血塗られた夜の宴/3
目の前にいる悪霊ふたりに向かって、左右の手を中央へ寄せるようにして、ダガーを投げ放った。
「ギャァー!!」
ふたつの青白い幽霊は隣り合わせでくっついたまま、崇剛から猛スピードで離れ始めた。
ズバン!
同時に庭の樫の木に刺さった時、後ろから襲いかかったもうひとりの悪霊に、崇剛の右手は自由を奪われた。
ダガーを抜く暇はなく、冷静な水色の瞳がついっと細められる。
(こちらはいかがでしょうか?)
やったことのない動きが再現できるかの情報を手に入れようとしている策略家。少しだけ上半身を前へかがめると、紺の後れ毛が崇剛の神経質な頬を、重力に逆えずするっとなでた。
左足だけで地面に立ち、反対側の足を芝生から離しざまに、後ろへ向かって素早く上げた。
国立が牢屋を後ろ蹴りしたように、膝を伸ばして足の平を背後へ勢いよく押し出した。幽霊の腹に崇剛のかかとがめり込み、ロングブーツの先でバックキックが見事に決まり、
「グハッ!」
地面の上で土煙を起こしながら、悪霊が吹き飛んでゆく。屋敷の壁――瑠璃とラジュが張った結界に、
ドジャーン!
と派手にぶつかって、衝撃で悪霊は一度壁から弾み、
「グフッ!」
そのまま、地面にどさっと崩れ落ちた。優雅な神父は横目でそれを見て、嫌悪感にも似た違和感を覚える。
「慣れませんね、足で人を蹴るというのは……」
崇剛の細い足が芝生の上へ戻ると、瑠璃色の上着の裾も地面と垂直になるように揺れ動き止まった。
樫の木に未だ宙吊りになっている幽霊たち。そこから風船のように黒い影が浮かび上がっているのを、冷静な水色の瞳に映す。
(邪神界であるという事実として、100%確定です――)
様々な数字が崇剛の脳裏で変化を遂げる途中で、青白い幽霊が次々に顔から現れ始めた。
あっという間に囲まれてしまった。数々の戦闘をくぐり抜けてきた崇剛には、予測ずみで勝算はまだまだあった。千里眼の持ち主の精神を狂わせるように、悪霊たちは口々に言う。
「返して……」
「返して……」
恨めしげな瞳で、おかしな方向へ首を曲げたまま、ゆっくり動いていたかと思うと、いきなり素早く手を伸ばすを繰り返す。
大量の悪霊たちの言葉を、崇剛は冷静な頭脳に焼き付けた。
何を返して欲しいのでしょう?
そうですね……あちらであるという可能性が非常に高い――
鞘からダガーを人差し指と中指で挟み抜き、自分へ向かってくる青白いたくさんの手を的確にさけ続けてゆく。
――千里眼の持ち主でも見えないどころか、気づきもしない、真っ白な服を着た男が屋根の上に立っていた。月明かりに大鎌の刃元が鋭く光る。
「そう」
風に揺れるボブ髪の奥から赤い目がふたつ、無機質にただ見ている。神に身も心も捧げた神父が追い詰められてゆく様子を。
崇剛が履いているロングブーツのかかとは、芝生の上を少しずつ後退してゆく。それでも、冷静な頭脳は正常に稼働中だった。
未だ上空に浮かんだままの死装束に身を包む女を、氷の刃という名がふさわしい水色の瞳でうかがう。
死装束の女が言った『助けて』
悪霊が言った『返して』
死装束の女は手を下していません。
物事がいくつか重なっているという可能性が出てきた――
そうなると、死装束の女は邪神界であるという可能性は下がり、50.00%――
すなわち、振り出しに戻ってしまった。
――崇剛の背後にある屋根に立つ男。天使の証である光る輪っかも立派な両翼もなく、彫りの深い淡麗な顔立ちは、死神みたいな風貌で裸足のままで、血も涙もないという言葉がぴったりだった。
「いらないやつは殺さないとね」
神羅万象なのに、あらゆる矛盾を含んだような声が一人きりの世界に響き渡る。それを聞き取るものは今はどこにもいなかった。
他の霊が発する念が邪魔をしているのか、死装束の女の青白い唇が動いても声は聞こえず、崇剛はチャンネルを変えたが、同じだった。
(そうなると……)
命を、メシアを奪おうと、引っかくように伸びてくる手をダガーで防ぎ続ける。
(邪神界に邪魔をされている……。もしくは罠……。それとも別の何かがある。どちらなのでしょう?)
