Time for thinking/4
いつの間にか瑠璃は、百年以上も住み続けている、屋敷の一番東側の寝室にいた――。ベッドから起き上がると、寝起きを待っていたかのように降臨した、戯言天使――ラジュがいた。
口説き文句に憤慨すると、悪霊払いの札を二百枚作れと言う。また嘘かと思っていたのだが、ラジュはどうやら本気だった。
手伝えと直談判しようとした時の、彼の言葉が鮮明に蘇った。
「おや? 天使の力では強力すぎて、こちらの世界の建物が壊れ、死人が大量に出ることはまぬがれませんが……。私個人的には構いませんが、そちらでも良いのでしたら、私もやりますよ〜?」
あの長く無慈悲な言葉を、天使なのによくも平然と言えるものだと思って、瑠璃はうんざりすると、現実へと意識が戻ってきた――。
玉露をすするズズーッという音がまた漂い始めると、魔除のローズマリーの香りが崇剛の長い髪と戯れる。
天使ひとりが祈りを捧げても、こちらの世界では霊力の余波で建物が崩壊します。
神でしたら、どのようになるか想像がつきません。
シュトライツ王国の民衆の暴動には……。
神五人が少なくとも関わっているとなると……。
遠い異国の話だが、先進国家で新聞の一面に出てくるような大ニュースが、民衆の暴動。その結末を、千里眼の持ち主である聖霊師は予測した。
「シュトライツ王国は崩壊する――という危険性が98.78%で出てくる」
針のように鋭く細い戰慄が、全身を駆け抜けたようだった。ロッキングチェアの揺れはさっきとは変わらず、ゆったりと揺れていた。
「ですが、なぜ、シュトライツ王国の崩壊が私たちと関係するのかがわかりません。これから、何が起きるのでしょう?」
経済の余波か。しかしそれならば、崇剛のまわりにいる人々をピンポイントで巻き込むような出来事では、またズレが出てくる。
だが関係しているのは確かだ。重要性はかなり色濃く、冷静な頭脳に土砂降りの雨のようにザーッと流す。本や新聞、人から聞いた話。たまに行く中心街で不意に耳に飛び込んできた会話や情報など。
シュトライツ王国――
千七年前から続く、フェティア王朝――王族制の国です。
アスタルカ大陸の西に位置し、花冠国とは一万五百四十七キロも離れています。
貿易が盛んで科学技術も発展しており、さらには宗教も盛んな国です。
多数の宗教が入り混じっていますが、国民の大多数はミズリー教徒です。
正式なお名前はわかりませんが、『ダルレ』という二十九歳の男性が教祖をしています。
ですが……
ロッキングチェアを動かす、茶色のロングブーツはふと立ち止まった。ローテーブルに置いてあったワイングラスを取り、少し柔らかい唇へつける。重厚でありながら柑橘系のさわやかで甘い香りが体の奥底へ向かって落ちてゆく。
昨年、前国王――ルドルフ フェティア 十四世が謎の死を遂げた。
パトレシアン グラクソティが次の王位に就いた。
王族の騎士団による、ルドルフ国王の死の真相究明は難航していた。
しかしながら、ダルレは四月十五日、金曜日に、騎士団によって、国王暗殺の罪で逮捕されています。
実際に見たわけではありませんから、憶測の域を出ませんが、魔除のローズマリーが前国王が亡くなった部屋に落ちていたという理由でです。
崇剛はグラスをテーブルへ置いて、肌身離さず持っている同じようなものを取り出した。嗅覚を神聖に刺激する香りに思わず目を閉じる。
このような小さなものです。
ですから、落としてしまう可能性は非常に高いです。
どなたのものでも、教祖のものとして扱われた。
もしくは、信者のものとして、長である教祖が責任を取る形となった。
いいえ、責任を取らざるを負えなくなった――。
そうなると……。
教祖を拘束するための、王族側の罠という可能性があります。
しかしながら、こちらの可能性も拭いきれません。
教団側の罠――
なぜなら、前国王が亡くなって半年もの間、魔除が落とし物として一度も届けられていない、という可能性は非常に低い。
それでは、なぜ、今頃になって、教祖を拘束したのでしょう?
