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心霊探偵はエレガントに〜karma〜  作者: 明智 颯茄
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Meaning of dreams

 ピンと張り詰めていた空気に、天命という落雷を受けたような衝撃が走った。


 バッハ トッカータとフーガ ニ短調――。


 荘厳でいて、神秘的なパイプオルガンが爆音でにわかに鳴り響いた。

 天国から地獄へと真っ逆さまに転がり落ちてゆくような、あの有名なメロディーライン。


 青一色の濃淡だけで風景は広がっていた――。


 夜でも昼でもない、動きも息吹も感じられない空。葉が枯れ落ち、枝や幹だけの木々は寒々と成長を留めて、絶望の呪いでもかけられ、ただそこに立ち尽くしているようだった。

 目に見えない何者かが手を加えたような偽りの世界。

 どこまでも続く静寂の中で、時の流れは異常だった。乾いた音が響くのに、風景の動きはスローモーションでひどいズレが生じて狂っていた。

 

 内側に流れるメロディーラインは今も正常で、パイプオルガンの不協和音がエスプレッシボ[脚注]。

 伸びきっていた音が終わると、旋律が鋭く連打で紡がれ始めた。


 ――走っている。

 息を切らしながら、ひたすら走っている。

 

 濃藍色の枯れ葉をせわしなく踏んで、一人で走っている。

 何かが後ろから迫ってくるような緊迫感が前へ前へと無防備に進ませる。


 逃げなければ……。

 その想いばかりが空回り。

 何から逃げているのかも忘れている。


 それでも、とにかく逃げなければと心は駆られるのだ。

 じりじりと下から炎に炙られるような焦燥感。


 ズックを履く小さな足と手で必死に走ってゆく。

 視界はとても低く、体は軽い。

 白いシャツと黒い半ズボンに身を包んでいる。


 カーカーとカラスが不気味に鳴く声がかぶさる。

 木々の間をバサバサと飛び回る。

 黒い生き物の目は血のように赤かった。


 自分の小さな口から、大声が飛び出す。

「お父さん! お母さん!」

 凍てつくような寂しさが胸をしめつける。

 幼い声を客観的に聞いている、もうひとりの自分が思う。


 私はまた、あちらの夢を見ている……。


 小さな体で、枯れ木ばかりの林の中を必死に走ってゆく、顔も知らない両親を呼びながら。

 腰に下げてあるダガーの重みは、今よりも重厚に感じられた。頬を切る風は奇妙なほどない。

 時の流れは未だに不規則だった。まわりは正常に動いているのに、自分の動きだけが印象的なほどまでにゆっくりだった。

 大きな木の横を抜けようとすると、地面の上に張り出していた木の根っこに、小さな足を引っかけもつれ、

「っ!」

 そのまま、落ち葉だらけの地面に突っ伏した。どうやっても、いつもここで転ぶ。

 しかし、無痛なのだ。顔を上げ、さっと立ち上がると、視界はさっきと違って、高くなっていた。

 いつの間にか、瑠璃色のタキシードを着て、茶色のロングブーツで枯れ葉を蹴り上げながら進んでいた。

 上質なブラウスの下には、ロザリオの重さが体が上下に揺れるたび、しっかりと感じ取れる。

 未だに流れ続ける、パイプオルガンの音色は足鍵盤が奏でる低いものだけに変わった。いつもの自分の背丈になり、もうひとりの自分が思う。


 こちらからが変わってしまった……。


 相変わらず、どこかへ向かって走ってゆく自分の足。

 だが、心の片隅ではどこに向かってゆくのか知っている。


 腰元に下がっているダガーの重みは、いつも通りになっていた。茶色のロングブーツは大人のサイズで、瑠璃色の貴族服の上着が走る反動で、裾がふわりふわりと舞い上がる。

