ダーツの軌跡/4
主人は左腕も壁について、執事が逃げられないように、ロイヤルブルーサファイアのカフスボタンで両側から拘束した。
崇剛はさらに顔を近づけ、涼介の瞳の奥をじっと見つめる。主人と執事という主従関係を思いっきり匂わす、威圧感のある優雅な声で言ってのけた。
「『俺』が『お前』のこと知らないわけない『だろう』――?」
今日どこかで聞いたことがある言葉だったが、心臓がバクバクと早鐘を打っている執事は気づかなかった。
感情を冷静な頭脳で抑え込める崇剛は、涼介に噛みつきそうな位置でエレガントに微笑む。
本日、十四時三十八分二十五秒過ぎ――
私とあなたが会話を始めてから、三十一番目――
あなたが私に言った言葉と一字一句同じです。
やはり言い慣れませんね。
何重にも罠を仕掛けられ、涼介はしどろもどろになりながら、崇剛に情報を渡してしまった。
「ど、どうしてそれを知ってるんだ?」
混乱している頭で必死に考えようとする、毒の話を瞬に教えたと、崇剛が知っている原因を。
(瞬が話した……? いや、それはない。『崇剛には言うなよ』って約束した。あいつは約束はきちんと守る。千里眼……でも、使わないって、お前さっき言ってたよな。本当にどうなってる?)
情報引き出しに成功した崇剛は、壁ドンをしたまま優雅に微笑んだ。
(やはりそうなのですね。瞬から聖霊寮へ情報が渡り、国立氏が私に質問してきたという不確定という可能性から、事実であるという可能性に変わり、そちらの可能性が99.99%です)
確認するためにわざと質問されたと気づいていない涼介を、崇剛は壁ドンから解放した。執事が聞いてきたことを無効化する言葉を、策略的な主人は口にする。
「先ほど約束しましたよ。許しを得たいのなら私の言うことを十個聞くと。ですから、あなたからの質問を私は受けつけません。まだ七個目です。あと三つ残っています」
「わかった」
少し落ち着きを取り戻してきた執事を、惑わせようと崇剛は今までの情報を的確に脳裏の浅い部分に引き上げた。
(本日、十四時三十八分二十五秒過ぎ――。私のリボンが解け、あなたの頬に私の髪が落ちた。そちらの時、あなたは戸惑っているように見えた。ですから、このようにしましょう)
崇剛は髪を縛っていたターコイズブルーのリボンを、慣れた感じで抜き取った。急に女性的な雰囲気に変わった崇剛は、残り三つでスズランの毒についての懺悔を行う。
「私のほうへかがみ込んで、目を閉じてください」
同性同士なのに、なぜか異性を感じさせられる神秘的な主人へ近づいて、さらには視界の自由が奪われる。正直な執事は緊張で口の中が一気に乾いた。
(ど、どうして、髪をおろしたんだ? 何をする気だ?)
いつもは自分が上から見下ろす背丈なのに、椅子に座らされてしまって景色は逆転。
主人の冷静な水色の瞳は猛吹雪を感じさせるほど冷たく、自分の瞳へ視線は降り注がれていたが、思いっきり上目遣いで見ていたが、崇剛の優雅な声で注意が告げられた。
「もう一度言います。私のほうへかがみ込んで、目を閉じてください。こちらは同じことですから、カウントはしません」
「わ、わかった」
執事がかがみ込むと、涼介の顔がちょうど、崇剛の腰前のあたりになった。主人のズボンのチャックを間近で見ながら、執事は想像する。
今までの崇剛の言葉――。
私をあなたの中へ入れてもよろしいですか?
私自身をです。
目を閉じてください。
策略的な主人と違って、物事の順番がめちゃくちゃの執事は、今思い出さなくていいものまで思い出してしまった。主人の寝室で、優雅な声でささやかれた言葉――。
私が愛しているのは、あなたかもしれませんよ。
主人には一度注意された。その腰元の前で目をつむることは、拒否ができない。まださっきの十戒とやらの拘束は効力を発揮しているのだから。
涼介はゴクリ生唾を飲んで、素直にまぶたを閉じた。ガス灯の燃える音が遠くで微かに聞こえる。バクバクと自分の心臓の鼓動がやけにうるさい。
自身が予想しているようなことが起きないように、執事は祈っていたが、真っ暗な視界で、かちゃかちゃという金属音が耳の中に入り込んできた。
(何の音だ?)
