Escape from evil/4
天使の左手にあった大鎌は綺麗に浄化され、無効化されるように消えた。右手に持っていた日本刀を、艶やかな動きで鞘へしまう。
崇剛の冷静な水色の瞳と、カミエの無感情、無動のカーキ色の瞳がぶつかり合ったかと思うと、地鳴りのような低い声が向かってきた。
「久しぶりだ」
「お久しぶりです」
それぞれの役割がある天使界。人間が呼び出すことは勝手にはできない。懐かしい聖なる人の前で、崇剛は優雅に微笑んだ。
「降臨していただき、助けていただいたことを感謝いたします」
カミエは浮遊するのではなく、修業のために縮地を使って、瞬と瑠璃の間にある、お誕生日席の位置へやって来た。
「礼はいらん。ラジュに頼まれただけだ」
「やはり、そうなのですね?」
策略家は至福の時というように、これ以上ないくらい微笑む。
発信源が誰とは確定していなかった――。しかし今、答えは告げられた。この場にやってくる可能性が一番高かった天使によって。
確かめるために、わざとお礼を平然と言ってきたのだと知って、天使のカーキ色の瞳は一旦閉じられ、珍しくため息をついた。
「お前また……。なぜ、俺を罠にはめる?」
「はめてなどいませんよ。あなたが自らおっしゃったのではないですか?」
「あの時もお前はそうだった」
「あなたもではありませんか」
人が天使を罠に陥れるという、これ以上ない下克上――。
毎度毎度のやり取りを間で聞きながら、プリンを食べていた瑠璃は、若草色の瞳を天使へちらっとやった。
「お主、ラジュの策に乗せられおったのじゃ。少し考えれば、わかると思うがの……」
「っ!」
またしてやられたと思い、カミエの細い目は珍しく大きく見開かれ、息を詰まらせた。
「――パパ、とりさんがあっちにきたよ」
「鳥もピクニックに来てるのかもな」
「なかよしだね」
霊界へ傾きがちだった崇剛の意識は、現実で危機に瀕していたことに気づいていない乙葉親子を強く感じた。冷静な水色の瞳は一瞬陰り、無感情天使へ珍しく真剣な顔を戻した。
「彼女――は元気でいらっしゃいますか?」
「いる」
ラジュと違って言葉数が非常に少ないカミエ。便りがないのはよい便り――。
「そうですか」
だからこそ、崇剛の水色の瞳は涙で少しだけにじんだ。一番会いたがっている人たちに伝えることが、千里眼のメシアを与えられた自身の役目であると思った。
瞬の小さな手はうまくサンドイッチを持てず、崩してしまって、中身で手がベトベトになっていた。
涼介が父親らしくナプキンで拭いている。神経質な指先で、崇剛は後れ毛を耳へかけた。
「涼介、瞬。今カミエ天使が見えています。彼女は元気でいらっしゃるそうですよ」
その天使の名は、かつてそばにいた女の守護をしていた者だった。守るべき人が成仏すれば、天使も天へと戻る。会うこともないと思っていたが、思いもがけず出会えた。
二年前の悲痛な出来事が、それぞれの角度から回想され、しばらく沈黙が全員を包み込んだ。
涼介はビールの缶を少しきつく持ち、息子に背を向け、遠くの景色を眺めながら、一粒の涙が頬を流れていった。
瞬は落ちてきた涙を何度も何度も小さな手のひらで拭う。
瑠璃はプリンを食べる手を止めて、漆黒の長い髪を山肌をなでてきた風に慎ましくなびかせた。
崇剛は両肘をテーブルの上へつき、神経質な手を額の前で組み、そっと目を閉じた。この世に今はもういない、『彼女』の冥福を祈った。
冷静な思考回路の持ち主である、崇剛が過去の悲しみという荒波から、真っ先に戻ってきて、天使に問いかけた。
