主人と執事の愛の形
屋敷の玄関口へどんなに近く、リムジンをつけてもらっても、びしょ濡れになるほどの春の嵐だった。
未だ雷雲は上空をぐるぐるとはい回り続けていて、紺の長い髪から滴り落ちる水滴を、崇剛は細い指で絞り取りつつ。茶色のロングブーツで上階にある自室へ向かおうとした。
階段の板が軋むが、ふに鳴った雷鼓でザザーンとかき消されてしまう。瑠璃色の貴族服が雨を吸い込み、藍色へと沈んでいた。
上りきった二階の廊下を、風邪を引かないようすぐ着替えるため、足早に歩き出そうとすると、左手の部屋から執事が暗い顔をして出てきた。
ガス灯の儚げなオレンジ色の下にいる、主人にも気づいていないようで、ぼんやり立ち止まっていた。
(おかしいみたいです)
崇剛は包帯の巻いた手で、いつもの癖が出て、ズボンのポケットの丸みに触れた。
二十一時五分十六秒。
こちらの時間帯は、瞬を寝かしつけているという可能性が99.99%――
ですが、涼介は部屋から出てきています。
何かあったのかもしれませんね。
前もろくに見ずに、執事は廊下を歩き出して、主人へぶつかるような勢いで迫ってくる。衝突を避けるために、遊線が螺旋を描く優雅な声がかけられた。
「どうかしたのですか?」
今頃、崇剛がいることに気づいたみたいで、「あ、あぁ……」涼介はハッとした。主人の背後で猛威を奮っている春雷をぼうっと眺める。
「瞬の熱が高くて……」
息子が熱にうなされている。そんなことは今までもあったが、いつも素直で明るい執事はどうも様子がおかしかった。焦点の合わない瞳で、フラフラしていた。
「涼介もどうかしたのですか?」
執事は手のひらで額を覆って、だるそうな顔で、
「俺も熱がある……」
「そうですか」
間を置くための言葉を言いながら、崇剛はふたりそろって熱があることに疑念を抱いた。
世見交差点とは違い、結界の張られた屋敷内。瑠璃の力がなくても、崇剛は簡単に霊視ができる。開きっぱなしのチャンネルから、涼介の背後へ意識を傾けた。
背中が黒く見える。邪気……。
昼間の大鎌の悪霊にあてられた……という可能性が99.89%――
三沢岳の山頂で、穏やかな日差しを受けながら聞いた、カミエの地鳴りのような低い声が鮮明に蘇った。
「お前の選ぶ選択肢で未来は変わる――」
崇剛は後悔した。
(他の方法があったのかもしれない……)
導き出し方を間違えたのではないか。過去にとらわれがちな策略家の水色の瞳は一旦閉じられた。
「仕事は終わったのか?」
執事であり、父親の涼介は自身のことは後回しにして、問いかけた。崇剛は閉じていたまぶたを反射的にさっと開ける。
「えぇ、霊視は終わりましたよ。あとは、可能性を導き出すだけです」
また仕事が残っているという主人にはどうも付き合えそうのない涼介は、疲れた顔で少しだけ微笑んだ。
「じゃあ、お休み」
氷を取りに行くため、階下の食堂を目指して、黒のアーミーブーツが階段の上から下へ移動し、茶色のロングブーツと交差して、崇剛の横を通り抜けようとした。
(そうですね、こうしましょう)
失敗しない可能性を導き出す。冷静な頭脳を駆使して、神父は全ての人の幸せを願った。
「待ってください」
「どうしたんだ?」
呼び止められた執事は、主人より一段下の階段でふと立ち止まった。執事は不思議そうな顔をする。
七センチも背丈の違うふたりだったが、段差のせいで、涼介のベビーブルーの瞳は、主人の何の感情も交えない冷たい視線より下になっていた。そうして、無情な言葉が告げられた。
「涼介、あなたと瞬の熱が下がったら、屋敷から出て行ってください」
突然の解雇命令――
たった二年の付き合いだったが、どんな気持ちから、主人がそんなことを言ってきたのか、執事は直感した。
階段の柱を手で折れてしまうほど強く握りしめ、唇を強く噛みしめた。悔しさで、涼介の瞳は涙でにじんだ。
俺は自分でもわかってる、優しすぎるところがあるって。
お前の罠にもわざとはまってる時がある。
お前が喜ぶなら、それでいいと思ってた――
屋敷に来た翌日、崇剛によって、涼介は敬語を使うことを禁止された。それは、主人に仕えるという経験がない、涼介の心の負担を少しでも減らそうという優しさだった。
だから、いつもタメ口の主人と執事だった。いろいろあったが、ここまで共にやって来た。今どんな辛い気持ちで、主人がここに立っているのかと思うと、執事が階段の柱をつかむ手はプルプルと震え始めた。
だから、お前に言われたことは、全部守って来た。
だけど、今回だけは――!!
涼介は衝動的に動き、崇剛の肩をいきなりつかんで、反対側にある階段の細い柱が立ち並ぶ、そこへ力一杯押し付けた。
ガタン!