そうなると、以下の可能性が出てきます。
教団側が王族側を動かそうとして、何かを先に仕掛けた――。
教祖の拘束は表面上の出来事であるかもしれません。
教祖はどのようにして捕まったのでしょう?
逃げようとしたのでしょうか?
それとも、逃げなかったのでしょうか?
後者だとしたら、教祖には勝算があるのかもしれません。
もしくは、何か別の目的があるのかも知れません。
国王にとって変わって、教祖が国を治める――
しかし、こちらでは事実がひとつずれてしまいます。
捕まる必要性がなぜ、あったのでしょう?
国民の大半が崇拝する宗教の長です。
教祖が命令を下せば、人々が動くという可能性は十分にあります。
それをしていないみたいです。
ダルレとはどのような人物なのでしょう?
異国の青年に想いを馳せる。
広い屋敷に住み、何不自由なく育ってきた崇剛。
宗教という特殊な集団の中でトップを務めてきたダルレ。
今自身が可能性を導き出したような思考回路だとしたら、崇剛にとってよきライバルであり、よき友になるだろう。
千里眼でシュトライツ王国の空を眺めようとしたが、今はもうできなかった。神によって見ることを禁じられたのか。それとも、邪神界によって阻まれたのか。
やはりこれも、情報が少なく、今のところ何も導き出せなかった。
グラスの中で官能的に息づくルビー色を、冷静な水色の瞳で愛ながら、別の散策へと崇剛は出かけた。
夜見二丁目の交差点の女の霊。
迎えに来始めたのは、三月二十五日、金曜日、十一時五十分八秒です。
そちらの日までは、来ていませんでした。
三月二十五日から、千恵さんの白血病の症状が現れている。
すなわち、そちらの日から、邪神界の動きが活性化したためです。
今日は、四月三十日です。
一ヶ月と六日が経過している……。
邪神界の動きに対して、神が何の対応もしない……というのはおかしいです。
従って、邪神界は故意に正神界に動かされているという可能性が出て来ます――
正神界と邪神界。真逆の世界。お互いを守り抜くために、戦略と戦術の応酬が密かに展開されているのだ、人の知らないところで。
それでは、正神界はいつから動いていたのか――
という新たな疑問点が出てきます。
そうですね……?
包帯ににじんだ血はもう止まっていた。崇剛は傷口がまた広がってしまわないように、細心の注意を払って、後れ毛を耳にかけた。
三月二十五日、金曜日以前という可能性が89.97%――
なぜなら、前日の三月二十四日、木曜日に情報がひとつあります。
私が見ている瑠璃を愛しているという夢……。
三十二年間、私は彼女と共に過ごして来ました。
今まで、私は彼女に対してそちらのような感情を持ったことがまったくありません。
ですが、三月二十四日、木曜日に見た夢から突然変わってしまった。
先ほどの夜見二丁目の交差点。
瑠璃がいなくなったあと、私が寂しいと感じることはありませんでした。
冷静な水色の瞳はついっと細められ、胸に落としていた銀のロザリオと握りしめ、そっと口づけをした。
おかしい――。
一日の日付のズレ……偶然とは思えません。
従って、非常に大きなことが起きたのは、正神界側からで……。
三月二十四日、木曜日、十一時三十六分二十七秒以前からになる。
という可能性が78.65%で出て来ます。
崇剛は残りのサングリアを飲み込み、テーブルへグラスを置くと、体の内側で奏でられ続けていた、ショパン 革命のエチュードは最後の音が力強く飛び跳ねるように鳴り止んだ。
さっきからずっと黙っていた瑠璃は戸惑い気味に口を挟んだ。
「そのことだがの……」
事件の話のあとにすると言っていた約束を、聖女は果たそうとした。
「えぇ」
神父に先を促され、聖女は両手を膝の上に行儀よく乗せ、彼女の視線は巫女服ドレスへ落とされた。
「すまのかったの。我もさっき知ったからの。お主の見ておる夢に、『厄落とし』の意味があったとはの」
聖女の懺悔はとどまるところをしらなかった。
