血塗られた夜の宴/2
いつでもどんな時でも、三十二年間ずっと、この三人でやってきたのだ。会話の流れもデジタルに記憶している。
瑠璃がした『お主、何しに参ったのだ?』の質問。
そちらへ対しての返答で、ラジュ天使が口にする可能性が一番高い言葉は――
『今日は、〇〇で、瑠璃さんを手中に収めようかと思いましてね?』です。
聖女は天使に百年間ずっと口説かれっぱなしで、崇剛が罠を仕掛けて聞き出そうとするたび、少女は憤慨して地団駄を踏むのだ。それを見るのが、崇剛の趣味のひとつなのである。
従って、今目の間にいる瑠璃も偽物であるという可能性が87.98%――
目の前にいる、ラジュ天使が偽物であるという可能性は上がり、85.43%――
これらから判断して、以下の可能性が、92.34%出てきます。
彼らは、邪神界の者である――
急いでいるのに、会話が途切れてしまったことにイラついて、瑠璃が空中で地団駄を踏んで憤慨した。
「遊んでいる場合ではなかろう!」
幼い少女の声が、死を意味する霊界に鋭く響き渡った。激情という名の獣が暴れ出しそうになったが、冷静な頭脳が氷の刃で見事に押さえ込む。
涼介が私の気持ちを知ってしまったことで、邪神界の者が作戦の中に、瑠璃を使うという可能性が98.98%――
さっそく使ってきたみたいです。
冷酷なほどどこまでもデジタルだったが、自身の守護霊に特別な感情を抱いてしまった、策士の思考回路が少しだけ乱れた。いや、まるで誰かに操られているように0.01の狂いが生じた。
屋根の上――外に立つ全身白の服を着た男。大きな三日月型の刃物――大鎌が鋭い光を背中で放つ。
何か重要なことを、必要なデータとして拾い上げないまま、崇剛は敵へと向かってゆく。
私は彼女を守りたい。
彼女を……邪神界が狙ってくるという可能性は87.56%――
そちらの可能性を低くするためには……。
私ひとりで乗り切れる方法を探し出せばいい。
ここまでの思考時間、約一秒。偽物の瑠璃が遊んでいないで、ラジュの言うことを聞けと言う言葉に、崇剛はこう返す。
「なぜ、そのように思われるのですか?」
戦うことを決めた聖霊師は、素早く作戦を立ててゆく。
勝つために必要なもの。
肉体を持ったままでは、敵に勝てるという可能性は38.76%――
非常に低い……。
ですから、先ほどの幽体離脱を使います。
しかしながら、私だけでは発生させられません。
ですから、そちらを発生させる方法を考えなくてはいけません。
三日と十一時間十九分三十二秒前。
すなわち、四月十八日、月曜日、十三時四十三分二十六秒過ぎ。
旧聖堂の時と同じ方法を使います――
その時だった、ラジュと瑠璃の間――少し離れた背後に、白い着物を着た女が現れたのは。
死装束の女――。
冷静な水色の瞳を一ミリたりとも動かさず、優雅な笑みで心の変化を隠しながら、崇剛は出てきた事実と向き合った。
彼女が関係しているという可能性が出てきた。
同時に以下の可能性も出て来た。
死装束の女は、邪神界であるが67.65%――
「崇剛! お主!」
「早くしていただけませんか〜?」
瑠璃とラジュの声が次々にかけられるが、それに引きずり回されることもなく、惑わされることもなく、今ほしい情報へと手を伸ばす。
崇剛は千里眼のチャンネルを死装束の女に合わせた。美しい顔立ちの女の唇が微かに揺れる。
「早く、助けて……」
瞬が聞いたものと同じ響きが、崇剛にもはっきりと入り込んできた。
四月十八日、月曜日。十七時十六分三十五秒過ぎ――。
あちらの時と言葉が違い、『早く』が加わっています。
さらに、今は瞬ではなく、私に話しかけてきています。
従って、何か状況が変わったという可能性が78.45%で出てきます。
何があったのでしょう――?