よく思い出す。金属のありかを。距離感を。そうして、涼介は音の出どころを突き止めた。
(ベルトのバックル!? それって、服ぬいで……!?!?)
衝撃的すぎて、執事の頭の中は真っ白になりそうだったが、主人の優雅な声が現実へ引き戻した。
「触りますよ。それでは失礼」
「んんっ、んん!」
崇剛の神経質な指先で、涼介の口は無防備に開かれ、そこへ向かって長い棒状のものが入ってきた。
(これって、まさか、お前の!)
女性的な雰囲気なのに、口の中に入っているものは男性を感じさせる。両性具有みたいなアブノーマルな世界へ強制的に連れていかれたが、涼介に抵抗するすべがなかった。
(な、何をして……!)
さらに、屈辱的な要求が、遊線が螺旋を描く優雅で芯のある声で下された。
「それでは、こちらを舐めて味わってください」
約束してしまった以上、主人に執事は逆えず、舌を動かしたが、涼介は違和感を抱いた。
(ん? これってどっかで……?)
そこで、崇剛が何かを堪能するような、悩ましげな吐息が頭上から降り注いだ。
「ん〜! あぁ〜、はぁ……。癖になるかもしれません、ね」
ロングブーツのかかとの音が遠ざかってゆき、止まると同時にギシっとソファーの鳴る音がした。主人はもう近くにはいない。それなのに、涼介の口の中には相変わらず長いものが入っていた。
(この匂いと味って……さっき……?)
真っ暗な視界のままで、妙な沈黙が部屋に広がったあと、だいぶ離れたところから、主人の優雅な声が浮き立った。
「十個終りましたから……」
そこまでは、いつもの冷静な崇剛の物言いだったが、その後、笑い過ぎてどうしようもなく、声が途切れ途切れになってしまった。
「もう……自由にして……いただいても……構いませんよ。数えて……いなかったのですか?」
「ん?」
涼介が目を開けると、ソファーの上に優雅に腰掛けて、大爆笑している主人がいた。
身の拘束は解かれたのに、まだ続けている執事がとても滑稽に思えて、主人は何も言えなくなり、肩を小刻みに揺らすだけだった。
「…………」
神経質な手の甲は中性的な唇に当てられ、まだまだくすくす笑う。
(こちらは全ての罠に対して言えることですが、私の罠から涼介が逃れられる方法はありますよ。断るという術があります。自身で気づくまで教えませんよ)
素直な執事はそれに気づかず、策略的な主人の罠に毎回思いっきりはまって、おもちゃにされていたのだった。
「ん?」
口からはみ出しているものを抜き取り、涼介はそれが何なのかつぶやいた。
「チーズスティックパイ……」
盛大にため息をつきながら、悪戯が過ぎる神父を、執事はきっとにらむ。
「お前また嘘ついて……」
崇剛はサングリアを飲み、余裕で足を優雅に組み替えた。
「ついていませんよ」
策略家は思う。勘違いをしたのは、素直な執事なのだと。元はと言えば、執事は毒を人に盛ろうとしたのである。
ローチェストの上に置いてあった罠――チーズスティックパイのカクテルグラスを乱暴につかんで、崇剛の横までツカツカと歩いてゆき、涼しい顔をしている神父に、涼介は詰め寄る。
「いや、ついた! 神父が嘘をつくってどうなんだ!」
主人が逃げ道を作っていないはずがなかった。ここから、罠の全貌が明らかになる。
「私が言った一番目の言葉、『私をあなたの中へ入れてもいいですか?』は、以下の意味です。『私の指をあなたの口の中へ入れてもいいですか?』、ですから、嘘は言っていません」
花冠国語は面白い言語だと、崇剛は思う。名詞をいくつか抜かしても、文章として成り立ってしまうのだから。それと同時に、意思の疎通を困難にさせ、誤解を生みやすくするものでもある。
仁王立ちの涼介は見逃さなかった。
「いや、まだ嘘をついてる。それだけじゃないだろう、今のは」
ソファーの肘掛けに気だるくもたれ、冷静な水色の瞳は、燃え上がるようなべブーブルーの瞳をちらっと見やった。
「『私自身』ですか?」
「そうだ。それって、あれのことだろう?」
「私の体のどちらの部分も、『私自身』だと思いますが、違いますか?」
