心霊探偵と心霊刑事/1
黄ばみが目立つ部屋――聖霊寮。
四月にしては暖かめの風が入り込んでくるが、死んだような目をしている人たちに、穏やかさは一瞬にして奪われていた。
衝立の向こうにある、応接セットの茶褐色のソファーに腰掛けている、優雅な貴公子――聖霊師だけが浮いた存在だった。
瑠璃色の上着を膝の上へ置き、怪我をしている右手を隠したまま、腰元では今はうまく使うことのできない、聖なるダガーの柄が鋭いシルバー色を作り出していた。
誰にも見えない死角で、細身の白いパンツのポケットに手でそっと触れ、崇剛は迫ってくる数字を読んだ。
十三時十四分十七秒――。
治安省へ到着したのは、十三時五分五十八秒――。
かちゃかちゃと金属の鳴る音が近づいてきて、シルバーリングだらけの手から、埃で白く濁るローテーブルへ、カードゲームをするように、五枚の顔写真が崇剛の前へすうっと滑ってきた。
国立に事件資料を見せてほしいと頼んで、すぐの対応だった。この男はいつもそうだ。自分とは違う方法で、どうやら予測しているらしいと、崇剛は感心するのだ。
最後の一枚は、おごってもらった紅茶の缶へ当たり、少しだけ角度が傾いたが、あとは見事なまでに、真正面を向いて、崇剛の前のテーブルへ並んだ。
冷静な水色の瞳で、左側からよく見始めようとすると、テーブルを挟んだ向こう側のソファーへ、ジーパンがどさっと陣取った。
ガサツな声が態度デカデカで、挑戦状を叩きつけてきた。
「どいつがどいつだ? 当ててみやがれ」
写真から視線を上げると、中性的な雰囲気の水色の瞳と、男らしく鋭いブルーグレーの瞳がぶつかった。
事件の情報を得にきた崇剛は、いつもなら右手を出すのだが、怪我を隠すため、左手を瑠璃色の上着から離し、口へ手の甲を当てて、くすくす笑い出した。
「おかしな人ですね、あなたは。なぜいつも、すんなり教えていただけないのでしょうね? 情報を」
「いいから、答えやがれ。お前さんの千里眼を見んのが、オレの趣味だからよ」
口の端をニヤリとさせ、くわえ葉巻から柔らかい灰がぽろっと床へ落ちた。
崇剛は一番左側にある、唯一男の写真に指先で触れる。
「恩田 元。四十二歳。七月十九日生まれ」
さっき、本人が戸惑い気味な上目遣いで、紙に書くのかと聞いてきた内容は、千里眼の持ち主には既にわかり切っていたことだった。
「ご住所は、庭崎市神座五丁目四十三番地五号」
国立は手元に残してあった事件資料で文字をなぞりながら、青白い煙を気だるそうに吐き出した。
二枚目の写真は、ショートカットで活発そうな笑顔の女。ずいぶん古い写真のようで、あちこち破れかけ、色褪せていた。
指先をアンテナにして、女の名前を読み取ろうとするが、さっきまでのようにスムーズにいかなくなった。
固有名詞は非常に読み取りづらいのです。
なぜなら、イメージなどの概念がないからです。
本や紅茶などのような名詞ならば、雰囲気で読み取ることができます。
ですから、引っかかる音を探します……マ、で始まるお名前です。
マリ……次に漢字へ変換です。
冷静な頭脳の中に丸ごと入っている漢和辞書を、脳裏の浅い部分へ引き上げ、パラパラとページをめくり、会ったこともない女の名前が、千里眼の持ち主から出てきた。
「恩田 真里」
年齢を読み取ろうとするが、崇剛は一瞬動きを止めた。
……2310……四桁。
人は生きても三桁です。
従って――
それが何を意味しているのかわかり、神父は祭壇の前で両手を組み、祈りを捧げるように目を閉じた。
尊厳を強く表意して、まぶたがすっと開けられると、優雅な声が不浄な聖霊寮の空気に舞った。
「没二十三歳、十ヶ月。六月三日生まれ。死亡時刻は二十年前の四月十二日、日曜日、十七時十六分二十五秒。転落死亡事故一件目、恩田さんの最初の奥様」
心霊刑事はカフェラテの缶を唇につけ、鼻でふっと笑う。
(死亡時刻まで言ってきやがる。それは、オレらも知らねぇことだぜ。事故が起きたあとに、治安省は動いてんだからよ。生きてる人間じゃ、お前さんしか知らねぇかもな)
