紙切れと瓶の破片
明るく鈍い青緑――緑青色を基調にした、ベルダージュ荘の玄関前に伸びる石畳を、茶色のロングブーツは優雅に歩んでゆく。
幽霊との数々の戦闘をともに歩んできた、崇剛の足元を守る靴。代えはいくつもあるが、どれも勝利という勲章の傷を刻んでいた。
初夏を思わせるような風で揺らされた葉桜。隙間からキラキラと降り注ぐ太陽の光が、地面に明暗を作り出す。
その上を崇剛が進む度、ドアに四角く施された金色の装飾が小さくなる。主人のイメージカラーと言ってもいい瑠璃色の上着は左腕にかけられ、まるで余暇を楽しむ王子のようだった。
貴族的な真っ白な上下の服。袖口のロイヤルブルーサファイアのカフスボタンが、優美にアクセントとなっていた。
紺の長い髪を揺らしながら、冷静な水色の瞳に映り込む景色を眺める。歩みが進むほど眼下に現れるミニチュアみたいな街並み。
頭上には薄雲が絶妙なバランスで神が描いた鮮やかな青空。視界をさえぎるものは何もなく、霞みがかった遠くの山肌。
「――崇剛様、どうぞ」
黒いタキシードを着た初老の男が、黒塗りのリムジンのドアを開け、丁寧に頭を下げていた。
屋敷を取り囲むように植えられた樫の木が作り出した日陰の中で、主人は優雅に微笑む。
「ありがとうございます」
車へ乗り込もうと視線を落とすと、石畳に沿うように植えられていた、可愛らしいスミレの花と、ピンクの金平糖のような蕾をつけているカルミアの間で、白い小さな破片を見つけた。
(おや? 何でしょう?)
主人はリムジンへ乗り込むのを止め、血でにじむ包帯で巻いた手で、ここにあるには不自然すぎるものを拾い上げた。冷静な水色の瞳に映す。
(紙……みたいです。こちらにもあります)
もうひとつは、今度は利き手ではない左手で拾う。それは書き間違いをして、捨てるために、ビリビリに破いたようなものだった。
(……ちぎれているみたいです)
見送りの使用人と召使が両脇に控えている間で、主人はしゃがみ込んだり、手のひらを見つめていた。
「――何かございましたか?」
運転手からの問いかけで、誰にも見えない位置で、水色の瞳はついっと細められた。
(私にしか見えていないみたいです)
崇剛は顔を上げて、何気ない振りで首を横へ振った。
「いいえ、何でもありませんよ」
腰元で鞘から顔を出している、聖なるダガーの柄が鋭いシルバー色をあたりへ漂わせる。
主人にしか見えない、落ちている紙――七切れ全てをズボンのポケットへそっと忍ばせた。崇剛が乗り込むと、リムジンは門へ向かってゆっくり走り出した。
崇剛はリアガラスへと振り返り、少し青緑がかった自室の窓を見上げる。簡単に引き出せる膨大なデータの中から必要なものを取り出した。
自室の本棚。
上から三段目の左から七番目の本。
百八十七ページに記載されている術式――
崇剛は神経質な手でポケットから、さっきの紙切れを一枚つまみ出した。
そちらであるという可能性が23.78%――
新たな事実が自宅の庭に落ちていた。策略家は細い足を優雅に組んで、車窓にもたれ流れてゆく景色を目で追う。
リムジンは丘を滑り降りるように、舗装された道を走ってゆく。手入れが行き届いていないうっそうとした林から、時折咲き乱れる陽だまりが、崇剛の神経質な頬に降り注いでいた。
暗闇の迷路をランタンを手にして歩いているようで、他の情報という通路がいくつも伸びていて、どれが行き止まりで、どれが他とつながっているのか、知るために右に左に進んでは戻りを繰り返すが、照らし出せない通路があり、ゴールにたどり着くことはできなかった。
やがて、車は平地へと出た。新緑の絨毯が広がる田園風景。街外れで舗装されていない道を、ガタガタと走るたび、崇剛のシャツの中に隠されている、ロザリオが左右に揺れるを繰り返した。
殺風景だった車窓の外は、少しずつ建物が増えて、次第に人がちらほら歩いているのが見受けられるようになった。
ガス灯の細長い柱が、道路の両脇に迫ってきては過ぎてゆくを繰り返し始めた。リムジンは庭崎市の中心街へとうとう入った。
道路は当然混んでおり、さっきまでとは違ってスムーズに走れず、馬車などに合わせて、スピードはいくぶん鈍った。
崇剛は神経質な顔を車窓へ向け、冷静な水色の瞳に映った、流れ過ぎてゆく光景を記録し始めた。
富裕層しか所有していない自動車。街を歩く人たちは物珍しそうに魅入り、子供などはあとからはしゃいでついてくる。
しかも、崇剛が所有しているのはリムジン。よほどの大富豪でないと乗れない代物だ。一生に一度見ればいいほどの貴重なもの。
故ラハイアット夫妻は晩年病気がちで、その治療のために病院へ行く際に使用していたため、乗り込みやすいリムジンを購入した。それを、崇剛が相続したのだ。
しばらく、ゆっくりながらも景色は前から後ろへと、正常に流れていた。だがしかし、ある場所でまったく動かなくなってしまった。交差点と交差点の間で、迂回の効かない道。
右ポケットに入ったままの懐中時計に、神経質な手を軽く当てる。
十二時十七分十八秒――。
私の導き出した可能性はあっていたのかもしれませんね。