月明かりもない闇で、吹く風もない。飲み込まれてしまいそうなほどの静寂。この世とあの世がつながる丑三つ時。
人間は崇剛ひとり。
目の前には幽霊が三人。
そうして、誰にも知られていない、もうひとり――
血のような赤い目ふたつにも、死装束の白は映り込んでいたが、真っ黒な灰になるまで燃やし尽くしそうなのに、一瞬にして氷河期にするようなほど冷たく、あらゆる矛盾を含んでいた――
唯一肉体を持ち、死の危険がある崇剛は恐怖に駆られることなく、あごに手を当てたまま狙いを定めた。
(死装束の女の情報は欲しいのです。ですが、結界があるため、彼女から私へとは近づけません)
女が邪神界である可能性が高いのならと思い、崇剛は手前に浮かんでいるラジュと瑠璃は偽物だと、断定に近い数値まで一気に上がった。
崇剛は振り向くことはせず、部屋のドアに神経を傾ける。そうなると、
瑠璃は未だ来ません。
これらから導き出せること、そちらは……。
本物と鉢合わせするという可能性が非常に低く、7.56%――
従って、ラジュ天使と瑠璃は敵が手を下したか、別の何かがあって、私の元へ来れない。
ですから、誰も私を助けてくれる人がいない……かもしれない。
屋根の上で風になびく、くすんだ山吹色の髪には、光る輪っかはなく、立派な両翼もない。男のことは天使とはとても呼べなかった――
千里眼の持ち主は異変に気づけない――いや気づかせないようにされて、濃密な時は過ぎてゆく。未だ結界の向こうで、自身を罠へと誘い込むように、ラジュと瑠璃が言葉を重ねる。
「早く来ていただけませんか〜?」
「何をやっとるのじゃ!」
催促の嵐の中で、崇剛はひとりきりでも戦いに立ち向かえる可能性を導き出す。
今のまま戦いに挑んでも勝てる――生き残れるという可能性は39.98%――
負ける――死ぬという可能性が60.02%です。
ですが、死装束の女の情報を逃すわけにはいきません。
従って、勝てるという可能性を上げましょう。
死に向かってゆくように、冷え切った床が素足から体の熱を奪ってゆく。
まずは、私の思考回路を変更――します。
同じ肉体を持つ者に対してならば、私の考え方で十分通用します。
ですが、霊、天使、神には、私の心の声は丸聞こえです。
従って、いつもの思考回路はできません。
なぜなら、私は記憶――情報から必要なものを抜き出し、そちらを使って可能性を小数点以下二桁まで計算し、勝つ方法の一番高いものを選び取って言動を決めています。
ですから、相手に手の内が全てばれてしまう。
従って、こちらのようにします。
三十秒ほど続いた思案をやめ、崇剛はあごから手を離した。窓枠へと身を乗り出し、優雅に微笑む。
――全てを思い浮かべない。
可能性を数値ではなく、高い低いの曖昧な範囲にする。
指示語を使う。
こちらで、勝てるという可能性は上がり、88.89%――
それでは、始めましょうか――。
戦闘開始となると、偽物のラジュの問いかけに、桔梗色のパジャマに身を包む、策略家神父はやっと答えた。
「えぇ、構いませんよ」
さっきからずっと背中に隠し持っていた、右手の中にあった霊界でのダガーを左手に持ち替えた。利き手である右手を窓の外へ向かって伸ばし始める。
その時、雲に隠れていた月が姿を現し、景色がミッドナイトブルーから薄闇に変わった。
崇剛の冷静な水色の瞳が、闇夜を照らす銀の月影を浴びると、神父の体の内側で堂々たるティンパニが鳴り響いた。
カール オルフ、カルミナ ブラーナ。
舞台形式のカンタータが流れ始める。
フォルテの聖なる声が荘厳と神聖を作り出す。
O Fortuna/おお、女神。
Velut luna/まるで月のような。
指先が窓枠――結界から外へ出て、手のひらもすり抜け、手首もかいくぐり、ひじが夜風に触れようとした。
流れ続けるメロディーは弱拍のはずの二拍目で、故意のフォルティッシモでシンバルが、全身の感覚を一気に目覚めさせるように激しく襲いかかった。同じようにフォルティッシモの幾重の声がうねる。
Statu variabilis/変化の象徴である月。
空から神がかりな畏敬がスコールのように降り注ぎ、衝撃的なことが起きる前触れのように全てがスロモーションになった。
その時だった――
脇から別の手が素早く伸びてきて、部屋の中に体を残したままの、崇剛は外へ引きずり出された。
「っ!」
断崖絶壁から海へ向かってダイブするように、頭から真っ逆さまに、庭の芝生の上へ向かって落ち始めた。
崇剛が首だけで後ろへ素早く振り返ると、自分の体が窓枠の向こう側で、床に崩れ落ちてゆくところだった。
(幽体離脱……そちらの可能性が高くなった!)
