Escape from evil/1
優雅という代名詞が一番よく似合う、崇剛はそれとは程遠い状況へと陥れられていた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
神経質な頬や額には汗の粒がいくつもつき、グラスにできた結露が重力に逆らえず落ちてゆくように滴った。
細い指先がいつも当てられる、あごという自身の体の境界線から、次々に服や足元へ染みを生み出していた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
呼吸が荒波のようにひどく乱れ、冷静な水色の瞳は放心状態にたどり着きそうになっていた。
後悔先に立たず――
その諺がまさしくしっくりくる。崇剛は過酷な運命の中で、淫らに喘ぎ続けるのだ。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
あたりでは鳥がさえずり、暖かで穏やかな風が優しく吹いている。かろうじて優雅さを保っている声は、独り言をひどくもつれ合わせる。
「なぜ……はぁ……このような……はぁ……ことになったので……はぁ……しょう? 私はまた……可能性の導き出し……方を間違った……みたいです」
茶色いロングブーツの足元はおぼつかない。瑠璃色の上着は左腕にかけられているが、さっきから持ち主から逃亡するようにずれ落ちそうになっている。
血のにじむ包帯を巻いた右手で、何度もつかみ直す。後れ毛が汗で頬に貼りついているが、気にする余裕もない。
今までに味わったことのない苦悶が、体中を絶えず走り続け、視界が明暗を繰り返す。
それでも、崇剛は冷静な頭脳を何とか可動させた。
ことの始まりは、昨夜の夕食時です――
すなわち、四月二十九日、金曜日、十八時十七分十三秒過ぎ。
――崇剛は屋敷の食堂で、いつも通りテーブルに両肘をついて、聖女の到着を待っていた。
「遅いですね」
ちょうどその時、扉の向こうからすり抜けてきた聖女は、いつもなら、おはよう――と言うのに、両腕をツルペタな胸の前で組みながら、ぶつぶつと何か言っていた。
「あれがそれじゃから……?」
「瑠璃さん、何かあったのですか?」
崇剛の声かけで、すでに食卓についていた涼介と瞬は、幽霊の到着を知った。漆黒の長い髪はびくっとして、若草色のくりっとした瞳はあたりを見渡す。
「す、崇剛っ!? しょ、食堂についてしまったかの?」
組んでいた腕を解いて、聖女は気まずそうに咳払いをした。
「んんっ! 何もあらぬ。遅れてすまなかった」
おなしなところはあれども、瑠璃が席へ着くと、夕食はいつも通り始まった。
今夜も涼介と瞬が菜園から収穫してきた野菜を使った料理が食卓でにぎわっていた。
瞬はポトフにスプーンを刺したまま、瑠璃と今日あったことを楽しそうに話し、笑顔が咲きこぼれる。
崇剛はサングリアを飲みながら、怪我の心配をしてくれている涼介が切ってくれた、ライ麦パンに黒オリーブとフェタチーズのオイル漬けを乗せて、口へ運んだ。
白ワインで香りづけたした、ヒラタケのバターソテーをつまみに、ビールを飲んでいる涼介が、時々瞬の食べるスピードが遅いのを注意する。
――優雅で穏やかな時間はあの時までだったと、崇剛は思う。神経質な頬から落ちた汗は、土煙舞う地面へ落ち、濃い茶色のギザギザ模様を残した。
食事の祈りを捧げてからの、十六番目の会話――
崇剛は食べる手を止めて、膝の上に乗せていたナプキンで口元を軽く拭き、食卓についていた人たちを見渡した。
「明日、三沢岳に行ってきます」
肩肘をテーブルについて、ビールの缶を傾けていた涼介が、顔を向けた。
「三沢岳? あの向こう側にいつも見えてる山だよな?」
「えぇ」
「何しにいくんだ?」
「霊視をしてきます」
「そうか」
涼介は何度か小さくうなずき、ビールをまた飲んだ。当たり前の会話だったが、瑠璃がプリンを食べていたスプーンをガタンとテーブルへ勢いよく置いてから、おかしくなってしまった。
「そ、そうじゃ!」
何か思いついたようで、しかも思いっきりカミカミだった。
「ま、瞬と涼介も一緒にどうじゃ?」
若草色の瞳は焦りが出ていて、落ち着きなくみんなを見渡したが、額から冷や汗が出ているのが見え見えだった――。
――不意に吹いてきた新緑の香りがついた春風が、崇剛の汗だくの額から雫を拭い去ってゆく。
――妙な間が、ベルダージュ荘の食堂に漂っていた。崇剛と瞬は何も言わずに、瑠璃をじっと見つめた。その様子から、涼介も何かが起きていることを感じ取った。
聖女が座っているだろう、姿の見えない住人の食事をのぞき込んだ。
小さな両手をテーブルクロスの上に乗せて、身を乗り出している聖女の横顔を、崇剛は冷静な水色の瞳で眺める。
