主人は執事をアグレッシブに叱りたい/1
久しぶりに袖を通した瑠璃色の貴族服。腰元に下がる、聖なるダガーの重みは懐かしく、自室の深碧色をしたソファーへ沈み込んでいた。
茶色のロングブーツは赤い絨毯の上で優雅に組み替えされる。大きな楕円形のローテーブルには、鮮やかな強い青――花色の縁取りをしたティーカップがひとつ。
立ち上る湯気は柑橘系――ベルガモットの香り。アールグレーがリラックス効果を生み、落ち着きを与える。
ソファーとセピア色の丸い水面の間には、新聞紙が広げられていた。インクの文字の羅列。その奥から神経質な手がそっと伸びてくる。
かちゃっと音を立てて、カップが持ち上げられ、紙面の向こう側へ消えた。陶器の食器は少し柔らかい唇へつけられる。
開かれた窓には春の穏やかな日差しを受けた、レースのカーテンが寄せては返す波のように柔らかく揺れる。
ティーカップをソーサーへ戻して、新聞紙はめくられる、冷静な水色の瞳が見つめる先で。
その持ち主であり、紺の長い髪の奥にある全てを記憶する頭脳に、読む文字が滑るようにデジタルに記録されてゆく。
シュトライツ王国、民衆による暴動が勃発――
四月二十九日、金曜日。
わかっているのに、何度も見てしまう日付。新聞紙をテーブルへ置いて、組んでいた足をとき、崇剛は珍しくため息をついた。
目が覚めたのは、本日、三時十二分二十七秒前――
瑠璃と話をしてから再び眠りにつき、次に起きたのは、七時十四分五秒――
そちらより前の最後の日時は、四月二十一日、木曜日、二時十三分五十四秒――
懐中時計をポケットから取り出すこともしないで、崇剛は後れ毛を耳にかけ、真正面の青い抽象画を眺めた。
過ぎた時間は、八日と五十八分三十三秒――。
気を失っている間に、一週間以上が経過している……。
死装束を着た女の情報欲しさに、判断を誤った結果はあまりにも大きな代償だった。一週間もあれば、状況が変わる可能性が十分にある。
ソファーから優雅に立ち上がって、ロングブーツのかかとを鳴らしながら、崇剛は窓辺へと歩いてゆく。
右手に巻かれた包帯に視線を少しだけ落とすと、血がにじんでいた。
「刃先で自身を傷つけたあと……。瑠璃に聞きました。死装束の女は四月二十一日の夜には見なかった。そちらのあとも、邪神界の者が屋敷へ来たことはなかった」
包帯から窓の外へ目をやると、濃淡の違うデルフィニウムが春風にスイングするように踊っていた。
桜の木はすっかり花が散り、新緑が柔らかな色をさす。真下にある花壇には、マリーゴールドの華やかな山吹色が揺れていた。
窓辺に佇んだまま、崇剛はあごに曲げた指を当て思考時のポーズを取る。自身が消滅しかけた樫の木近くの芝生を眺める。
意識が途切れる寸前で見た、血のように真っ赤な目ふたつを崇剛は脳裏に浮かべながら、聞こえてきた言葉を一字一句間違えないように口にした。
「そう。魂の切断ってさ、放置すると消滅すんの。どこの世界からもいなくなる。本当の死ね。神様も戻せない。本当の死。輪廻転生も叶わないの。お前これで終わりね」
蝶がひらひらと風と戯れながら、部屋へと入り込んだ。
「死装束の女が最初に現れた日――四月十八日、月曜日、十七時十六分三十五秒――以降に霊視した時の男と同一人物である可能性がある。しかしながら……」
冷静な水色の瞳は蝶を追うこともせず、ついっと細められた。
「おかしい――。魂の消滅を説明していました。ですが、私は死んでいませんし、消滅もしていません。そうなると、以下の可能性が31.27%で出てくる」
言葉を一旦切った崇剛の長い紺の髪を、強い春風がビューっと揺らした。
「『終わりね』は、別のことを指している――」
いつでも記憶をスムーズに取り出せるように、崇剛はインデックスをつけようとする。思考しながら利き手を、ズボンのポケットに入れようとしたが、
「っ!」
傷口がぶつかって、うめき声が思わずもれた。神父は自室で静かに懺悔をする。
「冷静な判断を欠き、感情に流された私への、神のお導きなのかもしれませんね」
