Karma-因果応報-/1
不浄な空気に包まれた、全体的に黄ばんだ治安省の墓場――聖霊寮。
五月のさわやかな風に誘われるように、蝶々が窓から入り込もうとした。
しかし、墓地から腐臭漂うゾンビが出てきたみたいに、椅子に座っている職員たちの吐く息で、春の象徴である蝶々はショックで死にそうになった。さっと方向転換して、近くの植え込みに咲いていた花へ避難する。
墓場の一角で、ソンビを退治する墓守と言っても過言ではない、異彩を放っている男がいた。
ひび割れた唇からはトレードマークの青白い煙は、今日は上がっていなかった。
放置と忘却という名の資料の山が連なる、谷間といえる埃だらけの机の上で、刑事のごつい指にはめられた、シルバーリング三つが細い万年筆を握って、いかにも書きづらそうにしていた。
「月曜の朝からよ、崇剛の野郎。毎回毎回、あのクールな頭で次々に言ってきやがって……。メモするほうの身にもなりやがれ」
ブルーグレーの鋭い眼光はいつにも増して鋭利。殴り書きしたメモを調書にカサカサと記入しながら、手を止めて思い出そうとする。
「あぁ〜っと……恩田が前世で殺したのが……百五十六人――」
「――兄貴!」
「あぁ?」
顔を上げると、日に一度は自分のところへやってくる、二十代の若い男がこっちへ走ってくるところだった。
「恩田 元が出頭してきたっす」
容疑者から直々の訪問だったが、刑事の勘に優れている国立は驚きもせず、万年筆を埃でざらつくデスクに投げ置いた。
「そうか。こっちに来やがったか。予想した通り動きやがる」
両手を頭の後ろへ回し、古い回転椅子にギギーッとのしかかった。
証拠はほぼ出そろっていて、嵐はすでに過ぎ去ったあと。聖霊寮の事件は心霊的なもので、それを裁ける機関は国にはないのだ。
若い男は心配げな顔をしていた。
「どうしやすか?」
書いていた調書をトントンとまとめながら、国立は、
「通せ」
「おっす!」
若い男は気合いを入れるようにうなずいて、聖霊寮から勢いよく出て行った。
それを見送った国立は、まとめた紙を机の上に一休みというように置く。
「オレがすることはひとつだからよ」
シガーケースから葉巻を取り出して、火をつける。それを吸い終わる頃に、元が連れてこられた。
ウェスタンブーツのスパーを鳴らしながら、国立は胸を張って近づいてゆく。
積み上げられた事件資料の谷間から、応接セットが見えるようになると、別人かと見間違うような、とても四十代とは思えない男がかろうじて座っていた。
白髪だらけで、頬は痩せこけ目は落ち窪み、髑髏と言っても過言ではないほどの有様だった。
もともと猫背だったのがさらに前かがみになり、何の事情も知らない人が見たら、七十代ぐらいに見えるほど。
国立が釈放してから四日しか経っていないのに、何十年も時が過ぎてしまったかのようだった。どれほどの罪を犯したのか如実に現れていた。
心霊刑事は別に驚くわけでもなく、ソファーにどさっと腰を下ろした。
(ずいぶん、お化けさんにやられてんな、その顔。利用されてやがるって、今朝、崇剛から聞いたからよ。れって、死ぬ寸前までだったら、相手は何でもしてくるってことだぜ)
ジーパンのポケットからシガーケースを取り出し、ジェットライターで火をつけた。
口に葉巻をくわえ、男らしく長い足を直角に組む。ソファーの背もたれへ両腕をけだるそうに広げてかけたが、心霊刑事から容疑者に話しかけることはなかった。
国立の刺し殺すような威圧感この上ない、ブルーグレーの眼光。元は聖霊寮へ来たのはいいものの、蛇に睨まれたカエルだった。怖くて言葉を言い出せない。
訪ねてきたのは元だ。話を切り出すのも元。それが礼儀というものだ。国立は青白い煙をただ吐き出した。
不浄な聖霊寮の一角で、元は黙りこくった。気にかけてくれたって、いいじゃないか。見ればわかるだろ、大変なのはと。
視線で訴えかけていたが、帽子のつばギリギリから向けられるブルーグレーの鋭い眼光を見ると、元は怖くなって視線をはずした。
そんなことが数分間繰り返され、心霊刑事が灰皿にミニシガリロを三度なすりつけると、元がやっと話しかけてきた。
「あ、あの……」
崇剛と違って、情けのある心霊刑事はこれだけで許してやった。元がなぜ今頃になって、出頭してきたのか、国立にはよくわかっていた。葉巻の青白い煙を吐くと同時に、
「牢屋に入れろってか?」
「え、え……?」