先ほどから三度も、瑠璃は言葉に詰まっている。
話の内容もおかしいです。
霊視をしに行くとひとつ前に、私は言っています。
仕事で行くのです。
そちらへ、涼介と瞬を一緒に連れてゆくというのはおかしいです。
瑠璃は嘘をつくことが苦手であるという傾向がある。
これらから判断すると――
何かの理由があり、瑠璃は涼介と瞬を誘ったという可能性が98.78%――
守護する人の心の内ははっきりと聞こえている守護霊――瑠璃は崇剛のほうはできるだけ見ずに、収集がつかなくなりそうな会話を何とか進めようと模索していた。
――崇剛は目の前に迫ってきた、小枝と新緑の葉っぱを日焼けのしていない腕で、目に入らないように押しのけ、坂道を登ってゆく。
――純真なベビーブルーの瞳は、パチパチと不思議そうに何度か瞬きされていたが、瞬はコップを握ったまま、瑠璃に話しかけた。
「ぼくも?」
何とか順調に進み出しそうな会話を聞き、崇剛は残りのサングリアを口に含み、グラスをテーブルへ置くと、給仕係がすぐさまルビー色を注いだ。
「瑠璃様、何て言ってる?」
フォークを立てて持って、涼介は斜め前の席に座っている息子へ問いかけた。
「いっしょにいこうって」
「どういうことだ?」
そんな話など今まで一度もなかったのに。涼介は手元を見つめて、首を傾げた。聖女の提案には、全員疑問を持っていた。
――茶色のロングブーツはさっきからずっと坂道を登り続けていた。
その前を自分とは違う法則――浮遊という動きで進んでゆく、白と朱を基調にした巫女服ドレス。
鏡のように反射する漆黒の髪を持つ聖女が物珍しげに、林を眺めていた。
「瞬、あれは何じゃ?」
「ちょうちょだよ」
純粋で幼い声が楽しげに応えた。半袖シャツに半ズボン。そこへまとわりつくように、肩から斜めがけした水筒と、日差しから守るための子供用の帽子。
それらを少し遠くから見上げる形で、冷静な水色の瞳には映っていた。
――昨夜の回想。ベルダージュ荘の食堂では、瑠璃に視線が集中していた。崇剛はあごに手を当て、聖女の横顔をそっとうかがった。
情報を得られるかもしれない――。
そう思い、策略家は瑠璃に問いかけた。
「なぜ、涼介と瞬も一緒でなくてはいけないのですか?」
聖女は油差しの効いていない人形のように、ギギーッと崇剛にぎこちなく顔を向けた。指先を胸の前で、落ち着きなさげにトントンとする。
「そ、それはの……」手詰まりになりそうだったが、「あぁ、そうじゃ!」と少し大声を上げて、「みな一緒のほうがピ……ピ……? 横文字は弱くての」
とってつけたみたいな話をしている聖女に、崇剛は助け舟を出した。
「ピクニックですか?」
「そう、それじゃ!」瑠璃は勢いよく指差し、「そ、それみたいで、楽しかろうと思っての」さっきから言葉に詰まってばかりだった。
誰が見ても、聖女の様子がおかしいのは手に取るようにわかった。当たり前のように、食堂に沈黙が降りる。
「…………」
屋敷の人々はしばらく、ぽかんとした顔をしていた。
――昨夜の情報を整理しつつ、今起きていることも、崇剛の冷静な頭脳で着実にデジタル化されてゆく。
列の一番前を歩いていた執事が振り返って、さわやかな笑顔を自分の息子へ向けた。
「瞬、落ちないように気をつけるんだぞ」
「うん、わかった!」
一緒に歩いているだろう聖女も、執事は心配することも忘れない。
「瑠璃様は大丈夫か?」
少女はげっそりした顔を、霊界で見せた。
「我は落ちぬ。お主もおかしなことを申すよの。天然ボケであろう、涼介は」
通訳の瞬は、
「パパ、るりちゃん、とんでるから、おちないよ」
「そうだったな」
涼介はまた前を向いて坂道を上し出した。
三人に何とか追いつきたいが、太腿とふくらはぎが痛みという悲鳴を上げ、彼らとの距離は、崇剛からどんどん離れてゆく。
――昨夜のベルダージュ荘。大好物のプリンもまだ残ったまま、瑠璃はテーブルを見渡した。
「じゃ、じゃからの、行かぬか? 瞬と涼介もの」
崇剛はルビー色のグラスを傾けて、聖女の言動を考える。
瑠璃は私の守護霊です。
私の知らないことを知っているという可能性が99.99%――
霊界は横のつながりもあります。
ですから、涼介と瞬の守護霊から了承も受けているという可能性が95.78%――
涼介と瞬が動向する必要性が霊的な理由であるという可能性が87.65%――
ですが、どのような理由があるのかの判断材料が足りません。
線の細い聖霊師は、料理にほとんど手をつけず、聖女の怪しすぎる言動の意味を探る。
私は先ほど、「なぜ、涼介と瞬も一緒でなくてはいけないのですか?」と、瑠璃に聞きました。
しかしながら、彼女はきちんとした理由を説明しなかった。
守護霊の瑠璃が霊的な理由で、何かを隠しているように見える。
そうなると、次の可能性が99.99%で出てくる――