崇剛はどこか遠くを見ているような瞳で、次の写真へ手をかけた。ソバージュの長い髪をした女が微笑んでいるものだった。同じようにして、あっという間に解析した。
「恩田 霧子、没二十五歳、七ヶ月。九月十日生まれ。死亡時刻は、十四年前の四月十一日、日曜日、十七時十六分十二秒。転落死亡事故二件目、恩田さんの二番目の奥様」
次々と出てくる、原因が同じ死亡事故。それでも臆することなく、何の感情も交えず、崇剛は次の写真へ手をかけた。ストレート髪の控えめな女が写っていた。
「恩田 涼子、没二十四歳、四ヶ月、十二月五日生まれ。死亡時刻は、六年前の四月十五日、日曜日、十七時十六分四十七秒。転落死亡事故三件目、恩田さんの三番目の奥様」
そうして、最後の写真へとたどり着いた。缶にぶつかって傾いていたものに、神経質な指先がかけられようとした時、崇剛の動きがふと止まった。
(死装束の女……)
浮かび上がる四桁の数字。向きを正しながら、芯の通った綺麗な顔立ちの女の写真が、涙で少しだけにじむ。
(間に合わなかった……)
崇剛は後悔する。霊体を切断されなければ、結果は違ったのかもしれないと。それでも、冷静という名の盾で、激情という獣は押さえ込まれる。
(もしも……という人生はありません。起きてしまったことを、後悔しても始まりません)
あんなに知りたがった死装束の女のデータを、崇剛はお悔みの心とともに口にした。
「恩田 千恵、没三十二歳、六ヶ月、十月二十一日生まれ。転落した日時は、四月十七日、日曜日、十七時十六分九秒。転落事故一件、恩田さんの四番目の奥様」
崇剛はいつの間にか、神秘的な光を放つステンドグラスの前に立っていた――。
荘厳なパイプオルガンの音色は、不浄を洗い流すように奏でられていたが、あたりはいきなり真っ暗となり、不協和音が爆風のように吹き荒び、
「早く助けて。私はもう……」
千恵のか細く悲痛の叫びが上がると、頭上から一筋のスポットライトが差した。まるで成仏するように彼女は吸い込まれ、消え去った。
冷静な水色の瞳で、血色のよい千恵の写真をじっと見つめていた。
(あちらの夢は人の死期を知らせるものなのです)
子供の頃はずいぶんと悩まされたものだ。もうすぐ死ぬ人がわかってしまうのだから。それを止める手立ては、人間である自分にはないのだから。
ただただ神の御心のままに、見ているしかできなかった。例え、それを告げたとしても、相手は怒り出すか、笑い飛ばすしかしない。
そのうち、うとまれるようになったのだ。今はもっぱら、自身のうちに留めておく、千里眼のひとつだ。
写真から読み取れるのは、助けを求めていていた女は転落事故であって、直接の死因ではない。聖霊師は細かい情報を知りたがった。
「千恵さんは何が原因で亡くなったのですか?」
「白血病だ」
不治の病と聞いて、崇剛はさらに質問を重ねようとしたが、国立が先制攻撃を放った。
「いつ死んだか当ててみやがれ」
挑むようなブルーグレーの鋭い眼光を、冷静な水色の瞳で真正面から受け止めたが、崇剛はくすりと笑った。
「仕方がありませんね。教えていただけないのですね、ご存知なのに」
いつもなら右手で、後れ毛をかき上げるのだが、上着の下から出すことは控えた。悪戯好きという光が、崇剛の目に密かに宿る。
様々な時刻に関するデータを必要な順番で取り出す。
「恩田 元は昨日の二十時過ぎに釈放されたと言っていました。本日十八時から通夜があります。そうなると、前日の通夜の開始時刻には間に合わない可能性が非常に高いです。従って、日付けは昨日の四月二十八日、木曜日です。病院から聖霊寮への距離から考えて、連絡が聖霊寮へ来て、恩田 元の釈放の手続きを取り、釈放した時刻が二十時過ぎですから、千恵さんが亡くなった時刻は――」
崇剛はあごに当てていた手をとき、優雅な笑みで国立を見つめ返した。
「昨日、十八時二十七分三十八秒前後ではありませんか?」
「ジャスト! 一秒もずれていやがらねぇ」