慣れた感じで握った柄に左手をかけ、ずらす仕草をしてダガーを分身させる。悪霊の弱点を狙い刺し、右へ左へと体をねじりながら、結界のある館の壁へ次々にダガーごと悪霊を投げ、磔にしてゆく。
時おり庭にある樫の木へ向かって投げつけ、邪神界の証である黒い影を、次々に浮かび上がらせる。
しかし、ラジュと引き離されている今、悪霊は浄化できないままだった。
聖霊師の内側に流れる聖なる声は、月夜の元で終焉と再生という、相反するものを歌い続ける。
Sors immanis/畏敬の運命。
Et inanis/虚ろで。
Rota tu volubilis/輪廻転生に踊らされ。
Status malus/行いは邪悪。
Vana salus/空虚な救い。
Semper dissolubilis/その糸は儚く脆い。
磔にしても別の悪霊がダガーを引き抜き、解放してしまう。倒しても倒しても数が減らない、悪循環へと崇剛は陥れられてしまった。
――屋根の上で今も見ている男の指先に、突如マスカットが現れた。しゃくっと歯でかじると、甘くさわやかな香りが漂った。シルバー色の線を描き続けるダガーの軌跡を、赤い目で見物する。
「ね? レプリカだからいいけどさ、オリジナルだったら相手も使えちゃうから、あいつもう殺されちゃってるね。そうね? 劣勢。いいね」
男にとってことは順調に進んでいるようだった。
崇剛が悪霊を封じる場所は、背後にある屋敷の壁と前方にある樫の木だけ。庭での戦闘で空間をさえぎるものがなく、かなり不利な戦場と化していた。
次々に放つダガーからの反動で、ターコイズブルーのリボンでもたつかせて結んでいた、紺の髪が背中にぶつかっては離れるを繰り返す。
後れ毛が神経質な頬に、艶やかに絡みつくがそれを振り払う暇もなかった。
(困りましたね。数が多すぎます。私ひとりでは対応できないかもしれません)
戦闘に参加せず、未だ上空に儚げに浮かんでいる、死装束の女を上目遣いに見た。
(これほどの人数が関係しているというのは、通常では考えられません。過去世で何があったのでしょう?)
腰に刺してあるダガーひとつを残して、左右両方の短剣で悪霊を刺し、体を左にひねり、屋敷の壁と樫の木と両方へ向かって、それぞれ左右一直線に同時に離し、武器がちょうど手の中になくなった。
その時、不意に左側から突風が吹いてきた。崇剛はそれを防ぐために、左腕で反射的に顔を覆う。
その動きと風の力で、瑠璃色の貴族服の裾が舞い上がり、聖なるダガーが薄闇に鈍い光を放ちながら、くっきりと輪郭を表した。
嵐の前の静けさのように、同じメロディーをさっきからずっと続けている聖なる歌声。
Obumbrata/陰に隠れて。
Et velata/ベールで覆われ。
Michi quoque niteris/月影は重くのしかかり。
Nunc per ludum/今は戯れに。
Dorsum nudum/赤裸な重荷に。
Fero tui sceleris/感情に流されず 悪に立ち向かえ。
静かで小刻みな調べが終わり、変化をもたらそうとした時、左腰に異変を感じた。それを見極めようと、崇剛は左に体をねじる。
顔をかばっていた腕を下ろそうとして、冷静な水色の瞳に映ったのは、後ろ蹴りしただけで、地面に伸びていた悪霊が気を取り戻した姿だった。
密かに背中まで近づいてきていて、青白い手が聖なるダガーの柄を握っていたのだ。
――赤い目をルビーのように月影にきらめかせている男が予測していたように、オリジナルのダガーは敵の手に渡りそうになって、崇剛に危機がやってきてしまった。
「そう」
無機質なほど無表情のまま、男は機会がめぐってきたというように、大鎌を頭上高くにかかげた。
崇剛は腰元へ慌てて手を落としたが、柄にかすかにかすった刹那、無情にも武器は敵へ持っていかれた。
(斬られる……!)