崇剛は車窓から街の風景――店の位置を見極め、自身が今どこにいるのかをデータから拾い上げた。
中央通りの北から五番目の通り。
東西へ伸びる一番大きな通りの交差点まで、信号はあとふたつ。
今いる住所は、庭崎市世見三丁目十二番地二号〜三号。
座り心地のいいシートに身を預けたまま、ロングブーツの細い足を優雅に組み替えた。
本日は金曜日――
まったく動かない車窓から、斜め前に見える店先へ視線を立ち寄らせた。そこには、大きな木の樽の中に、ワインの瓶が倒されて積み売りされてあった。
店のショーウィンドーには、小さな値札がひらひらと風に揺れている。
屋敷で利用している酒店――
その時少しだけ、リムジンは前へ進んだが、すぐに止まった。崇剛の座っているシートと店の位置が横並びになる。ズボンのポケットに神経質な手を当てた。
現在の時刻、十二時二十五分十一秒――。
崇剛はいつの間にか、屋敷の自室にあるロッキングチェアをゆったりと揺らしながら、窓の外の景色を眺めていた――。
三月二十五日、金曜日、十五時三分五十六秒。
四月十五日、金曜日、十五時四分十七秒。
四月十八日、月曜日、十四時三十八分二十五秒過ぎ。
ドアはふとノックされ、ひまわり色の短髪を持つ、日に焼けた執事が顔をのぞかせ、困ったように話し出した。
「輸送の馬車が事故に遭ったらしくて、夕方までないんだ」
――崇剛の脳裏から自室は消え去り、冷静な水色の瞳は酒屋のショーウィンドを見つめていた。
以上の三つの日付で、涼介が私に言った言葉――
全て同じことが起きているみたいです。
これらが、金曜日に起きるという可能性は……。
関係しているものを全て考慮すると、78.07%――
なかなか動かない渋滞。このままでは、治安省につく時刻が遅れてしまうと思った運転手は、主人へ振り返った。
「崇剛様、次の角を右へ曲がりましょうか?」
迂回路の提案だったが、崇剛はきっぱりと断った。
「いいえ、こちらのままで構いませんよ」
ズボンのポケットの中で少しずつ刻む懐中時計を、千里眼で読み取る。
現在の時刻、十二時三十四分二十七秒。
こちらの道を通らないと、情報収拾できないかもしれません。
港近くの倉庫から、こちらの店への最短距離――。
ふたつ先の交差点を右折する――です。
車はしばらく同じ場所に止まったままだった。崇剛は神経質な手をあごに当て、冷静な水色の瞳を車窓へ向け続けていた。
自身から見えない前方を見ながら、何やら話している街頭の人々や、店から出てきた人たちが興味津々な顔をやっているのを観察する。
あごから時折り手をとき、紺の後れ毛を耳にかけたりしているうちに、リムジンは少しずつ進み、聖霊師が待ち望んだ交差点までとうとうやって来た。
現在の時刻、十二時四十七分十五秒。
場所は世見二丁目交差点。
瑠璃は今眠っています。
ラジュ天使は他のところへ行っていていません。
ですから、審神者を同時にすることはできません。
従って、正しい情報を得られる可能性は、いつもより低いです。
しかしながら、見たものは覚えておきましょう。
長い髪が少しだけ揺れると、瞳というレンズに様々なものが映り込んだ。
激しく壊れた馬車二台分の残骸。割れた瓶から流れ出た液体。その向こうで、言い争っている男が二人いた。
治安省の制服を着た職員が計測したり、交通整理をしている場面が、崇剛の冷静な頭脳へ着実に記録されてゆく。
窓を開けると、春風が髪を優しくなでたが、騒然としている事故現場には雑音があふれていて、望む音は聞こえてこなかった。
崇剛は千里眼のチャンネルを開き、言い争っている男ふたりに合わせた。
「間違ってるのはそっちだろ!」
「いや、信号は進めだった」
「こっちもそうだ!」
言葉をリピートし始めた男ふたりの声を背景にして、包帯を巻いた手をあごに当てた。
おかしいみたいです。
どちらの信号も同じ――進む。
魂と肉体の声のズレはない――どちらも嘘を言っていない。
従って、霊によって幻を見せられた……という可能性が23.56%――
今度は別のチャンネルへ変え、見えている人がガラスのように透き通り、あの世の人影に照準を合わせて、首を動かさないまま、神経を四方八方へめぐらせる。
呪縛霊、地縛霊……ではないみたいです。
心の目が大通りの歩道にいる人々を縫うように浮遊してゆくが、はっきりとした人影はどこにもなかった。
見えません。
おかしい――。
事故は繰り返し同じ場所で起きているという可能性が87.65%――
ですが、こちらの場所に縛り付けられている霊は見えません。
そうなると、動くことが自由な浮遊霊、もしくは怨霊が原因――。
しかしながら……。
脳裏で流れていた幾重ものデータという川だったが、たった一列が正常に動いていなかった。冷静な水色の瞳はついっと細められる。
やはりおかしいですね。
別の場所で事故が起きても、おかしくありません。
なぜ、こちらの場所なのでしょう?
疑問が残る事件現場を通り過ぎると、リムジンは順調に治安省へ向かって走り出した。聖霊師の違和感を置き去りにしたままで。