ローズマリーは踊らされて
漆黒の長い髪を揺らし、聡明な瑠璃紺色の瞳を持つ猊下は、高いところにひとつしかない窓から青空を毎日眺めていた。
教会へ王族の騎士団がやって来て、拘束された時からの日課だ。広い部屋はそれなりの調度品で整えられ、手錠も鎖もない軟禁状態。
どんな方法を使ってでもと言っていた陛下だったが、猊下にとってそれをさけられることは計算済みだった。
「What's the time?」
傷ひとつついていない体で、ポケットから取り出した懐中時計と、もうすぐ銀の線が空へ引かれ始めるのを仰ぎ見る。
「十一時十三分二十一秒。トゥーラシア大陸へ向かう飛行機がこの窓から見えるまで、あと……五、四、三、二、一。来た」
抜群のタイミングで、おもちゃみたいに小さな飛行機が斜め下から上へ進んでいき、漆黒の長い髪はゆらゆらと揺れ動く。
「紅璃庵行き。隣国は花冠国……。行ってみたいなぁ? どんなところだろう?」
以前、教団の書庫で暇つぶしに調べた外国。軟禁されている猊下の夢が小さな窓の向こうで、開放という自由の名で果てしなく広がる。
教祖とか、王族だとか、暗殺だとか、そんなしがらみはとりあえず脇に置いておいて、聡明な瑠璃紺色の瞳で、鳥になったような気分で空の青をしばらく見つめていた。
くるっと振り返って、壁に背中で寄りかかり、懐中時計の数字盤でカチカチと動く針を目で追う。
「食事が運ばれて来るまで、あと四十六分十九秒――」
雑誌もテレビももちろんない部屋で暇つぶしもなく、時計が遊び相手の毎日だった。
「ボクが逮捕された日から、今日で十三日弱……。つまり、今日は四月二十八日、木曜日」
四月十五日、金曜日。執務室の椅子に座って、騎士団との逮捕劇から、一週間以上経過している。
それなのに、猊下は無傷のまま、物事は何も動いていなかった。もともと背は高いほうだが、部屋にひとつしかない窓はかなり上のほうにあって、爪先立ちする。
「空が見えないのが残念。でも、午後は雨かな?」
携帯電話は没収され、天気予報を見ることも叶わない。それでも、猊下は空が気になるのだ。そうして、雲を読む。
「東の空で東西に伸びる雲ができてる。それは雨が降る前触れのひとつ。それから、四月二十八日の千年間の気象記録は、晴れのち雨が全体の98.92%。だから、雨が降るかも? そうすると、明日かなぁ〜?」
何かを待ちわびていると、ドアがノックされた。手に持ったままの懐中時計に視線を落とし、扉を視界の端で捉える。
「十一時二十一分十秒――。この時刻に人は来たことがない。何かあった」
――猊下の死角で、白いデッキシューズが絨毯の上で軽くクロスされた。すぐそばにあった鏡には凛々しい眉をした猊下の横顔が映っているだけで、赤い目ふたつはどこにもなかった。
時刻を確認することは、人に内緒にしておいたほうが何かと都合がいい。猊下はポケットに懐中時計をそっと隠した。
「どうぞ」
「失礼します」
騎士団の若い――二十歳前後の男が顔をのぞかせた。やけにあたりを気にしている様子で、素早くドアを閉めて、足早に近づいてきた。
聡明な瑠璃紺色の瞳には全てが映っていた。ひどく疲れ切った顔で、挙動不審。昼食前の人気のない時間帯の訪問。
有益な情報がもたらされる予感が漂っていたが、猊下は顔色ひとつ変えず、わざとこんな言葉を問いかけた。
「食事の時刻でも変わりましたか?」
「いえ、違います」
予想した通りのいい返事だった。カモフラージュというのはどんな時だって、大切だと猊下は思う。
「それでは、どうされたのでしょう?」
春風のような優しい口調が、拘束されているというのに平常心をわざと保っているように見えて、若い男は猊下が辛い想いをされているのだとひどく心配した。
「…………」
若い男は表情はとても暗く、血色がよくない。視線は絨毯の上に落ちていて、いつまで待っても話す気配がなかった。
「辛い想いをしているのではありませんか?」
白いローブに金の刺繍。ラピズラズリの腕輪が教祖という威厳を放っていて、魔除けのローズマリーが神聖を漂わせていた。
若い男はずいぶん驚いた様子で、言葉を吃らせた。
「ど、どうして、それをご存知なのですか? 『ダルレ』様」
その名は猊下の本名だが、厳密には違う。信仰の深いものが呼ぶ名だ。
猊下は目の前にいる青年を若いと思った。観察力がほとんどなくても、大抵の大人なら言い当てられると。
しかし、それさえも、神を信じていない猊下は利用するのだ。
「神がそのように私に教えてくださったのです」
「やはり、ダルレ様は神とお話しできるのですね?」
聞かれたが、そこは返事をせず、ダルレと呼ばれた男は教祖としての職務をまっとうしようとする。
「懺悔でしたら、うかがいますよ」
若い男は両膝を絨毯に落として、胸の前で手を握った。
「はい。実は……」
「えぇ」
猊下の春風のような穏やかな笑みに背中を押され、若い男は小声で話し出した。
「ダルレ様が拘束される前日、街の広場でローズマリーの落とし物を拾ったんです。落とした方はとても大切にされていると思い、上司へ届けたんです」
どこにどう話がつながっているのか明白だったが、猊下は好青年の笑みで「えぇ」と先を促した。
「そ、それが……こんなことに使われるとは思ってなかったんです。まさか、ダルレ様が拘束されるとは……!」
