紅血の波紋
――――奈落の底へと落ちてゆくような闇。自分の輪郭が見えないほどの闇。
耳鳴りがするほどの静音で、身動ぎひとつするのがはばかられるような沈黙。それなのに、全員を一斉に刃物で切られたような苦痛が体中をのたうち回る。
ピチャピチャと、何か液体が落ちる音がしたあと、サラサラと風が不意に吹き抜け、それに乗せられて、いくつものうめき声と悲鳴が嵐の如く舞い上がった。
「クゥゥッッ!!」
「ウ、ウゥーッッ!!」
「キャアアッ!?!?」
「ギャァァァッッ!!」
真っ暗な視界の中で、音だけがやけに大きく浮かび上がってくる。残響が幾重にも共鳴し合うが、それは不協和音だった。
突然の出来事で、驚いて声を上げようとするが、すくんでしまって短く終わる。
「なっ!」
背中からふと、忍び寄る人の気配を感じた。足音はなく、すうっと空中を浮遊しているような怪奇音。振り向いて、正体を見極めようとすると、突然、肩に誰かの真っ白な手が後ろから乗せられた。
「ひぃっ!」
悲鳴になりかけた声が裏返りそうになる。視界の端にはっきり映り込んでいる、透き通る青白い手。
恐怖心は一瞬にして駆り立てられ、悪寒と寒気が全身を串刺しにするように貫いてゆく。
「っ!」
人の力とは思えないほど、ありえない強さで肩を後ろへぐっと引っ張られた。
「うわっ!」
悲鳴を上げると同時に、あちらこちらから青白い顔が次々と薄闇に浮かび上がった。それはまるで人魂のようだった。
髪は乱れ、長く垂れ下がり、その隙間から虚な瞳が呪い殺すかのようにじっと見つめる、あの世へ引きずり込むように。
幽霊たちは首をおかしな方向へ――関節を無視したように曲げたまま、ゆらゆらと姿を消したかと思うと、すっと現れ、距離を瞬時に縮めてくる。
上から下へデジタルな消しゴムで消したように姿をなくしては、突然現れたかのように近づく。何度となくそれを繰り返し、すぐにでも取り憑けるように目前まで迫っていた。
「ひゃあっ!」
後ろへ逃げようとする。するとそこにも、数えきれないほどの幽霊が待ち構えていた。我先にというように、消えては急に近づくをしてくる。
相変わらず首をおかしなほうへ傾け、生気という炎を消し去るような虚な瞳でこっちをじっと見ている。
血の気のない唇がひっそりと動き、か細いが脳裏にこびりつくように何度も何度も告げられる。
「返して……」
「返して……」
意識を支配するように、幾重にも響いてくる。無残に奪われた何かをむさぼるように、真っ白な透き通った手が一斉に伸びてきて、体中のあちこちをガバッと鷲づかみされた。
(う、動けない!)
四肢の自由どころか、声までもが拘束されたようだった。
あの世へと引きずり込まれてしまう、死の恐怖。彼らはみんな恨めしげな瞳で、こっちを見ていて、誰も口を開いていないのに、悲痛の叫びが忍び寄る。
「ぎゃああぁぁっ!」
「うぎゃぁぁぁっ!」
「うわぁぁぁぁっ!」
耳をつんざくような断末魔の暴徒が襲う、凶器を化して。自分は末恐ろしくなり、喚き声を思わず上げた。
「う、うあぁ〜〜っ!!!!」
自分の命を奪うかのように、どんどん伸びてくる青白い手は、手足だけではなく、とうとう首へとかけられた。
「ぐっ……げぉっ! ぐっ!」
窒息の息苦しさは、底なし沼へ沈められるような感覚だった。闇を背景とした大量の幽霊たちをキャンバスとして、鮮血が赤い染みでギザギザの波紋を、ひとつ、ふたつ、みっつ……と、ポトリポトリとペンキが落ちるように描かれてゆくと、血生臭い匂いが、むせるように立ち込めた。
「ぬっ!」
吐き気に襲われ、腕で口と鼻を思わずふさいだ。紅血の波紋は重力に逆らえず、おどろおどろしく下へどろっと垂れてゆく。何重にも広がり、視界は鮮血で満たされていき、やがて不気味な赤一緒に染まった――――
*
――――薄暗い部屋で男は急にぱっと目を覚ました。
「っ!」
嘘みたいに静かで誰もいない。
「何だ……?」
