Time for thinking/1
屋敷の主人によって人払いされた、優雅で貴族的な部屋。
銀灰色の力強い斜線を、天と地の間へガリガリと刻み込むような激しい雨。咆哮という名の旋律をフォルティッシモで奏でながら、窓に鼓動を叩き込んでいる。
無秩序な雷鳴が青白いストロボのような閃光を焚きながら、家具や床、壁の絵画へ白縹色のエフェクトをもたらした。
雷雲は空にまとわりつき、まったく引く気配がない。
崇剛の至福の時を祝福するサングリアは今、アンティークな楕円形をしたテーブルの端のほうで休息を言い渡されていた。
その代わりに、茶色の急須と少女の可愛らしさのシンボル的な桃色の湯呑みが、中央へと連れ出されていた。
洋式の部屋と家具類。その主の優雅な貴族服たち。西洋の城の中に突如現れたのは、和茶器という珍客だった。同じ屋根の下で暮らす、これ以上ないミスマッチ。
崇剛は真剣そのものの顔で、冷静な水色の瞳には急須と湯呑みという苦悩が刻まれていた。
深碧のソファーへ沈んだ瑠璃色の貴族服。細身の白いスボンのポケットで、丸い顔を浮かび上がらせている懐中時計。不自由をしている包帯を巻いた手で触れて、迫ってきた数字をすくい取る。
(10628……二十二時六分二十八秒)
インデックスをつけるためなら、神経質な手をポケットからすぐに離すが、そのまま触れたままにした。
涼介と話を始める前――
二十一時五分十六秒から……一時間一分十二秒が経過。
彼らはどうしているのでしょう?
何かの時が満ちるのを待つように、茶色のロングブーツは優雅に組まれていた。雨音に紛れるように、崇剛の呼吸と脈が静かに波打つ。
一ヶ月以上前に彗星の如く、心の中に咲いた恋情という名のミステリアスな憂鬱と、守護列を無視した守りたいという激情の獣。
それらを、冷静な頭脳という盾で見事に押さえ込み、三十二歳の神父は張り詰めた空気の中で、ひとり対峙する。
「私が瑠璃を愛している……」
物心ついた時から一緒に生きてきて、あっという間に自分だけ成長してしまった。守護霊に思慕を抱き、自分自身を形作っている冷静な思考回路が、容易に崩れるという事件に巻き込まれた。
そうして、右手が犠牲者となったが、春雷の豪雨に襲い掛かられているリムジンの中で気づいた小さな違和感。それを考える。
「寂しさを感じなかった……」
神よって導かれし運命という名の航海。未来という地平線へ向かって、人は右も左もわからず、時には突然沈没し、時には順風万歩で大海原を進んでゆく人生という名の船。
未踏の森林に連れ去られるように、愛念の嵐に飲み込まれ、自分の居場所も視界もわからなくなった。
それが過ぎ去ったあとの澄み切った青空の下で、千里眼の持ち主であり、聖霊師の男はハリケーンの正体を事実と可能性から冷静に導き出した。
ピンボケしていたレンズがピタリと合うように、その旋風の名を白日の下へ晒すと、それは神威というフィクションだったのだ。
「瑠璃を愛するという気持ちは、『厄落とし』であったという可能性が13.56%出てきました」
若草色の瞳を持ち、漆黒の長い髪をサラサラと揺らす聖女の、胸の内を察すると、崇剛は軽く目を閉じた。
「私は彼女に、不快な想いをさせてしまったのかもしれません」
組んでいた足を解いて、神父が聖女に密かに懺悔をしようすると、手のひらから伝わる懐中時計の時刻が変化した。
「二十二時九分二十八秒。三分経ちました」
何かの秒数まできっちり測っていた。瑠璃色の貴族服は身を預けていたソファーから、楕円形のローテーブルへ上半身を乗り出す。
ロイヤルブルーサファイアのカフスボタンが急須へなぜか、恐る恐る近づいてゆく。初体験という言葉がよく似合う手つきで、その柄を怪我をしていない左手で握った。
崇剛の整った顔立ちは珍しく真剣そのもの。急須の蓋が落ちないようにつまみに右の指先を添えたが、
「っ!」灼熱という痛覚に襲われ、防御反応である皮膚反射が起きて、右手を素早く引っ込めた。
和テイストの急須を神経質な左手で未だに握りながら、火傷からまぬがれた右手をあごに当てる。
「……なぜ、こんなに熱いのでしょう? 涼介は普通に持っていましたよ。おかしいみたいです……」
何とも情報源の少ない動作をしているため、策略家は可能性を導き出せないでいた。
聖女をもてなしたくて、もう一度指先をつまみにそっと添えた。急須を傾け、玉露を湯呑みに注ぎ、それをテーブルへ一安心というように置いた。
