Escape from evil/3
崇剛はいつもの癖が出て、ズボンのポケットにある懐中時計を外から触れる。
十二時三分十五秒――
昼食の時刻より、三分十五秒過ぎている。
「そうしましょうか」
冷静な頭脳を使ってデジタルに心霊現象を切り離し、崇剛のロングブーツは優雅に歩き出した。
ふわふわと浮きながら、守護する人の隣をついて来る聖女は大いに期待をする。
「プリンはあるのかの?」
ひまわり色のウェーブ髪の小さな頭を持つ瞬は、同じ色の髪をした人へ通訳をした。
「パパ、プリンある?」
「当然だろう、珍しく、瑠璃様、昼間に起きてるからな。ブランデーで香りづけしたのを作ってきた」
「涼介、褒めて遣わす」
百年の重みを感じさせる声が響くと、瑠璃はヒューっと空中を横滑りをして、乙葉親子がランチを楽しもうとしているテーブルへ近づき、さっそうと椅子へ腰掛けた。
魔除けのローズマリーを潜ませている、瑠璃色の上着を左腕にかけたまま、崇剛は少し遅れて優雅にやって来て、スマートに椅子へ座った。
細いロングブーツの足を組み、執事が食事の用意をするのを黙って待っていた。
リュックから取り出される昼食は、冷静な水色の瞳から次々に、主人の脳裏へ記録されてゆく。
サンドイッチ三種類。
ブランデーで香りづけしたプリン。
ブラッドオレンジジュース。
缶ビール。
カンパリ。
炭酸水。
これで終わりというように、涼介はリュックを小脇に置いた。主人の期待していたものは出てこず、執事へ文句が飛ぶ。
「なぜ、サングリアではなく、カンパリなのですか? そちらはリキュールであり、アルコール度数二十五度です」
「カンパリの苦味は疲れを取るらしんだ。お前のことを想って持ってきた。二十五度でもお前は飲まないだろう? 炭酸で割って、カンパリソーダにする」
「そうですか。確かに疲れましたよ」
主人は返事をしながら、感覚で生きている執事のことを考える。途中から歩いて登ると知っていたみたいだと。それは直感や天啓を受けたからなのかと。
山道で揺れに揺られてきた炭酸水。今開ければ、どうなるか容易に想像がつく。涼介は椅子の上に座ったままくるっと横へ向いて、人のいないところで缶のふたを開けた。
「っ!」
春の穏やかでさわやかな風に、水しぶきがほとばしった。霧のような小さな滴が、熱を持った頬を少しだけ冷やす。
ワイングラスはほおづき色に染まり、炭酸水が泡を立ち上らせた。執事から主人へ酒が差し出される。
「俺は好きだな、この味。崇剛はどうだ? 飲んでみろ」
「えぇ、いただきます」
細く神経質な手はグラスへ伸びていき、未知の味を堪能しようとする。中指と薬指でグラスの足を挟み、崇剛の少し柔らかな唇へ近づいて、赤い液体がのどへ落ちていった。
主人の仕草を見届けた涼介はさわやかに微笑む。
「おいしいだろう?」
冷静な水色の瞳は一瞬閉じられ、再び開けられた。そうして、妙な間を置いたあと、美しい景色を思う存分堪能できる三沢岳山頂で、神経質な手の甲が唇へ当てられ、
「……おいしいです」
戸惑い気味に珍しく感想を述べた、崇剛の中では耐えがたい味覚が主導権を握っていた。
(非常に苦い……。これ以上は飲めません)
執事の主人への純粋な想いは、手痛い仇討ちになっていた。心の声がバッチリ聞こえている瑠璃は、あきれた顔をする。
「お主も素直でないの。戯言を申すでない」
崇剛は口の中の苦味を抹消するために、瑠璃が真っ先に頬張ったプリンを食べ、速やかに口直しした。
一悶着のあと、冷静な頭脳を正常に稼働させ、ポケットの中にある懐中時計に手で触れ、崇剛は迫ってきた文字を読み取る。
十二時十五分一秒――
何が起きるのしょう?