――現実へと意識は引き寄せられる。右手に広がる林の奥からは、鳥のさえずりがさっきから美し旋律を奏でていて、癒しという心地よさを与えていた。
私の守護天使であるラジュ、守護神である光命も今回のことをご存知である。
さらに、以下の可能性が87.45%で出てくる。
ラジュ天使もしくは、光命様から理由を説明することを、瑠璃は禁止されている。
付随する可能性で――、
涼介の守護天使と守護神。
瞬の守護天使と守護神の四人もご存知である、が出てきます。
非常に大きな何かが動いているという可能性が38.98%――
すなわち、重要な意味があるという可能性が98.78%で出てくる。
息苦しさに耐えられず、茶色のロングブーツは坂道の途中でふと止まった。持ち主の冷静な水色の瞳には、林とは反対側にある景色が広がっていた。
慣れた自宅では必要ないが、外出時は必ず使う、視力だけの千里眼。その心の目には、いつも自分がベルダージュ荘から眺めている景色が、鏡に映したように左右逆さまになっていた。
海面は遠くのほうで宝石のように乱反射している。はるか彼方にはマッチ箱みたいな、煉瓦造りの自宅。眼下にある霞のような湖には、様々な建物が立ち並ぶ、ミニチュアの街並み。
あまりの光景に、崇剛の思考回路は一時停止した――。
「なんて、美しいのでしょう。反対側……別の方向から物事を見ることは、素晴らしいことなのかもしれません」
後れ毛を包帯のまいた手で耳にかけ、感嘆のため息をもらす。
「人は同じ方向から物事を見るという傾向がとても強いです。ですが、双方から見ることが常にできる方もいるのかもしれませんね」
そこにはどんな可能性の導き出し方があるのだろう。そう思うと、崇剛は魅惑のめまいに足元がふらつき、いつの間にか光る水面の上に仰向けに浮かんでいた――。
ゆらゆらと波紋は広がるのに、自身の体はそこにとどまったまま、それでも動いているように錯覚する。
目を閉じて、数字という美しい世界に身を任せる。曖昧なものなどない、答えがそこに必ずある規律。耳元で水の動く音が癒しを与える静かな泉だったが、突然、チャポンと水音が響いた。
何か起きたのかと、崇剛がまぶたを開くと、煙る景気の向こうに、白い服を着た誰かが立っているようだった。
ふたつの波紋が広がり、お互いの揺れをまたいで相手に届かせる。打ち消し合うことなく、心地よいワルツでも踊るように、シンクロし続ける。つながっているようで、いないような微妙でいて親密な関係――
止まっていた歩みが動き出すと同時に、冷静な頭脳もリフレッシュされて稼働再開だった。
ラジュ天使は、恩田 元と話している途中で席をはずして以来、戻ってきていません。
瑠璃は昼間は眠っています。
ですから、私一人で三沢岳へ行き、千里眼を使って状況を見極め、屋敷へ戻ってきてから、瑠璃に審神者をお願いしようと思っていたのですが……。
自ら行きたいと言っています。
昼間に瑠璃が起きていたことは今まで一度もありません。
おかしいです。
ですから、私は情報を得たいのです。
従って、涼介と瞬も同行させたのです。
聖女がもたらした執事と子供を巻き込んだピクニックは違和感の嵐という名だった。奇妙な一行は三沢岳の山頂を目指して、登ってゆく。
ロングブーツの足が乾き切った土を踏み損ね、ずずっと滑り落ちた。思わず膝をつき、崇剛の体はバランスを崩して、転落防止用の柵を反射的に手でつかみ、
「っ!」
聖なるダガーの柄が、いつもより近くにいる太陽の光を浴びて、鋭いシルバー色を瞬かせた。
しかし、優雅な策略家の受難はこれだけでは終わらなかった。
――出発の準備を終え、ピクニック気分の三人と、情報を収集したい策略家を乗せ、リムジンは順調に走り出した。
中心街を抜け、三沢岳の山道を登り始めた。座り心地のよいシートへ身を預けながら、千里眼の持ち主――聖霊師は神経質な手をあごに当てていた。
転落現場は、国立氏の言葉から、
「三沢岳のハイキングコース。山頂近くの東側だ」
従って、そちらまで自動車を使って、登ればいいという――
いかに合理的に仕事をするかを考えている崇剛。隣に座っていた聖女が顔を向けて、思考中に話しかけたが、ずいぶん落ち着きがなかった。
「崇剛、今いつ時かの?」
「そうですね……?」
崇剛は考えているふりをしながら、冷静な水色の瞳をついっと細めた。聖女は霊界の人間で、永遠の世界で生きていて、時刻を気にしたことなど今まで一度もなかった。
当然、崇剛に時刻を確認することなど、生まれてこの方一度もなかった。
いつもと違うことが起きている――。それは何か対策を練らないと、危険になる可能性を含んでいるということだ。
非常に大きな何かが動いているという可能性が38.98%から上がり、54.78%――