という派手な音が、雷鳴に混じり込み、
「くっ!」
加減のできなかった力のせいで、涼介は思わず吐息をもらす。いきなり背中を押しつけられた崇剛は痛みが走り、苦痛の声を上げた。
衝撃で、紺の髪を束ねていたターコイズブルーのリボンはとけ、階段へするすると落ち、主人は一気に女性的な雰囲気へ変わってしまった。
涼介のベビーブルーの瞳は怒りと悲しみがこもっていた。執事は主人が立っている同じ段へ上がり、いつも通り涼介の視線が崇剛より高くなった。
執事が主人を拘束して、男が女をちょうど壁ドンしているような格好になった。
ふたりのサイドにある吹き抜けの縦長の窓ガラスには、破壊するように降り注ぐ豪雨。
青白い光が光ると、雷鳴が轟き、落雷の衝撃で地面がぐらぐらと揺れ、ガス灯の光が明暗を繰り返した。
涼介は今まで一度も出会ったことのない感情が胸に渦巻いていた。それは激怒――。嵐の轟音にも負けないほどの、怒鳴り声を彼は上げた。
「お前、そうやって、全員ここから追い出す気だろうっ!! 自分で何でも抱え込んで!」
お互いの息がかかるほど顔が近づいたまま、涼介は崇剛の瞳を噛みつきそうな勢いで見つめた。
崇剛は動揺もせず、ただ真っ直ぐ見つめ返した。
可能性で全てを推し量っている主人。今まで見たこともない執事の言動は前から、予測はついていたのだ。
涼介が激怒しないとは言い切れない。その可能性はゼロではなかった。いきなり数字が跳ね上がり、事実――100%になってしまっただけ。
豪雨でびしょ濡れになり、瑠璃色の貴族服と髪からは、階段へ水がポタポタと滴り落ちている以外、まったく動かなかった。
それでも、主人は視線をそらすこそなく、平然と嘘をついた。
「追い出すとは限りませんよ」
崇剛の心が強く震える。
私が情報を欲しがったばかりに、昼間はあなたたちを利用したのかもしれない。
私は間違った可能性をまた導き出した……のかもしれない。
二年前に、あなたと瞬をこちらへ呼んだのは、間違いだったのかもしれない。
ですから、私のそばにいては……あなたたちがまた傷ついてしまう――
曖昧な返事を返して来た主人。彼の心は慈愛でできていて、ガラスのように脆く透明で、涼介には今はよくわかった。
だからこそ、伝えたいのだ――。涼介の怒りは治るどころか、崇剛の肩をさらに強くつかんだ。
「金とかは関係ない。そんなのはどうでもいい。お前ひとりここに残って、この広い屋敷で、どうやって生活する気だ? 生活が荒んだら悪霊が集まってくるんだろう? それじゃなくても、メシアを持ってるだけで、お前は狙われてるんだろう。どうして、自分のことを自分で追い詰めるようなことをするんだ!」
「そのようなことをして――」
執事とは対照的に、主人は冷静に割って入ろうとしたが、涼介に途中でさえぎられてしまった。
「いいから聞けっ!」
雷光と雷鳴が同時に、
バリバリズドーン!
と、ふたりの脇にある長細い窓ガラスの外にある夜空で飛び散った。
怒りからくる涙で瞳をにじませながら、感情を必死に抑えむから声は震えてえしまう、涼介は崇剛に食ってかかった。
「俺は出ていかない! 確かに、最初はお前に言われたから、俺たちはここに来た。だけど今は、俺は自分の意思で、ここにいたいと思うからいる。瞬だって、どうしてだかわからないけど、ここから離れたくないって言ってる。三沢岳にだって、俺たちが決めてついて行ったんだ。責任は俺たちにあるんだろう」
執事は激怒していても、執事なのだなと、崇剛は思い、心の中で少しだけ微笑んだ。
(涼介は瞬の気持ちに気づいていないみたいです。私には、瑠璃と瞬を引き離すことは赦されていませんでしたね)
息子の恋心に気づいていない父は、まだ真剣に話を続けていた。
「自分の言動が間違ったって思ってるんだろう? お前また頭で全部考えて……」
「そうかもしれませんね」
崇剛の聖なるダガーの柄が布一枚を通して、階段の柱にコトンと少し濁った音で当たった。
男ふたり。嵐の夜の中。執事が主人を壁ドンしているような状態。さっきからまったく視線をはずさない崇剛と涼介。
だったが、せっかくのシリアスシーンが、執事の感覚的な記憶力で大崩壊した。
「お前が前に言ってただろう。ろ、ろん……? 三文字だった気がする……」
全てを記憶する、冷静な頭脳の持ち主はくすりと笑って、可能性から導き出した、執事の言いたいことを。
「論語ですか?」
「それだ!」涼介の瞳は一瞬いつもの、はつらつとしたものに戻ろうとしたが、また至極真剣な顔つきになって、「それの、あ、あや……? 現代語じゃなかった気がする……」再びまた話の流れを止めてしまった。
執事に肩をガッチリつかまれたままの主人は、心の中で密かにくすくす笑う。
(今、『間違えた』という話をしています。従って、涼介が言いたい言葉は以下の通りです)