少し濁った緑色の水面を、冷静な水色の瞳に映していると、巫女服ドレスが現れた。物理的な法則を無視して、神世を思わせる絵画の奥から。
ツルペタな胸の前で小さな腕では組まれ、聖女はブツブツと、
「さっき、カミエが申しておったがの……まさか、あれがそのためで、そのようなことがこれから起きるとはの……崇剛には何と詫びればよいかの?」
「――瑠璃さん、どちらの話ですか?」
遊線が螺旋を描く優雅で芯のある声が急にかぶさり、聖女は組んでいた両腕を慌てて解いた。
「崇剛っ!?」漆黒の長い髪を左右にサラサラと揺らしながら、部屋の調度品を見渡す。「な、何故、お主が我の部屋に……」ドレッサーや生前与えられた人形や服。「幼い頃はよく参っておったがの、最近は参らなく……」それらの代わりに羽ペンを刺してある書斎机や深碧色のソファーを見つけて、ここが神父の自室だと今頃気づいた。
「し、知らぬ間に、崇剛の部屋についておったわ!」
思わず息を飲み、油差しの効いていない人形みたいに、瑠璃は崇剛へギギーッと首をやった。
「な、何のことじゃ?」
出遅れに遅れたとぼけ。
天使から策略連鎖という異名までつけられている守護列の一番下。立派な知謀家である崇剛は、一字一句見逃していなかった。
「カミエ天使から、どのようなことを言われたのですか?」
と聞き返しながら、
厄落としであったという可能性は、13.56%から上がり、37.89%――
神威というフィクションの数字を、冷静な頭脳の中で速やかに変化させた。瑠璃は小さな手を口元へ当てて、咳払いをする。
「んんっ! そこは追求してくるでない」
黒紐の白いブーツは床から赤銅色の絨毯へ進み、崇剛がさっき座っていたソファーへたどり着き、彼とは目線を合わせず思いっきりごまかした。
「……と、とにかく、その話は最後じゃ。事件解決が先であろう」
審神者をする聖女がソファーへ腰を下ろしたのを見届けて、崇剛はテーブルの端でさっきから放置されていたワイングラスに触れないように気をつけながら、ロッキングチェアへ優雅に座った。
「そうですか」
と相づちを打ちながら、最後に理由はしっかり聞くことを決心する。
まるでビスクドールみたいな透き通った幼い顔と、豪華なドレスがソファーの上に飾られているようだった。
優雅な貴公子は一日の終わりに酔いしれるように、茶色のロングブーツの細い足をエレガントに組む。
三十二歳の神父と聖女――。
人払いされた部屋、誰も来ない。外は嵐のような夜。室内の物音など廊下に届きもしない閉鎖された空間。親子ほど歳が離れているふたり。
ロリータコンプレックスを匂わすような光景だった。
白と朱を基調にした巫女服ドレスが身を乗り出し、漆黒の髪が前へサラサラと落ちると、小さな手が玉露で満たされた湯飲みを、慣れた感じでつかんだ。
左手をそこへ添えズズーッと飲んだが、瑠璃はすぐに顔をしかめる。
「今日のは、苦味と渋みが濃いの。涼介のやつ、熱があるからの。違えおったか?」
違和感を覚えながら、霊界での桃色の湯呑みがテーブルへ置かれると、
「三分待ちましたよ」
味に損傷が出る可能性は低いと導き出していた、時間に厳しい崇剛が答えた。聖女は自分の耳を疑った。目を大きく見開き、驚いた顔を神父にやる。
「お主が淹れおったのか!? お主まで戯言ではあるまいな?」
「えぇ、嘘は言っていませんよ。涼介が淹れているのを真似して、私が淹れました」
旧聖堂でラハイアット夫妻に拾われてから、使用人と召使に囲まれての生活しか送ったことのない崇剛。
紺の長い髪と背中合わせになるように、瑠璃は反対側へ顔を向けて、苦渋の表情になった。
「ダガーより重たいものを持ったことのないお主がの……。明日は雪かもしれんの。お勝手口に立ったとは、想像がつかぬ……」
明日で五月を迎えるという春雷なのに、聖女は思いっきりぼやいた。
しかし、しかしだ。若草色の瞳の端で茶器を捉え、自分の背後でロッキングチェアに座っている人の心を気遣った。
「お主の努力は認めぬとの」
緑茶の何たるかとを、守護霊として守護する人へ説いてやろうとするが、
「何と申したかの? ハ……ハ……? 横文字には弱くての。お主が飲むやつじゃ」
サングリアのグラスを少し柔らかい唇につけようとした、崇剛のロイヤルブルーサファイアのカフスボタンは急に止まった。
「ハーブティーですか?」
彼は思った。瑠璃の様子がおかしいみたいだと。
青白い光が部屋へ一気に押し寄せるとともに雷鳴が轟き、聖女の扇子のような袖は激しく揺れ、小さな指先が神父へ突きつけられた!