「お主の短剣に勝手に触れてしまって、すまなかったの。お主に怪我をさせた責任は我にある。我もの――」
反省の泉に、ぶくぶくと泡を立てながら沈んでいるのに、まだ言葉を言っている瑠璃はまた失敗をやらかしていた。
「『やはり』厄落としだったのですね?」
崇剛におどけた感じで聞き返され、聖女はハッとした。神父は唇に手の甲を当ててくすくす笑っている。また悪戯されたと思って、瑠璃は思わずソファーから立ち上がった。
「お、お主、我を策にはめおって! 確認するために、わざと思い浮かべてからに!」
肩を小刻みに揺らしていたが、崇剛は何とか笑いの渦から戻ってきた。
「私は何もしていませんよ。瑠璃さんから話してきたのではありませんか」
瑠璃はぽかんとした顔をして、彼女なりに記憶をたどってみた。そうして、ことの発端は自分が必要以上に話してしまったことが原因だと気づいた。
聖女の巫女服ドレスは、ソファーへストンと再び落ちた。神に意図的に言わされた崇剛の言葉を思い出して、瑠璃は頬を赤らめた。
屋敷へ幽閉されたまま八歳で生涯を終えた少女は、色恋沙汰などに縁はなく、言葉がもつれにもつれた。
「……わ、我もの……お、お主とともに生きて来たがの。そ、その……あ……愛……愛し……! な、何じゃっ!!」
恥ずかしさのあまり最後まで言えず、瑠璃は崇剛に向かって喚き慄いた。八歳の少女の小さな指先が、三十二歳の男に勢いよく向けられる。
「お主、よくも恥ずかしもなく申すの、そのようなことを! 止めぬか! 何故、最後まで我の言葉を待つのじゃ!」
憤慨している少女を見るのが、崇剛の趣味。彼はくすくす笑いながら、至福の時を迎えた。
「可愛い人ですね、瑠璃さんは。言ったことがないのですね、愛していると……」
神父も初めての言葉だったが、恥ずかしいという感情は冷静な頭脳で簡単に押さえ込まれていたのだった。
大人の余裕で、守護する人間に言われたものだから、瑠璃はまた恥ずかしくなり、思わず大声を上げた。
「おちょくるでない! いきなりそう申したからの、我もちと驚いて動揺しての……。あの晩、きつく当たってしまったかもしれぬ」
ロッキングチェアを優雅に動かし、落ちてきてしまった後れ毛を、神経質な指でまた耳へかけた。
「瑠璃さんにも厄落としだったのかもしれませんね。ラジュ天使から何も聞かされていなかったみたいですからね。私の夢については……」
「おそらくそうであろう。守護霊も天使も神までも、修業の身じゃからの」
赤面で乾いてしまったのどを潤そうと、瑠璃は玉露をズズーッとすすり、調子をなんとか取り戻した。
「そうですか」
崇剛は桃色の湯呑みをじっと見つめた。生活能力ゼロの屋敷の主人が、お詫びのためにわざわざ入れた玉露。
「あなたには不快な想いさせてしまいましたね。厄落としだったとは言え、口にしてしまい、聞かせてしまったのですから……」
崇剛は仕事上、人に好意を持たれやすく、結婚について不躾に聞かれる。個人的に誘われるという、衰退しないモテ期の中で生きている。
だがしかし、当の本人はいい気持ちばかりではないのだ。必ずしも自身の好みの人から想われるわけではないというか、ほぼ好みのタイプではないのだから。
身にしみて、聖女に与えた不快感を、神父はよくわかっていた。
「過ぎたことじゃ。気に病むことではない」
冷静な頭脳だけだったら、この男はあまり傷つきもせず生きてきたのだろう。激情という感情があるからこそ、色々と思い悩みながら、思いやりを持って生きている。それをよく知っているのは、瑠璃自身だった。
「私が天に召されるまで、守護をよろしくお願いします」
「それは我も同じじゃ。お主が死ぬまでは一緒じゃ」
変な緊張感がなくなり、以前よりも距離が縮まった崇剛と瑠璃だったが、策略家の氷の刃という瞳は、隙なく少女の玉露を飲む姿をうかがっていた。
茶色のロングブーツはいつも通りに、優雅に組み直されて、遊線が螺旋を描く芯のある声が何気なく尋ねた。