「結界の中で守ってもらおうってか?」
「あ、あ……はい」
戸惑い気味に返事をした元は、国立がどうして、自分の考えていることがわかったのだろうと不思議に思った。
シルバーリングのはめられた指で、ジェットライターが弄ばれると、カチャカチャと金属がすれ合う音が響いた。
「入れてやってもいいけどよ」
国立と対して年齢は変わらないのに、白髪ばかりになってしまった、この男は邪神界だ。牢屋に入れられない理由はどこにもない。
「は、はい……」
元は両手を膝の上で行儀よくそろえて、グーに握った。心霊刑事はローテーブルの上に、ウェスタンブーツの両足をどさっと乗せた。
「逃げ切れねぇぜ?」
「え、え……?」
退路をたたれそうになっている元は急に慌て出した。
「死ぬまで入ってても意味がねぇんだよ」
事件という傷が刻み込まれた靴底を見ていた元は、心霊刑事にすがるような視線を送った。
「あ、あの……どういうことですか?」
国立はミニシガリロを挟んだ指を、元に見せるけるように、ドアをノックするみたいに押し出した。
「お前さんの罪状は肉体じゃなくて、魂のほうだろ?」
「魂……?」
「まだわかってねぇのか?」
「は、はい……」
元にはさっぱりわからない話だったが、適当にうなずいてごまかした。視線を気まずそうにそらし、顔には戸惑いという文字が書いてあった。
明らかに話を理解していない容疑者。国立はローテーブルの上に乗せてあった足を、あきれが思いっきり入ったようにどさっと乱暴に床へ落とした。
両肘を膝の上に乗せて、容疑者に身を乗り出す。チェーンの長さが違うふたつのペンダントヘッドが、カチャカチャと音を生み出しながら、元へと近づいた。
「れって、てめぇで反省しねぇ限り、死んでも続くってことだぜ。生まれ変わっても続く」
元は憤慨して頭をプルプルと振り、力の限り叫んだ!
「し、しました!」
頭を抱え、いかにも哀れみをくださいと言わんばかりに、言葉を続ける。
「もう、あんな怖い想いはしたくない。だから、こうやって、治安省に自分で来たんだ!」
猿芝居だ――。容疑者の言動がバカバカしくなってしまって、国立は鼻で笑った。
「お前さん、前世で何をしたのか知らねぇのに、反省ってか?」
葉巻の青白い煙を吐き出すと、ドスの効いた声で、
「逃亡するために嘘つくんじゃねぇ」
一昨日の夜に、崇剛が瑠璃に審神者をしてもらった。事件の全貌は明らかになっていない。捜査情報を途中で犯人にもらすなど、聖霊師がするはずがない。
途中経過として、週明けの今日――月曜日に、国立に連絡をしてきただけだった。
いい想いをしたいが、努力はしたくない。そんな人間が元だ。
「え、え……?」
自分で話を支離滅裂にしておいて、元は落ち着きなく視線をあちこちに飛ばした。
(言ってる意味がわからない……)
犯罪履歴を都合よく抹消しようとしている容疑者。心霊刑事はいつもより声のトーンを落として、逃げられない袋小路に追い込むように、もう一度同じ問題を突きつけた。
「何を反省したんだよ?」
「助けてくれても――」
憤慨しようとした元を、国立は鋭い眼光だけで抑え切った。
「オレはアドバイスはできっけどよ。本当に改心するかどうかは、お前さんと神さん次第なんだよ」
「え、えっと、それは……?」
元は自分の手元を見つめて、答えを見つけようとする振りをするが、怒りが不意に込み上げてきて、ソファーから勢いよく立ち上がった。
「こんなに苦しんてるんだ! もう十分だろう!」
「今のお前さんは、例えて言うならこうだ」
国立は座ったまま、相変わらず声のトーンを落として、努めて平常心を保った。
「てめぇで落ちた谷底で、ただほざいてるだけだろ? はい上がる努力もしねぇでよ? 無責任だろ」
怒りでプルプル震えている元は、何も言わずに唇をきつく噛みしめた。それに構わず、国立は言葉を続ける。
「夢の中で誰か殺してんだろ?」
「っ……」
元は思わず目を見張った。まるで自分の心をのぞかれたようで、気味が悪かった。
「そいつにだって、家族、想い人がいただろ? 人さまひとり殺したら、何人が傷つくんだよ?」
「そんなの……!」
「それを、てめぇがオール償うんだろ? 誰にも頼れることじゃねぇだろ。てめぇで引き起こしたんだからよ」
国立はミニシガリロを灰皿ですり消した。頼みの綱がなくなってしまうような予感が漂い出て、元は焦った。
(逃げられない。他に方法は……?)