かなり深い傷で、不自由している千里眼の持ち主は、ポケットから浮かび上がってくる数字の羅列を読み取った。
(91235……九時十二分三十五秒)
その時、頭上を斜め上から、屋敷へ向かってくる小さな光のようなものを見つけた。
「何でしょう? 金色の光……。どちらへ向かっていくのでしょう?」
常人には決して見えるものではなく、千里眼を持っている者か、もしくは特殊な能力を持っていないと見えないものだった。
崇剛は驚くこともなく、その光の動きを心の目で追っていたが、ベルダージュ荘の屋根に吸い込まれるように消えた。
「こちらの屋敷へ入りました。どのような意味があるのでしょう?」
包帯で巻かれた右手をあごに当て、冷静な思考回路をすぐに展開する。膨大な量のデータが頭の中に流れ出し、一致するものをすぐに見つけた。
「私の寝室にある本棚――右側の上から二段目」
隣の部屋に今まさしく立っているように、崇剛は一冊の本を取り出し、ページを頭の中で開こうとする。
「隣国、紅璃庵――。そちらの国の古武術――合気。体の気の流れとテコの原理、そうして、心霊的駆け引きを必要とする護身術」
ページの端に視線を落としたまま、パラパラとめくってゆく。
「そちらの本の、百八十九ページに記載されていた。体の気の流れ――。部位によって、人の気の流れ――色、性質は違う」
医学書のような人体の絵が描かれたページをよく開いて、心の目でしっかりと見つめる。
「金の気の流れ……それは人を惑わすもの。その人のあたり一帯にオーラのようにかかる。もうひとつは直感――天啓」
パタンと本を閉じで、崇剛の冷静な頭脳は隣室の寝室から意識を戻し、結論づけた。
「今のは一直線でした。すなわち、後者であるという可能性が98.97%――」
四月の終わりにしては、暖かすぎる風を感じて、綺麗に晴れ渡った空のさらに遠くを見ようとする。
「直感――天啓を与えられるのは天使、神のみです。受けるのは人。屋敷で直感の働く人間……」
今日も十分な陽を受けられない、あの旧聖堂で悪霊と戦闘して倒れ、気がつくと寝室に横になっている。
何時間も放置されることなく、いつも無事で戻ってきている。こんなことが起きるのは、直感できる人物がいるからだ。
「涼介であるという可能性が一番高く、99.78%――。何かあったのかもしれませんね」
部屋へ振り向くために、茶色のロングブーツが床の上でねじれようとした時、ドアがノックされた。
「はい?」
「崇剛、今ちょっといいか?」
策略的な主人にとって、わかりやす過ぎるくらい、正直で素直な執事の声が廊下からやってきた。
「えぇ、構いませんよ」
崇剛はある程度の予測をつける。
(私に関係することを、直感したみたいです)
その胸の内はそっと隠しておき、細い指がドアノブを回し、手前へ引くと、いつもの元気はなく、気まずそうな顔をした涼介が立っていた。
「お前に……言ってなかったことがあった」
執事はドキマギしていた。
(さっき、伝えたほうがいい気がしたんだ。どうしてだかわからないけど……)
対する主人はどこまでも平常心で、冷静な水色の瞳から入ってきた、執事の全てを一瞬にして記憶した。
右手にメモを持っているみたいです。
従って、あちらのことを私に伝えに来たという可能性が97.67%――
困った人ですね、あなたは――
それはほんの一瞬で、執事に気づかれないように、主人は素知らぬふりで相づちをただ打った。
「そうですか」
背中で揺れる紺の髪で感じる。今も開け放ったままの部屋の窓から見上げた青空を。
天啓を受けている以上、今回の件は重要なことであるという可能性が98.87%――
同時に以下の可能性が出てきます。
誰かが死ぬ、もしくは邪神界へ行ってしまう。
そちらを、涼介は私に伝えなかった……。
冷静な水色の瞳に、悪戯好きな少年と同じ光が密かに宿った。
従って、あなたには懺悔――していただきます。
ことは重大かもしれません。
ですから、あなたには今までで、一番困っていただきましょうか。
そうですね?