「瑠璃さん、夜見二丁目の交差点で、赤い目の山吹色をした髪の男を見ませんでしたか?」
「ぶーっ!」
聖女は玉露を思いっきり吹き出した。
崇剛は思う。彼女は正直だと。
瑠璃は口元をハンカチで拭きながら、
「お主、見えておったのか?」
「『やはり』、いらっしゃったのですね?」
「じゃから、わざと聞いてくるでない!」
さっきから同じ罠にはまってばかりの聖女が憤慨しているのを見て、崇剛はくすくす笑った。
そこで瑠璃ははたと気づいた。わざと聞いてくるとなると、崇剛は見えていなかったのだと。
「何故、あやつがいたと知ったのじゃ?」
「ただの勘ですよ」
崇剛は瑠璃の質問から逃げようとしたが、それは実は策であって、聖女はまた憤慨した。
「戯言を申すでない! お主が勘を使ってるところなど、我は一度も見たことがあらぬ」
策略家は手の甲を唇に当てて、
「…………」
とうとう何も言えなくなり、肩を小刻みに揺らして、彼なりの大爆笑を始めた。こうなると、しばらく笑いの渦から戻ってこれないのは、瑠璃にはよくわかっていた。
玉露をすすり、聖女はしばらく待ってやった。
「何故、やつだとわかったのじゃ?」
「瑠璃さんの様子がおかしかった。邪神界の者ならば、瑠璃さんは何らかの言動を起こす可能性が非常に高いです。しかしながら、何もしませんでした。従って、正神界の者がいたということになります」
漆黒の長い髪は小さな手で背中にはらわれ、瑠璃は胡散臭そうな顔をした。
「あやつはラジュのところにたまに参るやつじゃ」
「どのような用件でいらっしゃるのですか?」
崇剛は瑠璃に身を乗り出した。
「神殿に呼び出しがあった時じゃ」
「そうですか」と言って、神父はロッキングチェアを揺らし、少しの思案をして問いかけた。
「神殿から戻ってきたあと、ラジュ天使の様子がおかしかったことはありませんか?」
瑠璃はうんざりした顔をする。
「ラジュはいつでもおかしいがの。ないの」
「お名前は知っていますか?」
「知らぬ。ただ、神が呼んでおるとラジュに申して、すぐに消えるのじゃ」
「そうですか」
冷静な水色の瞳に、神世を思わせる青の抽象画を眺めながら、あごに手を当てた。
神の遣いでしょうか?
それとも……
崇剛は聖女を視界の端で捉えたが、情報収集は困難を極めると思った。これが、ラジュならば、正確に入手できるが。
「瑠璃さん、その方が何とおっしゃって、ラジュ天使を呼び出しているか、一字一句間違えずに言えますか?」
「大体いつも同じじゃが、正確にとなると、それは我には無理じゃの」
聖女からは予測どおりの返事が返ってきた。しかしそこに、重要な意味があると、崇剛はにらんだ。あの男の正体は一体何者なのだ。
疑問を残したまま、崇剛は包帯をしている手で、ズボンのポケットの丸い膨らみをさりげなく触り、迫ってきた数字を読み取った。
二十三時四分十九秒――。
おや、もうこんな時間ですか?
崇剛はロッキングチェアを傾けるのをやめて、
「瞬はどうしているでしょうね?」
今まで話とはまったく関係のない人の名を口にした。瑠璃は持っていた湯呑みをテーブルへ置く。
「熱を出しておると聞いたからの、我がそばにおらぬと、瞬も寂しがるかもしれんの」
言い訳っぽく聞こえる言葉を、ボソボソとつぶやいて、聖女はふと立ち上がった。
「どれちと参るかの」
瑠璃の表情は八歳の少女が見せる、ご満悦そのもので、そのまますうっと姿を消した。
「――瑠璃さんはわかりやすい人ですね」
嘘がつけない聖女の性格に、親が子供を愛おしく思うような気持ちになって、崇剛は手の甲を唇に当て、くすくすまた笑い出した。
「なぜ、私が突然、話題を変えたのか疑問に思わないみたいです」
神父から聖女への密やかなプレゼントだった。
シルクのブラウスの上で、神の御言葉を受け取る役目を終えた銀のロザリオは、慣れた感じで滑らかな生地と肌の間へとそっと落とされた。
組んでいた茶色のロングブーツをとくと、春雷の嵐は嘘のように通り過ぎ、カーテンの隙間から平穏な月光が差し込んでいた。