アーミーブーツで床をカタカタ鳴らしながら、執事は主人の前を通り抜けてゆく。
「ベルトのバックルの音は? ズボンを脱いだのかと思った」
「私の肘が当たっただけです」
しれっと答える崇剛の心の中は、
(わざと当たるように、肘を内側へ少し曲げましたよ)
ソファーの空いているところへ、涼介はどさっと身を投げた。
「喘ぎみたいなのは何だ?」
そこに何もないのに、演技をするのが嘘だと、執事は言いたかったが、崇剛は手に持っていたワイングラスをかかげた。
「サングリアを飲んだだけです」
「癖になるとか何とか言ってた」
「あなたを罠にはめながら、お酒を飲むのが癖になるという意味です」
いけない快楽に溺れそうな崇剛は優雅に微笑みながら、残り少ないワイングラスを傾けた。策略的な主人の頭脳を使って、全て言い返されてしまった涼介は、チーズスティックパイのグラスを乱暴にテーブルへ置く。
「この、偽証神父!」
執事の暴言を聞いたところで、崇剛はくすくす笑いながら、カラのグラスをコースターに戻して、優雅にお礼を言おうとした。
「ありがとうござい――」
そのまま、糸が切れたように涼介のほうへ倒れてきた。右肩にもたれかかった主人にびっくりして、
「な、何だ!? こ、今度はどんなBL罠――!」
涼介が聞き返そうとすると、崇剛はそのまま執事の体の前面を滑り落ちてゆき、解いてしまった紺の長い髪が淫らに絡まった、神経質な横顔を涼介の膝の上で見せた。
「……ん」
健やかなスースーという寝息が聞こえてきて、涼介の警戒心は一気に氷解した。
「……寝てる。飲み過ぎ?」
テーブルの上に乗っているカラのデキャンタ三個を見つけて、あきれた顔をする。
「お前、さっきから様子がおかしいと思ってたけど……。やっぱり酔っ払ってたのか!」
膝枕をしている主人を見下ろして、執事の文句は続いてゆく。
「神父は過剰な飲酒はしないんじゃなかったのか? 珍しいな、お前が信条を破るなんて……。昼間、俺が言ったことを気にしてるのか?」
動揺している主人など今まで見たことがなかった。どんな時でも完璧と言わんばかりに、物事をこなしてゆく崇剛だった。
自分と同じようにやはり人間なのだ。そんな彼を傷つけたのかもしれないと思うと、
「仕方がない、運ぶか」
メシアの影響でよく倒れる主人を、執事は慣れた感じでお姫様抱っこし、崇剛の寝室へ運び出した。
*
目的の部屋へ、涼介が崇剛を抱えてやってくると、勘が働く執事は違和感を強く持った。
「ん? ドアが開いてる? 変だな? 崇剛はドアをきちんと閉めるだろう?」
冷静な水色の瞳がまぶたから姿を現すことはなく、今も固く閉じられている中性的な主人の顔をじっと見つめる。
「どうなってるんだ? さっきからおかしいことが多い……。まぁ、このほうが中に入りやすい」
両手がふさがっている涼介は、右足でドアを部屋の中へ蹴り入れて、ベッドまで運び、崇剛をそっとシーツの上に下ろした。
腕を抜き取りあとは帰るだけとなると、優雅だが小さな声が男ふたりきりの部屋でさざ波を立てた。
「……さん、……ます。……さん、愛しています――」
主人の寝言を聞いて、涼介はベッドの隅に静かに腰を下ろした。意識のない崇剛の神経質な寝顔を、月明かりの中だけで真剣な眼差しで見つめる。
「お前また、そんなこと言って……」
両手を膝の上で組み、やるせなさそうにきつく握りしめた。
「だから、お前の気持ちに気づいたんだ」
涼介はベッドからそっと立ち上がり、崇剛に毛布を優しくかける。
「お前、神父になんかならなくてよかったんじゃないのか?」
青白い月明かりでも、主人の頬が滑らかなのがよくわかった。
「それとも自生するためなのか? なったのって……」
レースのカーテンを少しだけ開けると、一筋の光が部屋へ差し込んだ。それはとても寂しげで、涼介の視界は涙でにじむ。
「どうして、そんな切ない人の想い方をするんだ?」
涙がこぼれないように執事は顔を上げて、星空をしばらく仰ぎ見ていたが、顔を再び落とし、策略的な主人に向かって、