まずは、こうしましょう。
ここまでの思考回路、約一秒――。今までになく、アグレッシブな罠の香りが思いっきりしていたが、それを悟られないように、策略家は標的を部屋へ招き入れる。
「中へ入ってください、話を聞きますから」
「あぁ、わかった」
涼介のアーミーブーツが無防備に主人の部屋に入った。崇剛はドアを閉め、それを背にして優雅に微笑む。
すると、カチャンという、鉄と木がぶつかり合う音がして、前を向いたままの涼介は異変を感じた。
(ん? 何の音だ?)
標的の横をロングブーツの気品ある歩みが通り過ぎ、涼介があとに続く。執事の気配を線の細い背中で感じながら、崇剛は今部屋の中にあるものをもう一度確認するのだった。
紅茶。
新聞紙。
ソファー。
包帯。
髪を束ねているリボン。
窓。
カーテン。
風。
絨毯。
右手の怪我。
涼介の手の中にある紙――
何をどう使えば、どう動くのか。つまりは、執事を懺悔させることができるのか。崇剛の脳裏であっという間に作戦は練られ、ドアからソファーへと歩く間に組み立てられた。
(これらで出来ること……。まずは、そちらの情報からいただきましょうか)
主人の歩みは紅茶を楽しんでいたソファーの手前で止まり、執事に振り返った。
「ソファーの左側へ、座ってください」
(右手を怪我している私が動きやすいように、左側へ座っていただきます)
感覚的な執事は腰掛けながら、手に持っていた紙をテーブルの上へ無造作に置いた。
(そちらに書いてある内容を見せていだたきます)
視力がかなり弱い崇剛からは、ただの白い紙にしか見えなかったが、千里眼を使って、一瞬のうちに冷静な頭脳へデジタル化して記録した。
そちらのお名前は……、
先週の、四月十九日火曜日、九時七分四十五秒に、初めての連絡をされた方です。
同日の十五時半に予約されていました。
しかしながら、約束の時刻になってもいらっしゃらず、連絡もつかない状態でした。
ですが、つくようになったみたいです――
素知らぬ振りで、執事と同じソファーの右側に、策略的な主人は座った。そうして、左側が涼介、右側が崇剛となった。
怪我をしていない左手で紅茶のカップを取り、崇剛は中性的な唇に近づける。
朝食時から五度も同じことを、涼介は私に聞いてきています。
そちらを、今でも聞きたがっているという可能性が78.65%――
こちらの質問をさせましょう。
次の私の言葉は、あちらにします。
こうやって、主人はわざと言葉を言わず、ベルガモットの香りをただただ楽しんだ。
「…………」
話を聞くと言ったのに、そんな気配のない主人。感覚で動いている執事はうっかり罠にはまって、朝から気になって仕方がない質問を、策略家の思惑通りしてしまった。
「その手、本当にどうしたんだ?」
心優しい執事は表情を曇らせた。
(お前が話さないなんて、おかしいだろう。朝から何度も聞いてるのに答えない)
聞いてしまいたかった。そうしたら、崇剛が取り乱すほどの心の傷が少しは癒えるのではないかと、涼介は思った。
(それって、瑠璃様と何かあってことだろう? 断られたんだろう、違うか?)
感覚的執事は直感を使って、主人の真相にそれなりに近づいていた。
しかし、崇剛と涼介は次元の違う場所を歩いているようだった。軌道の違う彗星のように近づいてはすれ違って遠ざかるみたいなズレ。
怪我の心配をしている執事の隣で、崇剛はティーカップをソーサーへ戻し、優雅な笑みを絶やさなかった。
(わかりやすい人ですね、涼介も。私が予測した通りの質問をして来ますね)
ロングブーツの細い足を軽く組み、膨大なデータが流れっぱなしの冷静な頭脳の持ち主は、わざと別の言い回しをして真の回答をさけた。
「盲目……もしくは、呪縛……それとも、拘束かもしれませんね」
(冷静な判断を下せず、心が彼女に縛り付けられ、今はダガーが使えないという身の不自由。ですから、嘘は言っていません)
そうして、策略家は執事を同時に罠へと誘い込んだ。
(ですが、涼介には勘違いしていただきます)