暗赤濁の怨線
――横へなびく雲がかかる朧月。
落ち着きなくあたりを見渡す、自分の目玉がふたつ。景色が左へ右へ動いては止まり、また忙しなく横流れをする。
人に見られては困るというような後ろめたさの塊でありながら、己の生活をまっとうするための手段。
別の手段があるかもしれないと思い、必死に探すこともしない、怠惰の末の行い。他人もしているからいいという甘え。
悪行という名にふさわしい、チラチラと、キョロキョロと、ギラギラ。様々な種類の視線の連続。
舗装されていない土の、デコボコ道を小走りに横切る草履。胸の中には細く重みのある鉄の塊を大切に包み抱えている。
表通りより二本も奥へ入った路地裏。民家から離れた雑草だらけの場所を、草をかき分け進んでゆく。
腰まで隠れてしまうほどの、ボウボウと生える草の海へ身を沈める。視界は夜色を浴びた隠れ藪の細長い葉だらけになった。
獣道のようなもののすぐ近くで息を殺す。虫の音も不自然なほどない、嵐の前のような静寂。
時折り風が揺らす草のすれ合うサラサラという音だけの中で、気が遠くなるほどの時間が過ぎてゆく。
ただひたすら息をじっと潜め、何かを今か今かと待つ。
やがて、微かに後方からザザッと土を鳴らす足音が近づいてきた。
焦りと息切れがひどい女の声が風に乗って、餌食という匂いを撒き散らす。
「急がないと……最近、ここら辺では……」
草むらに隠れている自分はひたすら息を潜める。蝶が巣にかかるのを待つ、蜘蛛のように。
いつでも動けるように、片膝は地面へつき、反対のそれを立てて、細長く重いものへ右手をかける。
今少しでも動けば、金属音という警報が鳴り、蝶――相手に逃げられてしまう。逃してなるものか。
女の足音が自分の体を右から左へ通り過ぎる。地面の上で草履をすうっと反転させ、忍びという円を慎重に描き、女の体に合わせて正面を向いた。
標的が背後を見せる時が狙い目――。
わかっている。今までもそうだった。幾度となく、この動きはしてきた。体が覚えている。
風も夜の匂いも相手との距離も気配も。そうして、左手の中にある鉄の塊の重さも役目も。
あと半歩で自分を通り過ぎる位置へと、女がやって来た。
照準が合ったように、自分の目の位置は一気に高くなり、薄暗い中で女の背中を肉眼で捉えた。
今が好機だ――。
草むらから自分の体は、突然獣道へザバッと踊り出した。左手にさっきから持っていた細く重たいものから、カチャッと微かな金属音が放たれ、鋭利なものをスッと抜き出す。
月の光で不気味な銀色を放ち、そのまま無防備な背を向けている女へ向かって、力みもせず、呼吸も乱さず、完全に意表をつく形で力一杯振り下ろした。
すぐと、暗赤濁の怨線が薄暗い夜道に突如浮かび上がり、
「きゃぁぁぁっっ!!!!」
女の断末魔が響き渡った。
誰もいない。自分たち以外いない。町外れの民家もない無法地帯。
自分の体や腕に生暖かい液体が、毒のように弾け飛んできた。女の背中はすぐさま屍となり、無残にも地面へ崩れ落ちた。
自分の手で人を殺した。それなのに、驚くどころか、喜びを感じる自分がいて、満足げに唇が動いた。
「これで、宇田川様に献上出来る。いい出来だ……」
服の間に慣れた感じで手を入れ、 懐紙を出し血と脂を綺麗に拭い去り、鋭利な鉄の塊を鞘へと戻した。
敬意などという言葉はどこ吹く風で、女の死体を草履でひょいとまたいだ。土の道を歩きながら、朧月を仰ぎ見る。
「そろそろ、この辺は噂が出てるから、場所を変えねぇといけねぇな。西の町外れのほうにするか……」
何事もなかったかのように、自分の家がある表通りへと戻ってゆく。女の死体から地面へどんどん広がってゆく血の海を、密かな月明かりが不気味に映し出していた。
*
――カンカンカン!
鉄を叩く音が、耳を引き裂くようにつんざく。炎の中に細長い鉄の塊を入れると、マグマのような赤オレンジ色の四角いものが現れた。そうしてまた、
カンカンカン!
細長いものを目の高さと並行に持ってきて、品定めするようにじっくり眺める。そばに置いてあった水面に沈めると、
ジュッ!