「光命様も今回のことはご存知だったのですか?」
ラジュの指示ならば、その上にいる神からでもおかしくはなかった。滅多に笑わないカミエは、彼なりの微笑み――細い目をさらに細める。
「お前を動かすのは簡単だと、光命様がおっしゃっていた」
「どのようにおっしゃっていたのですか?」
崇剛は聞き返しながら、ささっと情報を整理した。
光命→ラジュ天使→カミエ天使→瑠璃という順番で、情報が共有されていったという可能性が99.99%――
昨日の夕食時、瑠璃は遅れて来ました。
十八時に彼女は目を覚まします。
遅れて来たということは、その間に、カミエ天使に会ったという可能性が99.99%――
冷静な頭脳をフル回転させていると、地鳴りのような低い声が少し含み笑いをした。
「そこに情報があると思わせれば、動くと。人のお前は神の策にはまっている」
「おかしな神ですね、光命様も」
中性的な唇に手の甲をつけて、崇剛はくすくす笑い出した。ラジュから聞いた話では、自身と同じような考えを神レベルでする人物らしいと。神の策が脳裏に浮かぶ。
嘘をつくことが苦手な瑠璃にあえて、言わないようにと忠告した。
そちらのことによって、瑠璃の言動は不自然なものになるという可能性が99.99%――
従って、私がそちらに何らかの情報があると思い、動くという可能性が99.99%――
そうして、私は神の思惑通り動かされたみたいです。
崇剛は心の中で、両手を顔の位置まで上げ、優雅に降参のポーズを取った。晴れ渡る空を見上げ、さらに高い場所へいる神に敬意を示す。
持ち直してきた乙葉親子によって、ピクニック気分の楽しい会話が再開された。
「パパ、にじでる?」
「あれは、雨が降って、そのあとに、晴れないと出ないぞ」
「そうなんだ。るりちゃん、みたことある?」
「ないの」
「すごくきれいなんだよ」
「瞬とともに見てみたいの」
特別な感情を抱いてしまった聖女と、楽しそうに無邪気に話している五歳の子供。ふたりの間で、三十二歳の男は、微笑ましくありながら悲しい表情をしていた。
悪霊は消滅したが、降臨したっきり帰らないカミエ。彼の無感情、無動のカーキ色の瞳はなぜか、瑠璃へと注がれていた。
天使の視線に違和感を抱きながら、崇剛は大胆にも、人の心を読み取れる天使へ、情報収集の罠を仕掛けることにした。
元々食が細く、食べ物にあまり興味のない崇剛は、包帯を巻いていた手をあごに当て、ささっと策を練って素早く質問した。
「ラジュ天使はどちらにいらっしゃるのですか?」
急に話しかけられたことで、カミエは聖女から視線をはずし、うっかり言いそうになった。
「ラジュは今、シュト――!!」
「そちらにいらっしゃるのですね?」
何とか天使の威厳を保ったカミエの前で、崇剛は優雅に微笑んで見せた。
シュト――で始まる地名、もしくは場所などにいるという可能性が99.99%――
合致する情報は今まででふたつあります。
そちらであるという可能性が58.63%――
カミエは不思議そうな顔をした。
「なぜ、俺に仕掛ける?」
「なぜだと思われますか?」
聞いたのに、聞き返された――。情報漏洩を防ぐ、基本中の基本の方法。真っ直ぐな性格のカミエは交わし方を知らず、珍しくため息をついた。
「はぁ……」
「今回のことは、『厄落とし』だったのでしょうか?」
聴き慣れない言葉が聖霊師から問いかけられたが、天使には何を意味しているのか十分わかっていた。
「そうだ」
「そちらを、他の言語で表したら、どのようにおっしゃるのですか?」
