪が元気に飛び跳ねた。崇剛は高く聳え立つ窓から空を見上げる。
瞬と私はほとんど接していませんからね。
以前は、一段ずつ足をそろえて降りていましたが、成長したのですね。
霊界にいる彼女も喜んでいるかもしれませんね。
瞬はぴょんぴょんと、最後の二段は両足でジャンプして、一階の廊下に可愛らしく着地した。いつも氷河期みたいな崇剛の瞳は、陽だまりのように穏やかに緩む。
食堂とは正反対の位置にある教会の扉。一番東へ向かって、主人と純真無垢な子供は、四角く切り取られた秋の日差しを浴びながら、再び歩き出した。
金木犀の風香りが窓からあふれ、華やかな空気がふたりの頬に触れてゆく。
乱れた後れ毛を神経質な手で、崇剛が耳にかけると、瞬がふと顔を上げた。
「せんせい?」
「えぇ」
呼ばれて、視線を下へ合わせると、かけたばかりの紺の後れ毛が頬にまた落ちてしまった。
小さな子供が次に何を言うのか。可能性から導き出した策略家は、優雅な笑みで話し出すのを待った。
(ピアノの話ですか? 私たちは今、ピアノの置いてある部屋の前を通っていますからね)
予想通りの答えが、瞬の小さな口から出てきた。
「チューリップ、ひけるようになった」
崇剛は自分の後れ毛をかけ直すこともせず、神経質な手でひまわり色の柔らかい髪をゆっくりなでた。
「そうですか。よかったですね」
屋敷の中に響いてくる、つたないメロディーは、崇剛の脳裏で綺麗な色をつけていた。
(一週間前までは、三小節目でつかえていましたが、弾けるようになったのですね。あなたは様々なことを、あなたらしく吸収していくみたいです)