肉体から魂が引き抜かれて、霊体になってしまった、聖霊師が再び前を向くと、冷静な水色の瞳に地面が迫ってきていた。
霊界は心の世界――。
ラジュ天使が以前おっしゃっていた、霊界の重力は物質界の十五分の一。
従って、あちらが出来るという可能性が非常に高い――。
バランスを崩したまま、頭から地面へ激突しそうだった。左手に持っていたダガーを、自分の右手首をつかんでいる、悪霊の手を振り払うように切り込む。
「ウギャァ〜!!」
叫び声を上げた幽霊が、背をそらすように自身から離れてゆくのを見送る。あと数十センチで芝生にぶつかるというところで、自由になった右の手のひらで、地面を斜め後ろへ向かって押し返した。
逆さまだった体――霊体が反動で一旦山を描くように後ろへ向かって飛び上がる。斜め上に持ち上がっていた足が、逆上がりの着地をするように、地面を目指して降り出した。
就寝時の姿だった崇剛の、長い髪はいつの間にかターコイズブルーのリボンでまとめられていた。
地面へ真っ逆さまに落ちていたが、直角の角度をゆっくり取り、最後にはいつも通り背中で揺れていた。
足できちんと地面に降りたった、線の細い体躯は瑠璃色のタキシードを着て、白い細身のズボンに茶色のロングブーツで優雅に佇んでいた。
心の世界では自身が望む服装へと自然と変わるようにできている。神父、聖霊師、メシア保有者――いくつもの顔を持つ、青の貴公子という名が相応しかった。
崇剛の内側で未だに流れ続けている、音楽と魔術の融合曲――カルミナ ブラーナ。
イントロダクションが終わり、細かく静かに刻まれてゆくストリングスの調べに合わせ、ピアニッシモでじわりじわりと、死という恐怖を警告するように、月の満ち欠けを人の輪廻転生に見立てた詩がささやかれる。
Semper crescis/満ちては。
Aut decrescis/缺けてゆき。
Vita detestabilis/生きざまは忌まわしく。
聖なる歌声が同じメロディーラインを、音ひとつひとつを絶妙に強調しながらリピートしてゆく。
Nunc obdurat/今は無情に。
Et tunc curat/そして、癒され。
Ludo mentis aciem/魂の目に戯れを。
Egestatem/貧困さえ。
Potestatem/権力さえ。
Dissolvit ut glaciem/氷のごとく溶かしさる。
運動を普段からあまりしない崇剛だが、なぜかいつもより――いややったことのない動き――片手で芝生に一度バウンドし、姿勢を立て直して両足から地面に優雅に着地してみせた。
相手がふたりだけとは限らないという可能性が非常に高い――
そちらのように思っていましたよ。
急に重力をほとんど感じなくなった崇剛の腰元には、物質界のダガーはなく、鞘のみが下がっていた。
霊と同じ戦場に立つために、右手をわざと差し出して肉体と魂を引き離した。それが崇剛の最初の作戦だった。
霊界は心の世界。
すなわち、自身の思ったように、動けるという可能性が非常に高い。
霊界の重力は、物質界の十五分の一。
従って、普段できないことができる……という可能性が非常に高い。
私は、こちらの情報を欲しかったのかもしれませんね。
『お笑い』でいうところの、前振りでしょうか――。
冷静さは持っていても、崇剛は決して保守的ではなかった。心霊刑事――国立と互角と言えるほどフットワークは軽かった。
ラジュと瑠璃は崇剛と同じ場所――地面へ降りてきて、ゆらゆらと姿を揺らしたと思うと、まったく違う姿形になった。
(やはり、偽物だったみたいです)
優雅に微笑み、崇剛は左手に持っていたダガーを、右へ二度取る仕草をして、三本に分身させた。
ひとつを鞘へスマートにしまい、二本を左右の手にそれぞれ握って、千里眼を使ってダガーの軌跡を読む――。
(そうですね、こちらでしょうか)