その時――
バーンッ!
世界が大きな力で打ちのめされたような爆音がとどろいた。崇剛と瑠璃の真正面――乙葉親子の後ろに、聳え立つ塔のような重厚でいて、不気味な錆色の扉が突如現れた。
霊界での空は一瞬にして、突然の夕立に襲われたような、黒く厚い雲が低く立ち込める。
稲妻がグーグーと威嚇しながら、頭上を青白くはい回り始めた。遠くの地平線は、生き血のように赤く燃え上がる。
つかもうとしていた卵とアボカドのサンドイッチから、崇剛は反射的に右手を離した。
左腰元で鋭いシルバー色を放っている聖なるダガーの柄へ、血のにじんだ包帯をした手を伸ばした。
邪神界とこの世をつなぐ扉――
穏やかな春の風景が一瞬にして破壊され、死という恐怖と危機がやって来てしまった。
聖霊師は人差し指と中指で、ダガーの柄を挟み持ちしよと、力を入れたが傷口に痛みが走った。
「っ!」
小さなうめき声が思わずもれる。激情の獣が上げる焦りの雄叫びを感じながら、ラジュの長い言葉が一字一句間違えずに蘇った。
「聖なるダガーで己自身を傷つける……。メシア保有のあなたには、そちらのような行いは赦されません。大きな力を持つということは、多くの人を救える可能性があなたにはあります。怪我をしている間に、ダガーの使用が必要となった時、どのように対処するつもりだったのかは知りませんが……」
守護天使の言う通りに、ピンチがやって来てしまった。ダガーが使えない今、別の方法を模索する。膨大なデータを冷静な頭脳の中で流し始めると同時に、
ギギーッ!
爪でガラスを掻きむしるような、聞くに耐えない音が不気味に鳴り響き、重厚な扉は開いてしまった。向こう――邪神界側から大鎌を持った悪霊がにわかに姿を現した。
フードを深く被り、相変わらず顔を見ることは叶わない。武器の扱いに慣れていないのか、鉄の重さに全身が翻弄されているようにふらつく。
四月二十一日、木曜日、二時十三分五十四秒過ぎ。
ベルダージュ荘へ来た悪霊と同じかもしれない――
私一人では倒せない。
どのようにすれば――
ラジュの忠告通りに、肝心な時に誰も守れない。全てを記憶していても、感情という風に煽られ、焦りが膨らんで――
「プリン、おいしい?」
天使以上のレベルの悪霊を見ることができない、瞬はピクニック気分で瑠璃に話しかけていた。
「誠美味じゃ!」
足元がぐらついていた崇剛は我に返り、プリンのクズを口のまわりにつけて、大はしゃぎで食べている聖女の横顔を見つけた。
斜め向かいで、霊感がまったくない涼介が頬杖をついて、疑わしい視線を見当違いのところに向けている。
「瑠璃様また、プリンだけ食べてるんじゃないだろうな?」
崇剛と大鎌を持った敵だけが異常で、あとは平和な日常だった。冷静な水色の瞳はついっと細められる。
おかしい――
崇剛の思考回路を残して、全ての時の流れがゆっくりになったような気がした。策略家は可能性の数値を追いかけ始める。
悪霊の姿は瑠璃に見えている可能性は99.99%――
しかしながら、彼女は驚いているように見えない。
瑠璃が時刻を気にしていたことは、こちらと関係している可能性が99.99%――
ダガーへ伸ばしていた手を静かに元へ戻した。そうして、崇剛は思案する事実の範囲を広げる。
従って、昨日のラジュ天使の言葉は――
本当であるという可能性は67.89%――
すなわち、嘘であるという可能性がある。
そのあと、彼は以下のように言いました。
「従って、冷静な判断を欠くような考え方は決して赦されません。ですが、これだけは伝えておきます。心で想うことは自由です。私があなたを敵から守ります。ですから、どなたかを想ってもよいのではありませんか?」