見慣れた空間のはずなのに、縛り付けてくるような闇に浸食され、いつもより薄暗く感じた。重たい空気が漂っているようだった。
男は上半身だけ起こし、カーテンの隙間から街頭の明かりがのぞいているのを見つけて、いつも通りだと知ると、胸をほっととなで下ろした。
「夢……はぁ……はぁ……」
悪夢という言葉だけでは、到底言い表せない恐怖で、呼吸が激しく乱れていた。左下へ視線を落とすと、乱れた黒髪の女の顔があった。
「千恵……」
男は妻の名前を安堵のため息とともにつぶいたが、冷や汗で全身が水浴びでもしたかのように、びっしょりだった。
汗で張りついてしまった前髪を、手でグシャグシャとはがし、布団からそっと抜け出た。
発汗で熱の奪われた冷たい首に手をやって、顔をしかめる。
「のど、乾いたな……」
歩き慣れた畳の上を、手持ちの燭台に火をつけることなく、妻を起こさないようふすまをそっと開けた。小さな台所の奥にある、銀色の蛇口を目指す。
男の足音は畳をするものから、床をピタピタと歩くものに変わり、シンクにつくと、そばに逆さに置いてあった、コップを慣れた感じで手に取り、蛇口をひねった。
男はお勝手の小さなすりガラスを見つめて、さっきの夢のことをぼんやり考える。
「何なんだ……。最近見るようになって……。いや毎晩見る……」
音がおかしかった――。いつも通りにサアッと水が流れるのではなく、何かが引っかかっているように、ごぼごぼと鈍い音を立てている。
「ん? どうした……?」
男が蛇口へ視線を落とすと、コップの中が真っ赤な血で満たされていた――。水道から血が出てくる。さっきの夢と合わせると恐怖心が煽られ、男は思わず飛び上がらんばかりに叫んだ。
「うわぁっ!」
慌てて離したコップが、シンクにがたんと落ちる。まだ血が流れ出てくる蛇口を素早く閉めて、後ずさろうとすると、ダイニングにテーブルにどんとぶつかり、行手を阻まれた。
誰もいないのに、自分を嘲笑うような女の声がにわかに大音量で体中に爆風でも吹いたように響いた。
「あははははは……っ!」
その時、背後から、
ズズーッ、ズズーッ!
と、何かを引きずるような音が聞こえ、気配が色濃くなった。男は恐怖で表情が凍りつき、両手で顔を思わず覆いそうになった。
「――また見たんですか?」
馴染みのある女の声で、男は我に返った。恐る恐る後ろへ振り返ると、長い黒髪の女――妻が薄衣の着物を着て、心配そうな顔をこっちへ向けていた。
「いや……夢ごときに惑わされるなんて……」
自分自身を恥じて、男は首を横に振って気を取り直した。妻は片足を引きづりながら、板の間を歩いてきて、男の頬を優しくなでる。
「すごい汗……」
「…………」
妻の手の温もりがさっきの死の恐怖を思い出させ、男はぜいぜいと息を返しただけだった。
昼間は骨董屋を営んでいるが、客はほとんど来ず、暇つぶしのために新聞を読む毎日。
そうして、夜になると決まって、紅血の波紋の夢を見る。何が関係するのかさっぱりわからない。疲れているのかと思って、早めに眠るようにしても、変わらないどころか、ひどくなるようだった。
頻度も最近増してきて、眠れない日々が続き、何者かによって精気が奪われていくように弱っていた。
妻は夫の肩をしっかりと抱き寄せ、男が落ち着くのを待つ。目に見えないものが迫りくるような静寂が広がっていたが、やがて女が口を開いた。
「丘の上にある、ベルダージュ荘を訪ねてみてはいかがですか?」
「ベルダージュ荘?」
心霊現象などあるわけがないと思っていた、男は妻の顔をまじまじと見つめた。妻は真剣な眼差しで見つめ返す。
「えぇ。あちらの先生は、その道の専門だと聞いたことがあります。先生なら、何かわかるかもしれませんよ」
水を飲みそびれた男は、カラカラに乾いたのどをゴクリと鳴らした。
「そう……だな。明日、訪ねてみるか」
シンクへ視線を再び落とすと、血などどこにもなく、カラのコップが転がっているだけだった。