いきなりの意味不明な質問――に見える、策略。カミエはまた不思議そうな顔で聞き返す。
「それは必要なことなのか?」
「必要かもしれません」
優雅な笑みは消えていて、崇剛に見据えられたカミエは一旦考え、少し遅れて口を開いた。
「……Escape from evil」
「先ほどの場所は英語圏なのですね?」
勝利というように、崇剛はこれ以上ないほどにっこりと微笑んだ。
「っ!」カミエは何とも言えぬ顔になり、
「情報提供ありがとうございます」崇剛は礼儀正しく頭を下げた。すぐさま、冷静な頭脳で可能性が導き出される。
シュト――で始まる英語圏の場所。
あちらであるという可能性が58.63%から上がり、78.98%――
時が早回しで戻り、崇剛は昨日の朝にたどり着いた。涼介が懺悔にやってくる前に見た新聞に載せられた記事。
と、
幼い頃から手にしている情報が鮮明に浮かび上がった。だがしかし、関連性は今のところ弾き出せなかった。
炭酸の泡だけがグラスの中で踊るカンパリソーダの前で、神経質な指先があごに当てられる。
厄落としとは、物事がいい方向へ進む時に起こる、辛い出来事などを表します。
前厄と後厄があります。
今回は前厄です。
なぜなら、まだ何も起きていないみたいですからね。
平然と罠を仕掛けてくる人間の横顔を見ながら、カミエが首を傾げると、深緑の短い髪が重力に逆えず、頭から少しだけ離れた。
「お前のところは、どうなっている?」
「どのような意味ですか? そちらの言葉は」
「その守護の縦ラインはおかしい」
「私に聞かれても困りますよ。私が守護天使と守護神を選んだわけではありませんからね」
「光命様もラジュもお前も、なぜ、俺に全員で策を張りめぐらす?」
散々なカミエだった。
紺の後れ毛を耳にかけて、問いかけられたのに、崇剛は逆に質問し返した。
「そちらを四字熟語で表したら、どのようにおっしゃるのですか?」
カミエは日頃の鍛錬を見せる場面がめぐって来たと思った。一字一句はっきりと、わざとらしく、
「策・略・連・鎖だ」
天使の地鳴りのように低い声でもたらされた言葉を、崇剛は途中まで言ったが、
「策略……」
「それ以外に、どんな言い方がある?」
神経質な手の甲を中性的な唇に当て、くすくす笑い出し、肩を小刻みに揺らしながら、何も言わなくなり、崇剛なりの大爆笑を始めた。
「…………」
「武術を極めるためには、真面目でふざけていないとできん。笑いの修業は大切だ」
両腕を腰の位置で組み、カミエは目を細めた。まるで日本刀で鮮やかに敵を叩き切ったように、天使は崇剛を撃沈したのだった。
「お前は過去にこだわり過ぎだ。起きた事実から可能性を導き出すからだ」
食べ終えた瑠璃と瞬は一緒にちょうちょを探しに行ってしまった。涼介が遠くに行かないように注意している声が少し遠くで聞こえる。
「お前の選ぶ選択肢で未来は変わる。右手を傷つけたのはひとつの未来の形だった」
「そうですか」
確かに自身の記憶力は人並みをはずれてはいるが、世の中はとても広い。同じ思考回路の人間は他にもいくらでもいるだろう。
同じ出来事を一緒に見たとしても、そこから導き出す答えは人それぞれ違う。まだまだ自身の可能性の導き出し方には、成長するノリシロが残っているのだ。
漆黒の髪が揺れるのを、崇剛は心の瞳でずっと追っていた。あの少女をあきらめなければいけないという、戒めの鎖を巻きつけながら。
それでも、帰る気のないカミエ。情報源はすぐ近くにある。それを見逃すはずもなく、冷静な水色の瞳はついっと細められた。
そうですね……?