こちらも嘘である可能性がある――
してやられたのだ、あのトラップ天使に。崇剛は優雅に微笑み、心の中で降参のポーズを取る。
「出エジプト記……かもしれない」
国立が聖書の話を昨日したことも、神のお力ならば宇宙を創造するように簡単だ。何重にも真意は隠されていたのだった。やりかけのパズルがまた完成図へと近づいて、ピースを減らしたみたいだった。
隣でプリンを夢中で食べている聖女の、漆黒の長い髪を視界の端で捉える。
ラジュ天使は戻ってきていません。
瑠璃とどなたかが約束をしているみたいです。
従って、別の天使が現れるという可能性が99.99%――
ラジュ天使との人間関係からすると、あちらの方であるという可能性が99.99%――
私は情報を得たいのです。
ですから、こちらのまま待ってみましょう。
悪霊の大鎌は左横へ持ち上げられ、そのまま涼介と瞬の霊体を完全に横一直線で引き裂く格好を取った。
このままでは、乙葉親子の魂が消滅するという未来が再生されそうだった。それでも、崇剛は冷静という名の盾で、激情という獣を押さえ込み、
そちらの方がいらっしゃるという可能性が、確信であるという可能性へ変わり、そちらが99.99%になった。
霊界は心の世界です。
ですから、こちらのようにしましょうか。
瑠璃が口元についていたプリンのクズをナプキンで拭うと、ランチが広げられているテーブルの上に、別次元でスタンドマイクが突然現れ、プロレス中継のように変わった。
涼介と瞬は気づかず、ちょうちょを追いかけたり、サンドイッチを頬張り続けている。
崇剛の水色の瞳からは冷静さは一瞬にして消え失せ、血湧き肉躍らせるものへとなり、目の前で繰り広げられるであろう戦いに、思い浮かべる口調までが別人ように急変した。
「ここで、ラジュ天使と仲のいい――いや、違う。トラップ天使の策にはまってばかりの、カミエ天使降臨だ!」
カンとゴングが鳴ったような気がした。それが合図というように、右手の空から金の光が氷上を滑るが如し、悪霊へと一気に間合いを詰めてきた。
「さっそく使ってきた、縮地! 短時間で、長距離を歩く武術の技。これは、腸腰筋と腸骨筋、そして、足裏の気の流れを最大限に使うものだ。次はどう出る!」
近づいてきた者の動きが早すぎて、姿形がまったく見えなかったが、解説者となっている崇剛の水色の瞳には二百十センチの背丈を持つラジュよりも、はるかに大きい二百四十センチの天使が映っていた。
立派な両翼は畳まれていて、白いローブではなく、聖なる光を放つ純白の袴姿。普通より長めの日本刀が左腰に刺してあった。
天使の証である金色の輪っかの下にある、深緑の短髪。無感情、無動という言葉がよく似合うカーキ色の瞳。
日本刀の柄には、すでに天使の右手がかけられていた。大地のような絶対不動で重厚感を表す体躯は、前屈みになっているが、決して姿勢が崩れているのではなかった。
自身を保っている小宇宙と大宇宙が一ミリのズレなく一体化し、体の中心――センターが崩れていない。芸術とも呼べるほど美しい出立ちで、隠しても隠しきれない和装の色気が艶やかに匂い出ていた。
悪霊の大鎌が動く前に、日本刀がすっと抜き取られた。左手を添えて、深緑色の髪近くへ持ち上げられるかと思いきや、抜きざまに右手だけで左下から右上へ刃先は、悪霊を成敗するがために、天使の手によって鉛色の一直線を鋭く描いた。
「早い! 一旦抜いて構えるよりも、断然早い倒し方! あれは無住心剣流! 彗空時代にあった剣の流派のひとつ。重力に逆らわず剣を持ち上げ、剣の重みだけを感じながら、下すということだけで、全てを学び取るという教え。だが、あまりにも再現することが難しく、三代目――真里谷 円四郎で途絶えてしまった流派だ。次は相手の大鎌が動いてくるぞ! どうする、カミエ天使!」