「それじゃ! それと一緒ではあらぬ、蒸らしは一分じゃ。洋と和を混合するでない」
聖女の緑茶に対するこだわりを無残にも破壊してしまった。崇剛はワイングラスを口から離しながら、
「新しいものを持ってきていただきましょうか?」
家事などとしたことがない自身にはハードルが高かったのか。もてなしのつもりが、仇となってしまった。
神経質な手が持っていたルビー色のグラスが、テーブルへ置かれようとした時、聖女から待ったの声がかかった。
「構わぬ。お主の想いと行いが無駄になるであろう」
三十二年という月日は、お互いを思いやるというある種の愛情へ取って代わっていた。
「そうですか。瑠璃さんは優しいのですね」
聖女から赦しを受けた神父は少しだけ微笑み、聖霊師とその守護霊のいつも通りのやり取りが、瑠璃の口から解き放たれた。
「違えた時だけ、我は物申す。全て我が見ては、お主の心の成長にならぬからの」
「えぇ、お願いします」
聖女の霊視という大地へ、聖霊師は優雅に身を任せた。
神父はシルクがふんだんに使われた襟元へ手を伸ばす。シルバーのチェーンを中から手繰り寄せると、銀のロザリオが眠りの森から目覚めた。
組んでいた足を一旦とき、姿勢を正す。ロザリオを両手で握りしめて、額の前まで持ってきて、冷静な水色の瞳はすっと閉じられた。
主よ、どうか、事件を解決できる術を私にお与えください――
神に選ばれしメシア保有者は、人としての立場を十分わきまえていた。答えを見つけるのはあくまでも自身の努力。道標である方法へ導いてくださるのが神の力だと。
まぶたが再び開けられると、いつもと違って、ロザリオはブラウスのボタンの上へ下された。神聖という光をガス灯の元で宿す。
優雅な神父の体の内で、端麗と霊妙を持ち合わせるピアノの音色がしなやかに奏でられ始めた。
ラフマニノフ 楽興の時 第四番 ホ短調 プレスト。
高音から低音へと落ちてゆくを何度も繰り返す旋律と、窓を叩きつける雨音が、シンパシーを生み出す協奏曲。
前の小節へ半拍でずれ込む、高く力強い音と不規則な雷鳴が微分音を予感させる混沌。
玉露という癒しを得た聖女は白いブーツを組み、肘をソファーでもたれかからせると、扇子のような袖が広がった。
(お主の思い浮かべる楽の音は、誠雅よの)
瑠璃色の貴族服をまとった聖霊師は、春の嵐とピアノの音色がなびく、草原へと身を委ねる。
今回の事件に関係するであろう様々な情報と事実、可能性が多方向から流れる川のような美線で、冷静な頭脳に走らせ始めた。
サングリアの柑橘系の香りが、聖霊師の臭覚と味覚の両方へ酔いという甘美な刺激をもたらす。
まずは、恩田 元が見ている過去世の夢です――
こちらの筋が通る順番は以下の通りです。
一.うめき声と悲鳴が、男性と女性の声の両方で、複数聞こえてくる。
二.悲鳴と断末魔が、男性と女性の声の両方で、複数聞こえてくる。
三.血の匂いがした。
四.血で視界が真っ赤になる。
五.『いい……だ」と言った。
こちらまでが過去世の記憶であるという可能性が76.56%――
サングリアを一口飲んだ。水色の瞳の端では、聖女が桃色の湯呑みへ小さな手を伸ばし、少し不味な玉露を口にしている姿があったが、
「…………」
瑠璃は何も言葉を発しなかった。
イコール、事実として確定、100%――
この作業がこの先、何度となく繰り返される。