自室にある本のページ数、行数、文字数までが、記憶の浅い部分に引き上げられた。優雅な声が流暢に、雨音の絶えない廊下に響き渡った。
「過ちて改めざる、是を過ちと謂う、ですか?」
「それだ!」
主人の助けで、何とかシリアスシーンを持ち直した執事は、論語の言葉を訳述し始めた。
「間違うのは恥ずかしいことじゃないんだろう? 間違えって気づいたのに、直さないことが本当に恥ずかしいことなんだろう? だったら、今から直せばいいだろう」
執事に両手に拘束され、言われっぱなしの主人。その冷静な頭脳は今も正常に稼動中で、目の間にいる涼介と、部屋の中で高熱で苦しんでいるであろう瞬の、守護霊に千里眼のチャンネルを合わせた。
すると、彼らは特に驚いているわけでもなく、慌てているわけでもなく、崇剛に向かってにっこりと微笑み、口をそろえた。
「これで全てよかったんです」
そうして今、神によって、忘れていたことを、神父は教えられたのである。
今回の件――
大鎌の悪霊と、ラジュ天使と光命が関係しています。
彼らは私と同じで、事実から可能性を導き出します。
ですから、ひとつの言動の理由が、ひとつだけとは限りません。
従って、別の意味もあったという可能性が99.99%――
慣れない言葉を引用してまで、主人を論破しようと必死だった執事に、崇剛は静かにうなずいた。
「そうですね」
視野を広げることができた神父に、まるで天から一筋の光がさして来たように、別の可能性を導き出させた。
涼介と瞬を一緒に連れて行ったのは、ふたりの厄落としも兼ねていたみたいです。
今回の高熱は、いいことへと進む前触れなのかもしれませんね。
バリバリという空を破るような雷鳴が響き、ズドーンと庭の樫の木へ落雷したと同時に、
「この、傲慢神父!」
涼介の暴言が炸裂した。肩で大きく息をしながら、
「お前が全員の責任を取るって、そういうことだろう。俺たちを守るのは、俺たちの守護霊とかだろう?」
崇剛は少し寂しげな顔で視線をそらした。国立とまるっきり同じことを、執事に言われるとは。
(人とは弱いものです。同じ過ちを何度も起こしてしまう)
デジタルに速やかに軌道修正をして、崇剛は頭を下げた。
「ありがとうございます」
千里眼という人とは違う力を持つことで、境界線を人から引かれ続けた日々。この広い屋敷にこもりがちになったのは、そんなことがあったからだ。
ラハイアット夫妻が五年前に相次いで亡くなってから、こちらの世界では私は一人きりだと思っていました。
私は誰にも心を開いてきませんでした。
ですが、違っていたみたいです。
私を人として、あなたが愛してくださっていることに感謝しますよ――
新しい光が主人に差し込んでいたが、執事は警戒心丸出しで、思わずつかんでいた崇剛の肩から慌てて手を離した。
「お前、素直過ぎる。怪しい……。ど、どんな罠仕掛ける気だ?」
「仕掛けて欲しいのですか?」
崇剛はしれっとうかがいを立てながら、彼の心の中は前向きな解釈であふれていた。
(あなたの真実の心を知ったのですから、さらに巧妙な罠を仕掛けさせていただきます)
昼間の悪霊襲撃事件は多大な影響をもたらしていた。執事が主人への主従愛を訴えるきっかけとなり、この屋敷の未来は明るくなった。この厄落としもあったのだと、当の本人たちは気づいていなかった。
守護をする人々のお陰で、今までよりも近づいた、崇剛と涼介の心の距離。人の彼らは、神による計算し尽くされた慈愛という運命の大海原で生かされていた。
執事の緊張感は消え去り、あきれたため息をつく。
「お前、罠を仕掛けるの、本当に好きだよな」
「快楽という罠に、私自身がはまっているのかもしれませんね」
やめる気のない主人を残して、涼介は階段を一段降りようとした。
「とにかく、こっちは俺で何とかする、だから……」
執事は親しげに微笑んで、おどけた感じで言う。崇剛は何も間違っていないのだと、密かに伝えるように。
「ご主人様はどうぞ、お仕事をしてください――」
主人はくすりと笑い、執事の言葉の裏をきちんと受け取ったというニュアンスで、立場を無視したことを言った。
「何か手伝えることがあったら呼んでください」
「わかった」
涼介が階下に降りてゆくのを、崇剛は少し見送って、二階の廊下を歩き出した。
「瑠璃は知っていたのかもしれませんね、こちらのようになることを。瞬が高熱を出しているのに、彼のそばに彼女はいませんからね」
主人の気配が完全に、玄関ホールから消え去ると、涼介は主人の長い髪から滴った水を視線で追いかけた。
「お前には無理だ。お前、実生活能力ゼロだろう。電話のかけ方も知らないじゃないか」
小さな声で文句を言って、涼介は少しだけ微笑み、氷を取りに食堂へと向かった。