「この、ロリコン神父!」
一言文句を言って、涼介は部屋から出てゆく。アーミーブーツは静かに廊下へ出て、崇剛の寝室のドアを閉めると、廊下を照らすガス灯の下で壁に手をついて、誰もいないことを確認すると、今の暴言を真偽にかけた。
「ロリコン……違うな。相手は百年も生きてる。百八歳、年上……マザコン?」
千里眼のメシアを持つ聖霊師の性癖を言い表す言葉がなく、涼介は頭を悩ませる。
「それも違う。同じ歳だった時もあったんだろう?」
生きている世界の法則が違うふたり。子持ちの執事は想像してみる。
「崇剛だって、子供の頃があっただろう? 三十二年間ずっと一緒……? そうだな? 話もできて姿も見える。でも、触れられない」
主人がさっきは口にしていなかった、相手の立場が一人きりの廊下に舞う。
「幽霊……スピリチュアル コンプレックス……略して、スピコン? それが合ってるな。崇剛の性癖はスピコンだ。ってことは、さっきのは……」
執事は主人の寝室の前で、ささやき声ながら思いっきり暴言を吐いた。
「この、スピコン神父!」
気分がスッキリした涼介は、両腕をグーっと大きく上へ伸ばして力を抜いた。
「俺も寝るか。瞬、一人で寂しい……」
そこで、父は息子のことで、今度は別の違和感を抱いた。
「いや、瑠璃様がいつもそばにいるからな、寂しくないだろう。でも、どうして、瑠璃様は瞬のそばにいつもいるんだ? 崇剛の守護霊だろう?」
おかしなことは数あれど、無事に一日が終了したことに、涼介は穏やかで平和な気持ちに満たされ、少しだけ微笑み、廊下を歩き出した。
*
その頃、部屋の中にいた主人は、ベッドからすうっと起き上がった。あごに手を当て、冷静な瞳でドアを凝視する。
(私の罠にここまではまっていただいて、感謝するとともに情報提供ありがとうございます。涼介が私を寝室へと運びやすいように、ドアをわざと開けておいたのです。正体をなくすほど、私はお酒を飲みませんよ)
シーツを滑る音が寝室にそよ風のように微かに響き、崇剛は床に両足をつけた。
私と涼介の共通の知り合いで、私が『さん』づけで名前を呼ぶのは『瑠璃』だけです。
すなわち、私が言った寝言もしくは、夢魘は――
瑠璃さん、愛しています――です。
そちらを涼介が聞いて、私の気持ちに気づいたという可能性が99.99%――
神経質な手で乱れた髪をかき上げ、静かに床の上を窓辺へ向かって歩いてゆく。
(寝言、夢魘では仕方がありませんね。過去――事実は変えられません。困りましたね。敵――邪神界に弱点を握られないように隠してきたのです。ですから、想い浮かべもしませんでしたし、神への懺悔もしませんでした。もちろん、どなたにも話していません。心が読み取れる霊である瑠璃さん――本人も知らないことです。ですが、明るみに出てしまいました)
冷たい窓ガラスへ手を当てて、西へだいぶ傾いてしまったハーフムーンを見上げる、崇剛の水色をした瞳は涙でうるんでいた。
(私を苦しめるために、邪神界は彼女を標的にしてくる――という可能性を高くしてしまったのかもしれません。私が特別な感情を抱いたばかりに……。守護霊である彼女を守ることは、現世の私にはできません)
神経質な手は力一杯握りしめられる、自身が無力であることを悔いてもどうにもならないと痛いほどわかっていて。
(彼女が傷ついてしまう……かもしれない。主よ、私はどのようにすればよいのでしょう?)
冷静な頭脳の持ち主。しかし、彼にもきちんと感情はあるのだ。それは激情という名の獣。
抑えが効かなくなり、水色の瞳から神経質な頬を、一粒の涙が伝っていった。落ちた床にギザギザの波紋を描き、窓から入り込む月明かりが線の細い崇剛の影を白いシーツへ落としていた。
そんな屋敷の主人のいる部屋――ベルダージュ荘の屋根の上に、座り込む人影がひとつ。夜風に揺れるボブ髪を手でけだるくかき上げた。
「――出エジプト記ね」
指先を顔の前に持ってくると、不思議なことにマスカットが一粒現れ、口の中に放り込んで、シャクっと噛み砕くと、甘くさわやかな香りが広がった。