悪霊のダガーを持つ手は勢いよく振り上げられ、切り裂くように下され始める。
自分へ向かって来るダガーの刃の鋭い光を、冷静な水色の瞳いっぱいに映しながら、精巧な頭脳の持ち主はそれでも、焦ることなく、感情に流されることなく、迫りくる事実と対峙する。
カラになってしまったダガーの鞘を感じながら、天文学的数字の膨大なデータを脳裏に流しつつ、今必要なデータを抜き出す。
(国立氏の趣味。瑠璃の現れ方。これらから判断して、そちらの方法が勝つという可能性が非常に高い!)
全てを記憶する頭脳を駆使して、肉体を持っている時には決してできない動きを弾き出した。
ダガーを振り下ろそうとしていた幽霊の前にあった、線の細い崇剛の背中は一瞬にして消えた。
悪霊がキョロキョロしていると、その後ろに優雅に微笑んでいる策略家が、ロングブーツの足をクロスする寸前の、細身をさらに強調させるような出で立ちで、すうっと現れた。
風が横へ吹き抜け、紺の長い髪がサラサラと斜めに泳ぐ。
(瑠璃の動き、瞬間移動です。さらに……)
貴族服を着た崇剛は両手を握って、ボクサーのように胸の前で構えた。すると、神経質な指には太いシルバーリングが輪郭を表した。拳にはめて使う武器――ナックルダスターを思わせる金属たちが六つ。
水色の瞳はデジタルに冷静という色を失くし、鋭い眼光にとって変わった。崇剛は鼻でふっと笑い、口の端を歪めて吐き捨てるように言う。
「――れで、ノックアウトってか?」
――屋根の上にいた男は大鎌をかかげたまま、山吹色のボブ髪をかき上げた。
「そう、モノマネね。うまいね」
お褒めの言葉が聞こえない次元でかけられているとは知らず、崇剛は心の中で違和感を強く感じる。
(非常に言い慣れませんね、こちらの言葉遣いは)
悪霊に囲まれている状況下で、国立の真似をして、笑いを取るほどの余裕を持っていた。
策略家の罠が一重なはずがなかった。冷静な水色の瞳は至福の時というように、ついっと細められる。
シルバーリングのはめられた神経質な細い手が、乱れた後れ毛を優雅に耳へかき上げた。
私は事実から可能性を導き出す。
どんなにゼロに近くても可能性は可能性です。
急激に可能性が99.99%に跳ね上がることはよくあります。
ですから、自身の勝手な判断や感情で、可能性を切り捨てない。
従って、膨大な不確定要素がデータとして、私の中に常に残ったままなのです。
国立に出会った日から時刻、国立の言葉が一字一句違わず、自身がそれに何と返したかまで、順番が前後しないまま着実にデジタル化されていた。
崇剛の冷静な頭脳の中を、国立のデータが流れ始めるが、悪霊たちと戦闘中のため、全て指示語で再生されてゆく。
あちら、こちら、そちら……。
国立氏がおっしゃっている、プロレスの技。
気になって調べてきました。
そのため、格闘技の知識は少々ありますよ。
従って、こちらを使って、ダガーがない今戦います――。
聖なる武器――ダガーを奪った幽霊の背後を取った崇剛は、大きく振りかぶって、拳を悪霊の背中へ向かって勢いよくねじり出した。
「ぐはっ!」
「ナックルパンチです」
崇剛に打破された部分を前へ突き出し、ブーメランのように背をそらし、樫の木へ向かって悪霊は宙を横滑りし始めた。
衝撃で奪われた聖なるダガーが、悪霊の右手から夜空へ向かって、縦に回転しながら飛び上がった。
ダガーが落ちてくる間に、迫りくる他の幽霊たちにも、崇剛は次々にシルバーリングを食らわせ、敵の勢いが怯んだ隙に、
シュリュシュリュ……。
縦に回転しながら落ちてきた、ダガーの柄の軌跡を読み取る。
(今です)
瞳の上あたりで、向こう側から細い線を描くように刃先が迫ってきた。このまま握ってしまうと、ダガーで手が切れてしまうが、千里眼の持ち主は絶妙なタイミングで、刃と入れ替わりで次に立ち上がってきた、立派な装飾がされたシルバーの柄をいつも通り逆手持ちした。
崇剛の内で奏でられていた音楽は、ティンパニの強打で曲調が変化した。ソプラノとテノールのフォルティッシモで歌い上げる。
Sors salutis/救いの運命よ。
Et virtutis/美徳の運命よ。
Michi nunc contraria/それらは背を向け、遠ざかる。
Est affectus/心を高ぶらすもの。
Et defectus/失望させるもの。
Semper in angaria/常に女神の意のままに。