 足が蹴り上げられるたび、濃藍色の枯葉が踊り続ける。カサカサと乾いた音は正常なのに、どんなに急ごうとしても手足は早く動いてくれなかった。

 体の内側で鳴り響く音色はキンキンとした高いものになり、同じメロディーラインをなぞっては、不意に違うものへと変わり、次々に移りゆく嵐のような楽曲の中だった。

 遊線が螺旋を描く優雅で冷静な声が、あたりに悲痛にひずむ。

「瑠璃さん! 瑠璃!」

 呼び名と感情がすり替わった。寂しさは愛しさという、大人の感情へと取って代わって、心の内で痛みをともないながら綺麗に咲き誇る。


 紺の長い髪をなびかせながら林の中を走ってゆく。現実とは少し違っているが、それはよく知っている風景だった。


 私が拾われた場所、旧聖堂。

 何度も、私は足を運び……。


 そう思った時、まだ蝶番がはずれていない古びた木の扉が目の間に現れた。神経質な両手を伸ばし、それを押し開ける。

 全て息を吹き返したように、中には鮮やかな色が正常に広がっていた。宝石を敷き詰めたような綺麗な、ステンドグラスが聳え立つ空のように浮かぶ。

 中央の身廊には、優美な赤い絨毯が真っ直ぐ伸びている。左右には穏やかな光を発している栗皮色の参列席。上下に貫く神聖なる気配を帯びた聖堂――。

 パイプオルガンの音色ねいろは自身の居場所で堂々と漂う。音色おんしょくを変えるストップレバーが一瞬にして、奥と手前へ動き、高く硬い響きへと変化メタモルフォーゼ


 そうして、真正面奥の祭壇の上には、漆黒の髪を持ち、白と朱を基調にした巫女服ドレスの聖女が厳粛なる面持ちで待ち構えていた。

 茶色のロングブーツは絨毯の上を足早に通り過ぎてゆき、あっという間に祭壇にいる少女の前へとたどり着いた。

 歩みをさっと止めると、長い髪と優雅な貴族服が反動で、一旦前へ浮き上がり、重力に逆らえず、床と垂直の位置へゆっくりと戻った。

 自分の背の高さと同じ宙に浮かんでいる聖女。彼女の瞳は少女らしいくりっとした若草色で、そこに映った、恋に落ちた神父をのぞき込んだ。

 夢の中ならば、触れられるという衝動に駆られ、むさぼるように両腕で少女を強く抱きしめる。

「瑠璃さん、愛しています」

 願ってやまなかった、聖女の温もりが胸に頬に広がる。愛おしさが心からあふれ、神経質な頬に一筋の涙が伝っていった。

 その時だった。聖堂にふさわしいパイプオルガンの音色が激変し、


 ガジャーンッ!


 と、耳にまとわりつくような破壊音を生み出したのは。

「っ!」

 反射的に思わず息を詰まらせると、あんなに美しい旋律は鳴り止んでいた。いつも夢はここで終わる――。

 聖女を愛することが破滅へと向かってゆく未来を予期させるような幕引き。


 しかし今日は違った。

 胸の中にいた少女はゆらゆらと揺れ、青白いものに変わった。

「っ!」

 異変を感じて、両腕を慌てて離し、後ろへ一歩下がると、真っ白い着物――死装束を着た女にすり替わっていた。

 美しい顔立ち。虚な目で自分を見つめ返してくる。

「早く助けて。私はもう……」

 消え入りそうな、か細い声が揺れたかと思うと、頭上からスポットライトのような光がにわかに降り注いだ。

 死装束の女はその光に飲み込まれるように包まれる。


 遅かったのかもしれない……。

 こちらの夢の意味は……。


 ロイヤルブルーサファイアが止まるカフスボタンを追うように伸ばしたが、女は光に紛れるように消え去った。手の届かないところへ行ってしまうように。

 そこで、何もかもが途切れ、本当の闇と静寂の底へと真っ逆さまに落ちていった――――

[脚注]音楽用語、表情豊かに

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