国立は勢いよく葉巻の灰を灰皿になすりつけたが、一言言ってやりたくなった。もっと簡単な方法があると。
「千里眼で見やがれ! ごちゃごちゃ頭で考えて楽しんでんじゃねぇ。てめぇ、エクスプロイダーだ!」
「えぇ、構いませんよ」
プロレスの技を振られたのに、聖霊師はしれっと了承した。国立の部下のように構えるわけでもなく、崇剛はソファーの上でロングブーツの足をスマートに組み替えただけだった。
刑事と探偵の緊張感は氷が溶けるように一気に緩む。
「元気そうじゃねぇか」
「えぇ、お陰さまで」
紅茶を一口飲み、崇剛はくすくす笑った。不浄な聖霊寮の空気を浄化するように。
ふたりはいつの間にか、血湧き肉踊るリングを眺める観客席に座っていた――。
歓声に紛れながら、アナウンサーが興奮冷めやらぬ感じで叫ぶ。
「エクスプロイダーだ!」
真っ白い人形がリングの上で揉め合っている。顔はへのへのもへじで、一人が相手の側面をつかみ取り、背中をブリッジさせて、リングへ沈めた。歓声に一気に火がつき、ギブアップのゴングが鳴り響く。
応接セットに座っている崇剛と国立が今ここで、本当に技を体現したら、大人気ない破壊が行われるに違いがなかった。
できない技を口走って、それに優雅に答えるという。心霊探偵と心霊刑事の非常にマニアックな――ふたりにしかわからない笑いがこの先々で、聖霊寮の一角で旋風のように巻き起こる。
ひとしきり笑い終えたところで、崇剛が優雅な声で情報収集に入ったが、
「聖霊寮にはたくさんの事件があります。なぜ、こちらの事件を選ばれたのですか?」
「バットなフィーリングがしやがったからよ」
してやったというように、国立は口の端でニヤリとした。さっきからずっと隠していた、包帯を巻いた右手を反射的に出し、崇剛は手の甲を唇に当てて、何も言えなくなり、彼なりの大爆笑を始めた。
「…………」
崇剛は国立の横文字攻撃に弱いのだ。肩を小刻みに震わせながら、笑っている崇剛の包帯を巻いた手を見つけて、国立は急に真剣な顔つきになった。
「それ、どうしやがった?」
上品に笑っているこの男は、可能性で全てを測ってくる。それは、他の人よりも慎重ということだ。それなのに怪我をしているとなると、何かがあったと勘づいて当然だった。
崇剛は急に笑うのをやめて、右手を左手で隠すように包み込んだ。冷静な水色の瞳はついっと細められていたが、優雅な笑みに紛れて、国立は気づかなかった。
聖女と愛のもつれで、怪我をした――。それが本当のことだ。
だかしかし、崇剛は国立の態度に小さな違和感を抱いて、嘘にならない別の言い方をわざとした。
「こちらは……ダガーの扱いを間違っただけですよ」
実際に、自身で選択した結果が、刃先を握るという行為だったのだ。まだ質問が飛んでくるようなら、刃に触ったのだと言えばいい。
いつも流暢に話してくる策略家らしからぬ、言葉の途中で詰まったような言い方だったが、国立は素知らぬふりで、ソファーにだるくもたれかかった。
「お前さんでも、失敗すんのか」
珍しく下手な嘘をつくと、国立は思った。同時にらしくないとも。霊界とつながるダガーで怪我をするとなると、勘の鋭い刑事には見当がついた。
(瑠璃お嬢と、何かありやがったな)
屋敷に住む執事でさえ、直感でたぶんそうだと気づいたことなのに、なぜか刑事が探偵のプラベートを知っている。
もちろんそれは、ふたりの表面上の言動には出ていない。しかし、崇剛はそんな些細なことが、0.01のズレとして気になるのだ。だからこそ、わざと曖昧な返事を返した。
「そうかもしれませんね」
今までのデータを並べると、国立の態度が重要な意味を持ってくるのだ。崇剛は慎重にことを進めようとする。
事件以外のことも、情報を引き出しましょうか。
国立氏は、私よりも年齢が六歳上です。
人生経験も豊富で、職業柄、心理的駆け引きにも非常に優れています。
ですから、涼介と同じ簡単な罠には引っかかりません。
従って、別の方法を取り、情報を手に入れさせていただきましょう。