若い男は苦しそうに全てを懺悔し、絨毯の上に突っ伏した。猊下がそばへそっと腰を下すと、白いローブの裾が全てを穏やかに包み込むように広がった。
「そうですか。胸に秘めたままでさぞ辛かったでしょう」
ラピスラズリの腕輪をした手で、若い男の肩に優しく触れる。騎士団の制服を着た男は涙で濡れた頬を上げた。
「ダルレ様、どうかお逃げください」
猊下は少し寂しげな表情をして、首を横へゆっくり振った。
「私が逃げれば、他の信者に疑いの目は向きます。ですから、犠牲になるのは私一人で構わないのです」
慈悲深いという言葉が跪くほど、慈愛に満ちた教祖の前で、若い男は本当の神に出会ったような気がした。
「ダレル様はみんなを守るために、わざとお捕まりになったのですか?」
「えぇ」
多少の嘘は必要なのだ。猊下は春風のようにふんわり微笑みながら、デジタルに感情を切り捨てられるような厳しい人物だった。
――別次元で、ふたりの間に立っている白い服の男が、指先を顔の前に差し出すと、マスカットが現れた。シャクッと歯でかみ砕くが、甘くさわやかな香りは部屋には漂わなかった。
自分の善意が悪意に変えられ、教祖の身に影響を及ぼしている。若い男は耐えられなくなって、ダルレと呼ばれた男の手を握りしめようとした。
「それなら、なおさら逃げて――」
猊下は途中で言葉をさえぎり、聖職者であるように振る舞う。長い間、教祖やってきたのだ、このくらいは簡単にこなせた。
「いいえ、私はよいのです。神がいつか答えを与えてくださるでしょう。このことは言ってはなりませんよ。決して言ってはなりません」
「はい。ですが、ダルレ様の救出を何としても考えます。それまではどうかご無事で……」
禁止されると、人は破りたくなるものだ――。猊下はよくわかっていた。若い男は涙ながらにうなずくが、教祖という立場を装飾する白いローブを着ている、猊下のにらんだ通りに動こうとするのだ。
「無理をしてはいけませんよ。たくさんの人々の命がかかっているかもしれませんから」
猊下の瑠璃紺色をした瞳は今はどこまでも透き通っていた。
「はい、ありがとうございます」
若い男はすっかり涙も乾き、心の重荷からも解放され、誰にも知られないようにドアを出ていった。
猊下は懐中時計をポケットから取り出し、きっかり一分経ったところで、ドアから一番離れた場所までそっと歩いていった。
ぽつぽつと雨が降り始めた高窓を眺めるが、さっきまでの春風みたいな穏やかな雰囲気はどこにもなかった。
「国を治めるには世論を知ることが必要不可欠。王様と神様の前で、国民が自身の気持ちを正直に話すのは、どっちのほうが可能性が高いのかな? つまり、世論を正確に知ってるのは、the King or I?/国王と『俺』のどっちかな?」
猊下の一面が垣間見えると、雷光と雷鳴があたりを引き裂くようにとどろいた。まるでどこかの黒幕が謀をして、密かにほくそ笑んでいるような、戦慄を感じさせる声色で話していたが、
「半年間、証拠はどこにもなかった。ローズマリーの落とし物はよくある。偶然……じゃないかも? ふふっ」
最後は春風みたいな穏やかな響きに変わった。可愛く小首を傾げて、漆黒の長い髪が肩からさらっと落ちた。その仕草は、悪戯少年みたいに無邪気なものだった。
ソファーに気ままに身を投げて、雷雨になってしまった空を見上げる。寝転がった姿勢で、いつも口にしていたものが急に恋しくなった。
「お菓子ほしいなぁ〜。言ったら持ってきてくれるかな?」
空に隙間がないほど雨が降り出して、ザーザーと耳に押し寄せる雨音は徐々に強くなって、全てがかき消されそうになった。
――鉄の大きな塊が部屋を横に飛んでゆくと、時が止まったように音がなくなった。建物と同じ高さを走っていた車も、離陸した飛行機も、歩行者も何もかもが動かなくなった。
そんな世界で、山吹色のボブ髪はかき上げられ、半分かじってあったマスカットは綺麗な唇に放り込まれた。
赤い目がふたつ、猊下が寝そべっているソファーの後ろで、無機質に今の出来事を見極める。
「見当違いの質問をする――。そうすると、相手って構えなくなりやすいのね。それって、一個質問すれば十分なの。出ていったやつ、何の疑いもしないで、ただ否定したでしょ? それって、こっちを警戒してないって判断材料になるよね」
漆黒の長い髪を持ち、神は信じていないと言いのけ、その時々で言葉遣いを使いわける男を見下ろして、胸にかけたドクロのペンダントを手のひらですくい上げる。
「こいつの話は無駄がないの。能ある鷹は爪を隠す――ってやつね」
ペンダントから手を離し、男はナルシスト的に微笑んだ。
「世論の操作。頭いいね。でもさ、そうやって考えちゃうと、こっちに筒抜けなんだよね」
ひとつダメ出しをして、鉄の塊が男へ向かって戻ってくるのを、片手をかかげて待ち受ける。
「だから、俺忙しくなっちゃってんだけど……。これ改善しないとダメね」
ガシャンと重い金属がすれる音がすると、漆黒の長い髪はサラサラとソファーの上で揺れ、瑠璃紺色の瞳は横向きの部屋を昼食を待ちながら眺めていた。
時が止まっていたことさえ、誰も知るものはいない世界は何事もなかったように動き出したが、赤い目をした男はもうどこにもいなかった。