大鎌を持つ悪霊は、天使の刀さばきに一瞬怯んだが、三日月型の大きな刃物を振り上げ、カミエへ下ろそうとした。
そこへ、日本刀の鞘に添えられていた天使の左手が、流れるような仕草で悪霊へと伸ばされる。
「動きが居ついていない! 止まり、構えたら負けだ。そこで隙ができてしまう。さすが、正中線[脚注]を持っているだけある。歩きはじめの子供のように、最低限の筋肉だけ使い、常にフラフラとしている状態。それはどんな動きにも、即座に対応できるということだ」
何の武器も持っていない天使の左手が、悪霊のそれに触れると、手品でもしたいみたいに、不思議なことに大鎌が天使の手中に収まっていた。
「来た! 合気の応用。今のはテコの原理を利用した。さらに、大鎌と相手の重心を自分へと奪い、意識と動きを意図的に止めた。その隙に、相手の武器を奪ったものだ。右手に日本刀、左に大鎌。カミエ天使、次はどうする? このまま武器だけで倒してしまっては、修業バカの異名を持つ、カミエ天使の名が廃る。次はどんな技を見せてくれるのか!」
深緑髪の短髪を持つ天使は細いポールの上に、絶妙なバランスを取りながら立っているような姿勢で悪霊と対峙する。
どこまでも広がる青空の下、まだまだ涼介と瞬のピクニックは気分は和やかに続いていた。しかし、霊界での暗雲から、
ザザーン!
と、雷光が悪霊と天使の背後で、世界を引き裂くように落ち、大地を震わせた。
それに驚くことなく、邪神界の者と正神界の者との間で、さらに不思議なことが起こった。
聖なる光を放っている白い袴はまったく動いていないのに、悪霊はいきなり宙で前転し、
「うわっ!」
背中から地面へ激しく叩きつけられたのだ。独り相撲みたいな戦況を前にして、崇剛は叫ぶ。
「出た、大技! 合気! 相手と自身の呼吸を合わせ、相手の重心――柱を自分へと奪う。これをされると、相手は意識と動きが封じられてしまう。その隙に奪った重心を、カミエ天使の肩と胸の間で、円を縦に描いて回す。人レベルでは、手などが触れていないとかからないが、天使だ。ここは違う。地面を介して、合気をかけた! その時は正中線上で円を描く」
霊界の荒野では悪霊が倒れたまま、苦しそうに肩で息をしているだけだった。
「まだ技は続いている。悪霊の重心は、カミエ天使に奪われたままだ。悪霊は今何も考えられず、何が起きているのかすらわからない状態。だが、合気は護身術。何か別の打撃系の技を使わないと、トドメはさせない。どうする? カミエ天使」
上げたままだった日本刀を重力に逆らわず、悪霊へと天使は艶やかに下ろし、何の躊躇もなく無感情で、悪に魂を振り飛ばした者の胸へ突き刺した。
「グワァっ!」
奪った大鎌をそのまま手から落とし、崇剛の首をはねた悪霊の武器が、空からギロチンをする要領でバッサリと斬られ、
「ぎゃああああっっっ!!!!」
断末魔を上げるとともに薄墨となり、やがて不浄な者はこの場から消え失せた。無感情極まりなく、容赦など微塵もなかった、聖なる天使の攻撃は。
「カミエ天使の圧勝っ!」
カンカンカン! と、試合終了のゴングが響き渡った気がした。雷雲も鉄の扉もなくなり、さっきから隣で黙って見ていた瑠璃はぼそりとつぶやいた。
「崇剛、お主もよくやるよの。雰囲気が崩れておるぞ」
冷静な水色の瞳へ戻り、霊界でのマイクも消え、優雅な策略家神父はくすくす笑う。
「非常にやりなれませんでしたよ。ですが、著者からの指示では従うしかありませんからね」
[脚注]体の中心を上下に貫く、気の流れのこと