大鎌の悪霊と恩田 元の件――
四月二十一日、木曜日、二時十三分五十四秒過ぎ。
私を襲ってきた悪霊の数は少なくとも二百です。
四月二十九日、金曜日、十三時十四分十七秒過ぎ。
恩田 元の事件を話している時、国立氏が受けた天啓――
邪神界の大魔王と四天王の話でした。
茶色のロングブーツは優雅に組み替えられ、腰元に刺してあった聖なるダガーの柄が、春の日差しに妖しく揺らめいた。
先ほどの大鎌の悪霊は、涼介と瞬を狙っているように見えた。
大鎌の悪霊は、千恵さんと関係しているという可能性38.98%――
従って、恩田 元と関係しているという可能性が45.67%――
国立氏は恩田 元と接触しています。
涼介も恩田 元と接触しています。
ですが、瞬は接触していません。
事実がひとつ合いません。
そうなると……。
崇剛は視界の端に天使の無感情、無動の瞳を映しながら、山頂からの素晴らしい景色を眺めた。
大鎌の悪霊と、恩田 元の過去世が関係しているのはおかしい――です。
従って……
柔らかな春風に吹かれながら、策略家は怖いくらい優雅に微笑み、こんな可能性を導き出した。
全ては恩田 元と関係する――です。
100%――確定です。
理論的におかしい心の声が聞こえてきたカミエは、不思議そうな顔で短く言い切った。なぜその答えにたどり着いたのだと。
「違う」
「やはり、そうなのですね?」
水を得た魚――。崇剛は流暢に話し始めた。
「まったく別の非常に大きなことが同時に起きているということですか?」
カミエは水色の瞳をじっと見つめていたが、やがてあきれたため息をついた。
「なぜ、同じことを何度もする?」
情報を得るために、わざと間違ったことを思い浮かべるという策略。まわりくどい人間の前で、真っ直ぐで正直な天使は手を持て余す。
「お前はよくわからん」
それなのに、崇剛は優雅に微笑んで、
「ありがとうございます。お褒めの言葉をいただいて、光栄です」
「意味がわからん。なぜ、そこで礼を言う?」
「…………」
悪戯が過ぎる崇剛はくすくす笑い出した。誰かが幸せそうに笑う姿を見るのは、天使にとっても幸せなことで、カミエは目を細める。
手の甲を唇に当てて、肩を小刻みに揺らしている人間が、どの選択肢を選ぼうとも、進んでゆく未来はただひとつ。
天使にとって、『死』は長い輪廻転生の区切りであるだけで、そこに人間のように必死にしがみつく理由などない。
どんな未来が待っていようと、天使は無感情に、何も忠告せず去っていこうとする。
「帰る」
「ありがとうございました」
瞬の隣で遊んでいた瑠璃が振り返ると、漆黒の長い髪が巫女服ドレスの背中できらびやかに揺れた。
「またの。ラジュの策に巻かれるぬようにの」
聖なる光をキラキラとちりばめ、三沢岳の山頂から純白の袴姿は艶やかに消えていった。
涼介が見守るそばで、地面に枝を使って絵を描いている、瞬のそばへ瑠璃はすぐに行ってしまった。
ほとんど口にしていないランチを置き去りにして、崇剛は物思いにふける。
「おかしいです。カミエ天使は、私、涼介、瞬の誰の守護天使でもありません。ラジュ天使は神ではありません」
水色の瞳と濃く混じり合うような青空を見上げ、崇剛は神が与えしもの――風、食べ物、心……何もかもを全身で感じながら考え続ける。
「まったく関係のないカミエ天使を、ラジュ天使が私たちの元へ来させることはできません」
神の領域へと物事のレベルは引き上げられてしまった、尊い姿を見ることも声を聞くことも赦されない、千里眼の持ち主は全ての可能性を切り捨てずに持ち続けようとする。
「従って、まったく別の非常に大きなことに、カミエ天使も関係しているという可能性が非常に高い。どのようなことが起きているのでしょう?」
遠い外国を見ようとはせず、冷静な水色の瞳はすぐ近くで遊んでいる聖女の背中にじっと訴えかけていた。
疑問形で話を止めている策略家に、聖女は振り返って、しっかりと釘を刺した。
「崇剛、教えぬぞ」
「そうですか」
絶対に勝ちにくる策略家にとって、条件が厳しくなるほど、解決したあとに感じる快感はひとしおだった。まさしく中毒。
ずっと食べ損なっていたサンドイッチを口へ入れ、崇剛ははるか遠くに広がる海の青を眺める。この先起きるであろう、予測のつかない出来事に太刀打ちできる方法を模索しながら。