この後に及んで、往生際が悪い――。感じる程度の霊感しかない、聖霊寮の職員――国立にはこれ以上何の手立てもなかった
それでも、情のある刑事は、自分よりは救ってくれるであろう、別の人の名を親切にも教えてやった。
「崇剛 ラハイアットのところに行きやがれ」
「え……?」
元は藁にもすがるような想いで、ブルーグレーの鋭い瞳を見つめ返した。
「説教受けて、少しは反省しやがれ。やっこさん、神父さまだからよ、きっちりしてくれんぜ。てめぇの手助けになるんじゃねぇのか?」
「説教!?」
元は急に慌て出した。ありがたくもない話を聞かされるなんて、まっぴらごめんだと言うように。そこへ、国立からとどめの一言がお見舞いされた。
「がよ、オレとディファレントで容赦はねぇぜ。覚悟して行けよ」
あの猛吹雪を感じさせる、冷たい水色の瞳。ルールはルールで絶対に引かない性格。少し考えれば、元に対して、あの優雅な男がどんな態度で接するか、容易に想像ができた。
これ以上話すことはないと言うように、国立はソファーから立ち上がった。
「じゃあな」
無情にも、元を残して、刑事は自分の席へと戻っていきながら、ひとりごちる。
「聖霊寮じゃ、どうしようもねぇんだ。邪さんの絡んでる事件を見つけるだけだからよ、刑事のオレがやることは。ここは裁くとこじゃねぇ。最後は、聖霊師――っつうか神さんがやんだよ」
どんどん離れてゆく、国立の大きな背中を、すがりつくような目で元は眺めながら、ヘナヘナとソファーに崩れ落ちた。
「そ、そんな……」
犯罪を取り締まる国の機関から門前払いされてしまった。悪霊に次々に襲撃されている容疑者は、ソファーの上にひとり取り残された。
国立は気にかけることもなく、ウェスタンブーツのスパーをカチャカチャ鳴らしながら、自分の席へ戻った。
「調書が書き終わんなくなんだろ。オレは残業しねぇ主義なんだっつうの」
古い回転椅子にどさっと腰掛けると、ザバーっと未解決事件という雪山で雪崩が発生した。国立は手際よく現場検証をして、口の端でふっと笑う。
「これは、誘拐だな……」
絶妙にズレされた言葉のチョイスに、いくら墓場の職員であろうとも、刑事である以上、死んだような目をしていた同僚たちは一斉に、国立に視線を集中させた。
心霊刑事は気にすることなく事件一直線で、捜索隊という六つのシルバーリングをした両手で捜査に手をかけた。
「調書とメモ紙、どこに行きやがった? 行方不明になってやがる」
ぶちまけられた紙の山をごつい手でわしづかみし、右へ左へ適当に積み上げてゆく。やっと一番下から、ふたりの被害者――調書とメモ紙を刑事は見つけ出した。
「無事保護ってか?」
ミニシガリロをくわえた口の端で、国立はニヤリと笑った。
デスクの上を元どおりにし終えた頃、元の姿は聖霊寮のどこにもなかった。
それを見て取った国立は、椅子からけだるそうに立ち上がり、「はずす」同僚たちに言い残すと、廊下へ出て行った。
(崇剛に連絡しねぇとな。恩田の野郎、ベルダージュ荘に行ったからよ。墓場に電話はねぇから、罪科寮のどっかで借りっか)
他の職員とすれ違いながら、国立は綺麗に晴れ渡る空を窓から眺め、長い足で進んでいった。