白い湯気が上がりながら、火が水にいきなり消されたような音がした。
それと反比例するように、あの人を斬る重みや感触が燃えるように蘇る。自身の能力を超えた、制御の効かない力を手にした、哀れな人の末路よりも、この戰慄に狂喜する自身に酔いしれる。踊らされているとも知らず。
まさか自分がそんな過ちを犯していているとも気づかず。いや、そんな愚かではないと、首を何度も横に降る――暗示をかける。
そうして、人のために役に立っているのだと、言い訳を正当な理由にすると、また口の端を醜く歪めて、呪文のように唱えるのだ。
「今日も夜出かけるか」
そうして、いきなり場面が切り替わり、暗い夜道で悲鳴と断末魔が嵐のように襲いかかる。
「きゃあああっっっ!?」
「ぎゃぁぁぁっっっ!?」
「うぎゃぁぁっっっ!?」
暗赤濁の怨線が縦に切れ目を入れて、何本も浮かび上がる。血生臭い空気に包まれて、抑えても抑えきれない吐き気に襲われるが、人を斬る感触が止まることはない。
誰かを守るためならば、修羅の道にでも落ちよう――どこかで聞いたようなセリフ――。
心の中で何度も繰り返すと、脇役だった人生がまるで主役に抜擢されたようになった。まとわりつくような偽物の優越感。
最後には視界が血塗られたように真っ赤に染まった――――
*
薄暗いひとりきりの部屋――
「うわぁっ!」
元は絶叫にも似た叫び声を上げて、目を覚ました。
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
薄手の掛け布団は起きた衝動で、畳の上に落ちていた。息切れがひどい。
今までは妻がそばにいたが、突然の他界でひとりきりの月も出ない夜。寝巻きの袖で額に浮かんだ脂汗を無造作に拭う。
「な、何なんだ?!」
一枚しか敷いていない布団から出て、畳を踏む。台所へ向かおうとするが、男の一人暮らし、散らかり放題の部屋で、
「うわっ!」何かに足を引っ掛け、襖に手をついた。ガタンと敷居から外れる音が薄闇に響き渡ると、無様に元は転んだ。
「あははははは……っ!」
何重もの女の笑い声が頭の中を駆けめぐり、嘲笑われて続けていた。誰も助けてくれるものはおらず、元は痛みをあちこちに抱えながら、
「いたたた……」
起き上がろうとすると、自分のまわりをグルグルと魂まで食らいつくような、不気味な男女の声が禍々しくまとわりつき始めた。
「返して……」
「恨めしい……」
「苦しめばいい……」
「悲しめばいい……」
「お前なんかいらない」
「殺しておいて……」
「狂わせてやる……」
「同じ目に遭えばいい……」
「憎い……」
「滅ぶまでつきまとってやる……」
「いい気味だ……」
「償わないなんて……」
「様見ろ」
「利用してやる……」
元は近くに落ちていた枕で頭を覆い、膝を抱え、目をギュッとつむり、ガタガタと震え出した。
「な、何なんだ……? こ、この間の診察で終わったんじゃないのか? こ、このままじゃ殺される!?」
無慈悲極まりない天使――ラジュのお仕置きは常人では耐えがたいものだった。放置という名の恐怖と残忍さ。
ニコニコしながら平然と策略という地獄の底へ突き落とす。
邪神界――悪に対してならなおさらで、悪霊襲撃という牢獄に入れただけでは足らず、容赦なく鞭を振るうようなことを、通常モードでしてのけていた。
その場から逃げるように、元は握りしめていた枕を投げ捨て、お勝手へ向かってゆく。
カラカラののどを潤そうとするが、まとわりついてくる声はどんどん数を増していた。それでも、崇剛の忠告――
「どうか、お気を強く持ってください」
にすがろうと、何度も頭の中で繰り返すが、元は本当の意味を理解もせず、努力なしに物事から回避しようとした。
もう何日も洗っていないコップを手に持ち、水道の蛇口に手をかけた。
キュキュッと悲鳴にも似た音を出しながら、蛇口は回り、コップで水が出てくるのを待ち受けた。だが、ゴボゴボと何かが引っかかる音がして、
「も、もしかして……!?」
元は手元を恐る恐る見下ろした。すると、そこにはドロドロとした血の水面に、三人の女の顔が浮かんでいた。
物理的にありえない光景だった、コップの小さな面に三人の顔が映り込むなど。
気を強く持てなかった元は、「うわっ!」恐れおののき、慌ててコップから手を離した。ガタンとシンクに落ちたあと、そのままヨロヨロと床の上に座り込んでしまった。
「な、何で……死んだあいつらが……今頃出てくるんだ?」
蛇口から出てくるのは、ただの水で、血などどこにもなかった。心霊現象など嘘だと思っていた彼は、霊的な事象をあまりにも甘く見ていた。
背後には数えきれないほどの視線と気配。狂気と殺気が恨みの鎖で知らぬ間に拘束し、地獄の果てまで追いかけてくるように迫りくる。
急所を全てはずして、鋭い刃物で刺されるような恐怖。痛みとショックで気絶しようとも、無理やり意識を戻されて、嬲りものにされる。
殺される――!
それでも元は何とか布団という自身を守る布地へ急ごうと立ち上がろうとするが、冷や汗ばかりが落ちてゆくだけで、腰が抜けてしまった。
そうして、怨霊たちの最終兵器が放たれた。
「っ……! っ……!」
立ち上がろうとするが、それもできなかった。言葉を発しようとするが、それも叶わない。後ろから何かが近づいてくるのがわかるのに、確かめることもできない。
首が動かない。足が動かない。手が動かない。声が出ない。何もかもができない――。
霊の力によって、体の自由を奪われる金縛りが起きていた。まぶたを閉じることもできない。
見ない聞かないという逃げ道も失くされた、思考――意識を持続させる、本当のデッドエンド。
唯一動く目を端までギリギリに寄せて、迫りくる重く暗いものを見た。青白い人が何人も浮かんでいる。
五人でいっぱいになるほど狭い部屋なのに、物理的な法則を無視して、百人以上がひしめく。
幽霊たちの目は深く落ち窪み、闇のように目玉がない。関節の動きがおかしい手を一斉に、元の背中へ伸ばしてきて、肩や背中に冷たい何かがピタピタと次々に触れた。
(ひゃ、ひゃあ〜っ!)
叫び声を上げたいのに声が出ない。助けも呼べない。
元は畏怖で体が凍りつき、とうとう気を失った。一番鶏が鳴くまでお勝手の床で寝転がったままだった。
強い心労で髪は一気に白くなり、ありえない速さで頬は痩せこけた。目の下には何重にもクマができて、精気とは無縁の有様に変わってしまった。